リバーズ・エッジ
岡崎京子が達者な人であることに全く異論は無いのだけれど、自分は岡崎京子のマンガに対して結構な偏見を持っている。それはなんだろなー、、と思いながら20余年。映画「リバーズ・エッジ」を見て、その理由が分かった。
90年代半ばあたりの高校生を描いた本作、原作は未読でありますが、登場人物が全員病んでいるこの話を、「病む」という言葉がまだ今のようなニュアンスで確立していなかった当時にこういう話を描いてしまう。やっぱり非凡だと思う。援助交際は結構オヤジメディアが好んで出していたが、ドラッグやウリ専は決してメディアでも一般的では無く、しかしごく普通の高校生たちがすでにその空気の中で淀むように生きていた、、というのがおおまかな物語であります。
岡崎京子のマンガに在る空気感を共有する人は多いと思う。それは決して自身が援交していたり摂食障害だったりといった実際的なものではなくても、その鬱屈した日常というか、お互い視線を合わせない事でやっと多少息ができるという閉塞感を感じていた若者は多いのだろうと思う。
だが。である。だがしかし。自分が岡崎京子に偏見を持っているのは、これまでは「オタクのブサイクは岡崎マンガに居場所が無い」からだと思っていた。ほれ、「リバーズ・エッジ」を見てみい。オタクのブスのあの底辺を這う扱い、そしてブサオタはハナから存在を許されていない。岡崎ワールドではDV男ですらセクシーならば女とセックスをしてくれる有用な存在であるが、ブサオタは視界に入ることすら許すまじ、なのである。基本的に岡崎京子は女性のためのマンガ描きなので、そもそも「ブ男にも人権を!」などという言い分を聞く筋合いは無いのだが
まあ岡崎京子への偏見は要するにブ男のヒガミ。これまではそう思っておりました。
そこで今回の映画「リバーズ・エッジ」であります。行定勲監督が、現実感の無い、現実感が無いことが当たり前すぎて欠落とも思っていない高校生を達者に演出していて、それに応えた役者も皆良かった。ゲイの男の子を演じた吉沢亮の、とあるブツを見た時の表情がきっとこの映画のクライマックスで、見ているこちらもドキドキした瞬間でした。あれは、これまでゲイであることの引け目やいじめられていた事で自信の持てなかったのが、あの物体を目撃した、その原因はおそらく自分にある、ということは自分より底辺がここにいたのだ!という嗜虐の表情ではないかと思う。それこそが彼のいう生きる勇気だったんじゃないだろうか。
そして、病んでいる若者をこれだけバリエーション豊富に、説得力持って映画で見ていると、岡崎京子による「この病気は時代の先端でOK!、こっちはブサイクだからNG!」みたいな選別を感じてしまうのだ。それは作家個人の好き嫌いなのだろうけれど、そこが岡崎京子の非凡なところで、作品として提示されたものは単なる好き嫌いを超えて「病みのヒエラルキー」みたいなものを感じてしまう。
過食で吐くスタイルのいい子はカッコイイ!好きな男に自意識を募らせて浮かれる女はカッコワルイ!!誰とも馴れ合わず関わり合いを持たないのはカッコイイ!!ゲイでイケメンで女の子のそばにいてくれる、ウリ専やってたら悲壮さプラスでもっとイイ!オタデブブス女死ね、オタブサ野郎はこの世から消え去れ!!
みたいな選別を感じませんでしたでしょうか皆さま。その根本は「オシャレか、そうでないか」であり、それこそ「オザケンが似合うか、そうでないか」でもピッタリくるのだけれど、オタブサには苦しむことすら許さない、とでも言わんばかり。そりゃね、ブサイクなオタクと吉沢亮みたいなイケメンでゲイだったら、ゲイであったほうが人生の出目がワンチャンもツーチャンも良さそうだけれど、うっかりブサイクなゲイにでもなってしまったら人生もっとどうにもならんモンになってしまわないだろうか?
