今日も定時ダッシュ -2ページ目

マチネの終わりに

 西谷弘監督は、このブログで都度申しておりますが、もうちょっと評価されてもいいハズで、フジテレビ専属というポジションと「アマルフィ」でミソをつけてしまった、というのが評価されない二大理由ではないかと思う。あとこの人は是枝裕和監督のようにあまり個人的な思想を映画に展開しないので、なんかそういう、映画で人生勉強したい人たちには受けが悪いのかもしれない。

 

 しかし、ひと昔前ならハリウッド映画の秋の風物詩みたいな恋愛映画、男は天才ギタリストで女はフランスで働くジャーナリストで父はフランス映画監督で当て馬の男はニューヨークのウォール街でかせぎまくる経済学者でー、なんて、30年前のボーイズラブみたいなてんこもり設定の恋愛映画なんぞ西谷監督でなければ絶対見なかっただろう。なんというか、そういうアラフィフのオッサンにとって半笑いでもしなければとても受け入れられない設定の映画を、これだけしっかり見せているのだから、やっぱり西谷監督は出来る人だと思う。

 

 もうストーリーそっちのけでシーンが美しい。福山雅治と石田ゆり子のシワやタルミさえも美しい。こういうのって監督だけの手柄ではなくてカメラマンの力量とか美術スタッフとかあるのでしょうが、色々ひっくるめて西谷演出が全編にわたって画面を美しく引き締め、これまた全編に流れるギターが心地よく耳に響く。こんな、自分の身の上に全くカスリもしない映画なのに、最後の福山雅治の演奏シーンは泣いてしまった。まあオッサンだから涙腺も脆いってことで。

 

 おそらく、原作はもっと心理描写が深くて、それこそが肝なのだと思うが、文章と映像はどうしても見せ方が変わるもので、特に心理描写を映像化するというのは難しいことだと思う。この映画では、嫉妬に狂うマネージャが大雨でメガネに水しぶきが飛ぶシーンや、福山雅治が師匠の形見の十字架を握り締めた顔を鏡に映したり、冒頭のスペイン料理屋で微妙に福山雅治の視線を遮る他の人物のもどかしさとか、とにかく全編にわたってストーリーや心情を映像化していて、そういうシーンの作り方が自分が西谷監督の映画を面白いと思っている所であります。

 

見えない目撃者

 比べることではないのですが、個人的には「JOKER」より面白かった、望外の映画でありました。

 ヒロインの吉岡里帆は美人だけど地味なイメージであまり印象に残らないタイプで、今この感想を書いている時点ですでに顔を思い出せない。けれど樹木希林が生前に、中島知子(の洗脳騒動の時)を評して「くせのない美人なので映画に溶け込めるから役者向き」と語っていたことがありました。そういう観点でいえば吉岡里帆はとても役者向きで、こういうサスペンス映画でも邪魔にならない美貌を持っていると思います。盲目でトラウマを抱えたヒロインにピッタリでした。ピッタリと書いてて、でもやっぱり顔が思い出せない。

 この映画では小道具の使い方がとてもうまく、事故で失った弟の遺品やスマホなど、ある時はさりげなく、ある時はあからさまに配置して、サスペンスを盛り上げるべくシーンに溶け込んでいる。地下鉄のシーケンスのスマホの使い方は、この手のグッズに乗り遅れ気味なオッサンとしては、「今こそサスペンス映画も次世代やね」みたいな関心をしてしまった。

 映画の途中で、あきらかに役柄と役者が釣り合っていないシーンがあり、これは後々ああなってこうなるワケですが、肝心なのはストーリーがバレることではなく、ストーリーがバレても、観客のテンションが途切れずに持続することで、映画の展開より少し先に客にコレを知らせることで、新たなマクガフィンになっている。

 犯罪が明るみになるドローン撮影での容赦なさや、ゴアも含むアクションの見せ方のエグさなど、この映画のサスペンス描写はかなり徹底的にヤっちゃってます。元は韓国映画のリメイクだそうで、やっぱりこういうのは韓国上手いよなーと思う。

名探偵ピカチュウ

 ゲームボーイのドットの荒いグラフィックから誕生したポケモンが、30年以上が経過してハリウッド実写(?)映画というこの時間の流れについて、よくもまあここまで粘ったものだと思う。子供向けのゲームやアニメーションは、基本的に「いつか卒業するもの」で、大人になってから懐かしく思い出すことはあるにしても、大人が楽しめる形で存在できるというのはそれこそ世界有数。ディズニーとガンダムぐらいじゃないかと思うのだが、ポケモンもいつのまにやらその「卒業しなくてもいいコンテンツ」になっていた。

 

 そうはいっても、ゲーム本編を待ちわびる大人というのは数少ないと思う。たいていはポケモンGOだったり、子供のつきあいだったり、まあそういう関わり方だと思うのだが、それでもね、いるのよ。子供のお供のつもりでいつのまにやらハマってしまった自分のようなポケモンおじさんが。いまんとこヒバニーの予定。

 

 で、だ。そういうポケモンおじさんがこの映画を見るにあたって唯一関心があるのが「ポケモンがどう動くか」でありまして、しかも今回は生々しい質感も携えて、このワクワク感は「ポケパーク」でポケモンが3Dになって動く姿を見る前のワクワクと同種のポケモンの新しい扉が開く感じ。

 

 で、ですな。しわくちゃピカチュウが可愛すぎて可愛すぎて、もうどうしよう。ポケモンセンターで配っているしわくちゃピカチュウシールも24日の交換日にゲットし、買うつもりのなかったパンフレットまで購入し、この映画で提示された新たなポケモンのデザインは、不気味さも含めて大賛成でありました。しかし、今回の映画に際してのポケモンセンターのグッズ展開があまりに少量&面白みのない奴ばかりで、(株)ポケモンは今回の映画を認めてないのだなと思わせる。でも今回のふさふさピカチュウ、せめてぬいぐるみぐらい出してくれたってねえ。

