安保法案の参院可決に思う事
以前は安保法案に相対的に反対だったので、去年の衆議院の解散総選挙には維新に入れたものの、その維新が笑える事態になってしまった。前回の選挙にはもれなく消費税アップと安保法案が入っていたはずなのに、蓋を開けてみたらまさかの自民圧勝。今回の騒動で「国民の民意を無視」という論調があったのだが、じゃあ去年の自民圧勝は民意ではなかったのかという視点が全くない状況が反対派・・・というか、とりあえず与党には反対したがるマスコミの姿勢に違和感がある。
テレビのニュースで述べられる「政府は国民に十分に説明していない」という議論も、ここまで理解しないのも逆に図々しいというか、分からんとゴネてりゃイニシアチブが取れると思っている集団に対してどうにも与したくないという思いが湧く。徴兵制反対だからデモに参加しましたってアンタ、いくらなんでもマスコミか民主党に踊らされ過ぎ。
今回の法案が憲法違反というのも、まあそうだろうなあと思う。けれどもそれを言うなら自衛隊の存在がすでに憲法違反だし、今更憲法違反だからダメというのも現実的ではない。安保法案に限らず、最大多数の最大幸福と少数意見の尊重の間でバランスを取って執り行うのが政治なのだから、それを「違反してるからダメ」というのは、子供ならそれでいいのだけれど、大人はそれでは生きていけない。政治家なんてなおさらだろう。
個人的には今回の法案の理解度は「日本もアメリカと一緒にイラクで戦えるようにする法律」という理解の仕方をしていて、たとえば将来的に東南アジアで有事の際には、日本も多国籍軍の一員として戦うことを見据えているのだろうと思う。すぐにそうなるかはさておき、そういう可能性も含めたものなのだとしたら、「申し訳ないけれど日本は九条を口実に不参加というスタンスでいいのではないか」という日和見から反対だったのだけれど、今回の騒動で反対する政治家やデモに参加する人たちの余りのスジの通らなさに、「なんかコイツらの主張を通していては将来とんでもないことになってしまう」という、コレって普通与党に対する疑問じゃねえ?的な思いを反対派に抱いてしまった。
その昔、といってもそれほどではなく、米ソ主導の冷戦時代には「ダメなものはダメ」でよかったのだ。けれども今は右に行っても左に行ってもメリットとデメリットがあり、それぞれに行く末は非常に曖昧である。分からない中で右か左に行かねばならないならさあどっち?という状況の中で、マスメディアの反対派の見せ方は、土井たか子時代の社会党同様の旧態依然とした見せ方で、これが悪手だということにいい加減気付くべきではないかと思う。野党の政治家も、本来なら数で不利な自分たちの意見を盛り込ませるべく、必死に議論を重ねて与党に割り込む必要があるのに、アーアーキコエナーイで議論を放棄しちゃえば・・・ねえ、そりゃ無視されても仕方がないわ、子供じゃないんだから。
与党の暴走を防ぐべく野党がブレーキの役割を果たすとしたら、先にブレーキが壊れてるんじゃないかと不安になってしまったのが今回の騒動だった。
テレビのニュースで述べられる「政府は国民に十分に説明していない」という議論も、ここまで理解しないのも逆に図々しいというか、分からんとゴネてりゃイニシアチブが取れると思っている集団に対してどうにも与したくないという思いが湧く。徴兵制反対だからデモに参加しましたってアンタ、いくらなんでもマスコミか民主党に踊らされ過ぎ。
今回の法案が憲法違反というのも、まあそうだろうなあと思う。けれどもそれを言うなら自衛隊の存在がすでに憲法違反だし、今更憲法違反だからダメというのも現実的ではない。安保法案に限らず、最大多数の最大幸福と少数意見の尊重の間でバランスを取って執り行うのが政治なのだから、それを「違反してるからダメ」というのは、子供ならそれでいいのだけれど、大人はそれでは生きていけない。政治家なんてなおさらだろう。
個人的には今回の法案の理解度は「日本もアメリカと一緒にイラクで戦えるようにする法律」という理解の仕方をしていて、たとえば将来的に東南アジアで有事の際には、日本も多国籍軍の一員として戦うことを見据えているのだろうと思う。すぐにそうなるかはさておき、そういう可能性も含めたものなのだとしたら、「申し訳ないけれど日本は九条を口実に不参加というスタンスでいいのではないか」という日和見から反対だったのだけれど、今回の騒動で反対する政治家やデモに参加する人たちの余りのスジの通らなさに、「なんかコイツらの主張を通していては将来とんでもないことになってしまう」という、コレって普通与党に対する疑問じゃねえ?的な思いを反対派に抱いてしまった。
その昔、といってもそれほどではなく、米ソ主導の冷戦時代には「ダメなものはダメ」でよかったのだ。けれども今は右に行っても左に行ってもメリットとデメリットがあり、それぞれに行く末は非常に曖昧である。分からない中で右か左に行かねばならないならさあどっち?という状況の中で、マスメディアの反対派の見せ方は、土井たか子時代の社会党同様の旧態依然とした見せ方で、これが悪手だということにいい加減気付くべきではないかと思う。野党の政治家も、本来なら数で不利な自分たちの意見を盛り込ませるべく、必死に議論を重ねて与党に割り込む必要があるのに、アーアーキコエナーイで議論を放棄しちゃえば・・・ねえ、そりゃ無視されても仕方がないわ、子供じゃないんだから。