岡崎京子は話は上手いが絵は決して達者なほうではなく、可愛い女の子もハンサムな男も、実際それほど可愛くもハンサムでもなかったのでこれまで気づかなかったのだ。けれども映画でこうも「容姿による病みの選別」みたいなビジュアルを見せつけられてしまうと、そりゃねーだろーよ岡崎サン、とアラフィフのオヤジが顔を真っ赤にして否定したくなってしまう。もちろん偏見だという自覚はあるのですが。
不能犯
松坂桃李と沢口エリカが出ることは知っていたけれど、映画を見て「白石映画のクセに(失礼)、なんだこの美男美女のつるべ打ち状態は!!」と心底タマゲタ。この二人の他に、矢田亜希子!真野恵里菜!芦名星!あと鑑識の女の子や看護師も美人!!んじゃあ俳優はってえと新田真剣佑!間宮祥太朗!忍成修吾!安田顕はまあハンサムというよりは従来の白石監督のテイストに近いので除外するとして(これまた失礼)、小林稔侍も「え?なぜこの役で??」みたいな場違い感タップリ。
これだけの人々がこぞって高名な白石監督の作品に出たいと切望した、なんてワケはなく、そらもう何かしらの思惑みたいなモンがあって揃ったという事なんでしょうよ。けれども、スクリーンに映る美男美女をストーリーそっちのけでボーッと眺めながら、きっと白石監督も、異常事態ともいえる自身の過去作品にかつて無い豪華なキャスティングに舞い上がってしまったというか、ホラー演出より美しい人たちを余す事なく撮ったろうという欲望が湧いたのではないだろうか。それほどこの映画は役者の「顔」を主体に撮っている。
もっとスプラッターに振ったり、いいようのない狂気を持ち込むことも本来の監督の持ち味として出来たのだと思うのだが、今回のキャストでは無理だったのかもしれない。間宮祥太朗が舌でダイヤルするシーンとか、ラーメン屋のカップルの口論とか、なんか薄っすらと通常から異常へ移りかけるシーンはあるのだが、結局は松坂桃李の顔面演技に収斂されていく。松坂桃李の百面相的な演技も、美男美女の顔にこだわって撮った今作と合致して、これはこれで良かったと思う。
ただ、ホテトルの客とかさー、間宮祥太朗の兄貴分の板前さんとかさー、こういうのがワタクシの考える本来の白石映画の顔面レベルなんだけどさー、ちょっと今回はブサイクが故に目立ってしまうような内容なので、ちょっとなんかさー、忍成修吾のエピソードの顛末よりも、よっぽどこっちの「間宮祥太朗と同じ空間にいるブサイク」のほうがよっぽど悲惨じゃねーか、と思ってしまったのでありました。
祈りの幕が下りる時
この映画を見るまで、松嶋菜々子があんなにデキる人だとは思いませんでした。映画の途中で、日本橋の写真に写る彼女の姿にてっきり「このくらいタッパがあるからこそキャスティングされたのだ」と勝手に納得していたのだけれど、激しくネタバレになるので詳しくは書けませんがご覧になった方は大体合点がいくとして、とあるシーンの彼女の表情に戦慄アンド号泣。2秒もないようなショットでしたが、あれは物凄かった。
阿部寛はところどころ、というかサ行の滑舌が悪く、これって元からそうだったっけ?と疑問に思わないでもないのですが、この人は二枚目の上に微妙にユーモラスな愛嬌があって、カッコよさばかりを要求される若いころよりも今のほうがずっと需要が高いのだろうと思う。年相応のシワも魅力、ということは阿部寛は和製ジェーン・フォンダか?