 

 この映画についての不満点は、わたくしが一番大好きなヤドンさんが全く出てこないことなのだけれど、これはまあ、キャラクターがコダックとかぶってる所もあり、それで外されたのだろうなあ、という感じで納得。

 

レディ・プレイヤー1

 この映画は、10代の頃にスピルバーグ映画に魅せられたかつての若者達、ということは現在は50前後の、マーケティング的には最も軽んじられてそうなオッサン共、もっと言ってしまえば「俺のために」作られた映画であります。ひさびさに映画にドップリ浸ることができた一本でした。

 

 ということで以下ネタバレしてます。

 

 

 昨今のVRが進化したようなゲーム世界が舞台の本作。2045年という近未来の設定で、30年後の世界が表現されています。正直、VR端末はあんな海女さんのゴーグルみたいな奴じゃなくてもっと着用感の無いスマートな奴になってないかと思うのだけれど、しかし金持ちはラグジュアリーな据え置き型のデバイスが用意されているように、貧富の差によって装置も色々あるのだろうと思われマス。まあいい。些細な点だ。

 

 ゲームの世界を悪の組織から守る為、主人公は3つの試練を乗り越える、、なんという、まあなんという厨二、、ではなく王道なストーリー!!しかしそこはスピルバーグの非凡さで、いうなれば50代のオッサンが泣いて喜ぶネタが全編にちりばめられています。自分は「ゴールデンアイのチョップ縛り」で、そのネタの選び方に明らかな俺へのメッセージを感じだのだが、3ステージ目のアタリはさすがに分からず。かなり日本人向けのネタが多いなかで、そこはやっぱりハリウッド映画であります。

 

 それよりも。ああそれよりも第二ステージのアレ!!ネタバレと言っといてやっぱり自粛してしまうワタクシでありますが、よくもまあ、アレを。しかも「原作者が気に食わない」というアレを、さらにハチャメチャにしてしまうこの剛腕さ。アクションCG映画花盛りな現在において、20世紀とは監督の顔ぶれも確かに随分変わっていますが、しかしそういう若い人たち(実際に若いかどうかは知らんが)にはおいそれと手を出せない、これはスピルバーグしか出来ないシーケンスであります。

 

 絶対悪みたいな悪人が出てこないのもスピルバーグらしい。というか、今回の悪役が最後の最後で主人公へのトドメを思いとどまるシーンを見て、「そういえばスピルバーグってこうだった」とひさびさに思い出した。スピルバーグ監督作や製作総指揮の映画が自分にとってひときわ輝いていたのは、「レイダース」から「ジュラシック・パーク」のあたりまで。今では全部を見ている訳ではないし、見終わってイマイチだった映画もあった。製作総指揮として関わった映画については、当時の世評では「スピルバーグはハリウッドの商業主義に染まった」みたいな論も多く、十代の小僧(当時)の分際で、小賢しげにそういう批判的なスタンスで見てしまい、映画を十分に楽しめない事もありました。けれども「レディ・プレイヤー1」を見て、十代の自分は、スピルバーグが作った空想の世界にドップリとハマり、心ゆくまで楽しんでいたのだということを改めて自覚した次第です。それはもう、この映画の主人公と、オアシスを作ったハリデーの関係みたいなものだと思う。

 

 ハリデーが最後に言った"Thank you for playing my game" のセリフで不覚にも泣いてしまったのも、自分の若いころとスピルバーグ映画を重ねてしまったからだろう。あれは「僕の作った映画を楽しんでくれてありがとう」というスピルバーグからの、当時夢中になってスクリーンを見ていた観客達へのとても明快なメッセージだと思う。

 

 

 

 

 

返校 detention

 台湾発のホラーゲーム、PC版の出来については以前からゲームサイトの記事になっていて、そのビジュアルの独特さで目を惹かれたのだけれど、それが目出度くswitchでもプレイできるようになりました。

 

 台湾のある時代を背景にして、文化や風俗の描写が興味深く、ビジュアルや音楽がとても独特の雰囲気があって、怖いながらも目を離せずに一気に終わってしまった。決して長いゲームではないのだけれど、水増し感が無い分、より深く印象に残った感じです。

 

 ゲームの進行は、学校を舞台とする霊が徘徊する異質な世界を、理由も分からず彷徨い続ける少女が、道中で拾い集めるメモの断片により物語が明らかになるというスタイルをとっていて、ストーリーを説明しすぎないのがとても良かった。語りすぎない分、プレーヤーの想像の余地を多分に残していて、それがより深い余韻を残せている。

 

 このゲームを作ったのはまだ若い人たちだそうで、直接的に戒厳令下の日常を送っていた訳ではない。おそらくそれだからこそ、当時の状況を背景にしたホラーゲームを作ろうという発想が生まれたのだろうと思う。当時の圧政に対する生々しさよりも、ホラー的な異世界の表現のほうが圧倒的に強くて、それはやっぱり当時を知らないからこそ自由にアプローチできたのだろう。ゲームの後半は、ホラーというよりもダークファンタジーのような雰囲気で、前半は意味不明だった物語が一気に語られる、この配分も上手いと思いました。

 

 ゲームの最中で、主人公の女の子が「お母さんのようにはなりたくない」というようなモノローグがあったのだけれど、それなのに結局・・・というのは、他の要素に隠れてしまっている感じだけれど、結構このゲームの中でも大きな意味があったのではないかと思う。