与党の暴走を防ぐべく野党がブレーキの役割を果たすとしたら、先にブレーキが壊れてるんじゃないかと不安になってしまったのが今回の騒動だった。
ゲーム人口の拡大 ポケモンGO
商標的にはPoke'mon goと表記すべきなのだろうが、ポケモンはやっぱりポケモンと書くのが一番しっくりくるような。
さて。電撃的に発表されたポケモンGO、ものすごくアッサリ説明するとIngressのポケモン版ということなのですが、このIngress。格安スマホ購入時に気になってはいたものの、通信量がハンパないと聞き及び、自分の加入している3ギガ500円プランでは容量が保ちそうにないと諦めた。しかしこれがポケモンとあっちゃあ、プラン変更してでもやってやるぜ!という気概であります。
会見に登場された石原社長の言葉をはじめ、随所に表された岩田社長への追悼の意について、今回の発表自体とは別に、やっぱり胸に迫るものがある。特に宮本茂氏の登壇では、「任天堂はゲーム人口の拡大を目指している」と語っており、ポケモンGOの製作者としてというより、岩田社長の代弁者としての役割を自認していたと思う。別にミヤホンがゲーム人口の拡大を目指していなかったとか、そういう事ではないのですが、どうもやっぱり岩田社長自身が唱えるこの言葉には、他の人には無い岩田氏自身の特別な思いが込められているような気がしている。
ホリエモンは自分が任天堂の経営者だったら子供向けのスマホを作ると語っていた。年々顔が妖怪じみてきている夏野剛氏は、遊び放題のプレミアムプランと1タイトルだけのライトプランを用意すべきと語っていた。ホリエモンはともかく、夏野氏の発想というのはものすごく他人の褌で相撲を取る人間の発想っぽくて、だからこそNTTでは非常に成功したのだろう。
ホリエモンや夏野氏の着眼点は真っ先に数字や株価があって、どうも任天堂の施策としてはズレているように見える。というより、やっぱり任天堂のほうがビジネスの定石からはズレた会社なのだろうと思う。少なくとも、一万円で遊び放題のプランを作れば任天堂復活間違い無し、という発想の経営者からはポケモンGOは決して生まれないだろう。
ポケモンGOは2年前から作っていたと石原社長は語っていた。2年前というと、まだまだソーシャルのほうに勢いがあって、スマホゲーもパズドラが盛り上がって来た頃の事である。ということは岩田社長は表面的には任天堂ハードでの事業を守りつつ、当時すでに任天堂ハードだけの商売に固執していなかったという事になる。当時盛んに任天堂はガチャやスマホゲーをやるべきと書き立てた人達と、それを否定しながらちゃっかりスマホゲーを(それも誰も予想できなかった規模のものを)作っていた岩田社長とのこの両者の違い。この違いこそが岩田社長の信念としてあった「ゲーム人口の拡大」という使命感だったのではないか・・・と思うのであります。
さて。電撃的に発表されたポケモンGO、ものすごくアッサリ説明するとIngressのポケモン版ということなのですが、このIngress。格安スマホ購入時に気になってはいたものの、通信量がハンパないと聞き及び、自分の加入している3ギガ500円プランでは容量が保ちそうにないと諦めた。しかしこれがポケモンとあっちゃあ、プラン変更してでもやってやるぜ!という気概であります。
会見に登場された石原社長の言葉をはじめ、随所に表された岩田社長への追悼の意について、今回の発表自体とは別に、やっぱり胸に迫るものがある。特に宮本茂氏の登壇では、「任天堂はゲーム人口の拡大を目指している」と語っており、ポケモンGOの製作者としてというより、岩田社長の代弁者としての役割を自認していたと思う。別にミヤホンがゲーム人口の拡大を目指していなかったとか、そういう事ではないのですが、どうもやっぱり岩田社長自身が唱えるこの言葉には、他の人には無い岩田氏自身の特別な思いが込められているような気がしている。
ホリエモンは自分が任天堂の経営者だったら子供向けのスマホを作ると語っていた。年々顔が妖怪じみてきている夏野剛氏は、遊び放題のプレミアムプランと1タイトルだけのライトプランを用意すべきと語っていた。ホリエモンはともかく、夏野氏の発想というのはものすごく他人の褌で相撲を取る人間の発想っぽくて、だからこそNTTでは非常に成功したのだろう。
ホリエモンや夏野氏の着眼点は真っ先に数字や株価があって、どうも任天堂の施策としてはズレているように見える。というより、やっぱり任天堂のほうがビジネスの定石からはズレた会社なのだろうと思う。少なくとも、一万円で遊び放題のプランを作れば任天堂復活間違い無し、という発想の経営者からはポケモンGOは決して生まれないだろう。