唐突に話は変わりますが、テレビ東京で朝に韓流歴史ドラマが放映されておりまして、韓流といえども日本語吹き替えなのですが、それはいいとしてこのドラマ、吹き替えに加えて字幕スーパーまで表示されていて、これは一体なんじゃらほい?と思っておりました。しかしその後、韓流好きなご年配の女性でも、耳が聞こえづらくなってきたような方にとっても楽しめる配慮だと気づき、成る程なあと深く合点がいったものでした。
で、だ。映画の話に戻って、この映画の冒頭は加賀恭一郎のモノローグがテロップとしてスクリーンにデカデカと登場し、場所の説明で映像を見りゃわかる事すらわざわざテロップ表示して、とにかく映像の説明をこれでもかと挟んできてイライラすることこの上なし。しかしその一方で、クレーンを使った街並みの描写や琵琶湖の空撮や、タイトルに至る際の溝端淳平が何かを見て、松嶋菜々子が怪訝そうな顔をして、その後壁に飾られたたくさんの写真のうちの1枚にぐぐぐーっと寄っていき大写しになるショットなど矢鱈とよく出来ていて、こういう見せ方ができる監督が何故にあんな客を小馬鹿にしたようなテロップを入れるのだろう?としばらく疑問に思っておりました。
しかしこれはおそらく、韓流ドラマの字幕スーパーと同様で、きっとこの映画のメインの観客層たる中年男女がすんなり映画に入り込むための救済措置なのだろうと思う。こういうミステリの客層って、きっとメインは中年なんだろうなー。意識してなかったけど今の若い人って推理小説って読まないんだろうなー、中年だって読んでないと思うけど、土曜ワイド劇場的なエンターテイメントを素直に面白いと思える層はやっぱり中年層だろうし。
その中に自分もしっかり入っている・・・なんかちょっと抗いたい。「俺はこんなテロップは必要ないんじゃー」と劇場で叫びたい。でも世間的にはどう見たって自分は中年ど真ん中である。劇場で叫んだ日にゃあ中年通り越して老害そのものである。映画はものすごく面白かったのだけれど、それとは別の侘しさを感じてじっと手を見るワタクシでありました。
DEVILMAN crybaby
1972年に連載されたこの大傑作を、Netflixのオリジナルコンテンツとして「夜明け告げるルーのうた」の湯浅政明監督が映像化されました。個人的には永井豪のマンガに関しては最盛期(と言うのも申し訳ないが)の70年代にはまだ幼稚園児か小学校低学年だったこともあって、世代的には乗り遅れている。ただし永井アニメのほうはジャストで、「デビルマン」以外にも「マジンガーZ」や「キューティーハニー」など、もろに見まくっておりました。余談ですがだいたい現在のアラフィフあたりのオッサンのマイ・ファースト・エロは「キューティーハニー」と相場が決まっている。これが「プレイガール」だったら、小学生になんちゅーモンを見せとったんじゃオマエの親は!となる。今のお若い方々、わっかるっかなぁ?わっかんないだろうなぁ〜
自分が永井豪にハマったのは大学生のころ、1990年あたりで、デビルマンを読んだのがキッカケでした。とにかくものすごく衝撃を受けたことを覚えている。そしてワタクシはとても賢いので、実写版は未見であります。
マンガ版を映像化するにあたって、映画では尺が足らず(まあ3部作という手もありますが)、テレビでは描写が規制されるという中、よくぞNetflixが制作に名乗りを上げたものだとありがたく思う次第。今はすごく金をかけたオリジナルドラマを制作していますが、この先Netflixだってジリ貧になっていくかもしれず、時期を逃せばこの話は無かったかもしれない。デビルマンの映像化にこれほど最適なメディアは無いと思う。
湯浅政明監督は、原作を新しい要素を加えた物語として破綻無いように上手く組み替えたりアレンジしたりして、なるべく見所を削がないように構成している。キャラクターの掘り下げにもオリジナルな要素を加え、特に牧村美樹に、よりヒロインらしい設定や演出がされている。美樹ちゃんってその後の「バイオレンスジャック」も含めて、きっと永遠の「クイーン・オブ・不憫なヒロイン」だと思われるが、それでも湯浅監督は彼女を精一杯生きる女の子として描いている。陸上選手という設定は、途中までは自分はてっきり湯浅監督の持ち味である変な動きを見せたかったからだと思ったのですが、しかし最後まで見ると、決してあの「デビル走り」のためだけではなく、オリジナルのテーマに根ざしたものでありました。
ちょっくら不満点を申しますと、1話目のサバトのシーンや、悪魔に変容する様は湯浅監督の持ち味が非常に良く出ていたのだけれど、終盤になってくるとFlashアニメ特有の軽さが裏目に出るような印象がありました。デビルマンやデーモンが子供のラクガキみたいなキッチュな感じだったり、神の光にかき消されるICBMがロケット花火みたいな「ピュ〜」という擬音が似合う重量感の無さだったり。正直シレーヌ編はオリジナルビデオアニメのほうが良かった。タレちゃんの最後については、さすがに原作そのままはいくらNetflixでもダメだろうから、これでいいのだと思う。ラストの神の光の前に了が明に語った内容が、そのシーンの意味ごと変わってしまっているのは、これはもう監督の解釈の問題でありますので、個人的には変えて欲しく無かったのだけれども「そういうもんだ」ということで無理やり納得してみる次第。
それでも、原作には無いハルマゲドンの明と了の対決の様子をじっくりと見せてくれ、原作の説明不足(正体を明かす前の了の存在など、後々考えるとものすごく変である)をうまく補完して、単なる原作のフォローではなく、オリジナルな良さを持った作品でとても良かった。Netflixだから見返すにも最適なので、しばらくは夜更けのお供として楽しむ所存であります。
オリエント急行殺人事件
自分は1974年のシドニー・ルメット版が大好きで、高校生のころにビデオを借りて見て、それ以来何度か借りては見てを繰り返し、DVDを購入後はいまだに年に2、3回は見直している。しかし原作は一度しか読んでいない。ということで、もう自分にとって「オリエント急行殺人事件」はルメット版がワンアンドオンリーになってしまっているので、今回のケネス・ブラナー版はどうしてもマイナスに見てしまう・・と思ったら、ちゃんと面白くてしっかり楽しんで見てました。
アガサ・クリスティのミステリは、どれだけ陰惨な事件であってもどこか楽観的というか呑気というか、「あー面白かった」で終われる所があって、だからこそ今でも人気があるのだと思う。そのイメージはルメット版にも色濃く出ているので、今回のシリアスに振った演出が一番印象が違う所でありました。ああでも確かに、悲劇をちゃんと悲劇として描くのもアリか。
シリアスに振ったが故か、現代的なスピード感が必要だったのか、今作ではなんとポアロが走ったり格闘したりしてしまっている。まあそれはいいのだけれど(本当はよくない)、アクションに時間を割いたためか、真犯人を推理するクライマックスがぞんざいすぎないだろうかと思う。誰がコーヒーに睡眠薬を入れたとか、なぜ時計を壊す必要があったとか、ドラゴンのガウンを着た女の意味とか、一応説明はされているもののあまりにも軽すぎて、映画の体裁としては「そんなことはどうでもいいじゃないか」という扱いであります。
どうでもいいことだろうか?と自問してみる。自分は何回もルメット版を見ているから余裕で脳内補完OKだったけれど、全く知らない人が見て分かるだろうか・・と考えて、「オリエント急行殺人事件」を全く知らず「犯人は誰だろう?どんなトリックだろう??」などとワクワクしながら観に行く人など世界中探しても30人もいないんじゃないかと気付く。たぶん観客の九分九厘は犯人を知っている。知っていて観に行っている。クリスティ作品の映像化というのはそういうことである。
冒頭で述べたように、ルメット版を見倒している自分でも楽しかったのだから、ケネス・ブラナー監督はしっかりいい仕事をしたのだ。