ポケモンGOは2年前から作っていたと石原社長は語っていた。2年前というと、まだまだソーシャルのほうに勢いがあって、スマホゲーもパズドラが盛り上がって来た頃の事である。ということは岩田社長は表面的には任天堂ハードでの事業を守りつつ、当時すでに任天堂ハードだけの商売に固執していなかったという事になる。当時盛んに任天堂はガチャやスマホゲーをやるべきと書き立てた人達と、それを否定しながらちゃっかりスマホゲーを(それも誰も予想できなかった規模のものを)作っていた岩田社長とのこの両者の違い。この違いこそが岩田社長の信念としてあった「ゲーム人口の拡大」という使命感だったのではないか・・・と思うのであります。
ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション
自分が中年になってきてだんだんと好きになってきたトム・クルーズ。もう少し深く考えると、好きになってきたのは役者としてのトム・クルーズというより、トム・クルーズがプロデュースする映画それ自体で、いうなればトム・クルーズというブランドが好きなのだと思う。
以前にも書いたような記憶があるが、大事な事なので何度でも書きますと、トム・クルーズも若い頃は「ア・フュー・グッドメン」や「7月4日に生まれて」などのアイドル俳優的でない映画にも出演し、おそらく本人だってもっと自分の演技を評価して欲しいと思っていたのだろうが、ある時からそういった俳優的野心と決別し、自分がスターであるということを積極的に引き受けるようになったように見える。
自分がスターであり続けるために、批評家ウケよりも沢山の観客に受け入れられる映画を選びつつも、一方できっちりとクオリティも維持している。ハリウッドにはそれを支えるだけの才能ある人材が揃っていて、トム・クルーズ自体はどの映画もそれほどの違いは無くても、映画としては一作ごとに違った楽しさを提供している。トム・クルーズがスターであることと、彼が主演する映画が一級のエンターテイメントであるということがキッチリと噛み合っている。
映画が公開される度にプロモーションで来日し、過剰ともいえるサービスぶりも彼がスターとしての自分の役割を十分に分かっている上での行動で、映画のクオリティの維持もプロモーションに対する手厚さも全てがトム・クルーズというブランドを為すものである。サイエントロジーがらみのニュースも含めて、どこを切っても尋常ではない感じが、観客として見ていて物凄く面白い。
そして本作。いやトム・クルーズもスタント無しでがんばっているが、それよりもヒロインのレベッカ・ファーガソンがカッコいい!途中まで敵か味方かハッキリしないミステリアスな演出も効いていて、主人公に迫る見せ場の多さでありました。
今回のトム・クルーズの中年ファッションリーダーとしての役割は、スーツやタキシードといったフォーマルが多目なので、まあ普段着よりもパリっとした格好の需要がある方なら。
そしてトム映画最大のトピックであるトム・クルーズの乳首問題ですが、映画の始めのほうで敵に捕えられる際のシーンでご登場。ストーリーの都合から考えれば、そもそもアソコでトム・クルーズが脱いでいる意味は無いのだが、御丁寧にトム・クルーズの裸を下から見上げるようなアングルでボディを強調している。本作の監督は「アウトロー」と同じ人らしく、「アウトロー」でトムの乳首をスクリーンの右下にドアップで撮り上げたことを考えると、今作の乳首の扱いもさもありなんという感じ。これもスター映画ならでは。
以前にも書いたような記憶があるが、大事な事なので何度でも書きますと、トム・クルーズも若い頃は「ア・フュー・グッドメン」や「7月4日に生まれて」などのアイドル俳優的でない映画にも出演し、おそらく本人だってもっと自分の演技を評価して欲しいと思っていたのだろうが、ある時からそういった俳優的野心と決別し、自分がスターであるということを積極的に引き受けるようになったように見える。
自分がスターであり続けるために、批評家ウケよりも沢山の観客に受け入れられる映画を選びつつも、一方できっちりとクオリティも維持している。ハリウッドにはそれを支えるだけの才能ある人材が揃っていて、トム・クルーズ自体はどの映画もそれほどの違いは無くても、映画としては一作ごとに違った楽しさを提供している。トム・クルーズがスターであることと、彼が主演する映画が一級のエンターテイメントであるということがキッチリと噛み合っている。
映画が公開される度にプロモーションで来日し、過剰ともいえるサービスぶりも彼がスターとしての自分の役割を十分に分かっている上での行動で、映画のクオリティの維持もプロモーションに対する手厚さも全てがトム・クルーズというブランドを為すものである。サイエントロジーがらみのニュースも含めて、どこを切っても尋常ではない感じが、観客として見ていて物凄く面白い。
そして本作。いやトム・クルーズもスタント無しでがんばっているが、それよりもヒロインのレベッカ・ファーガソンがカッコいい!途中まで敵か味方かハッキリしないミステリアスな演出も効いていて、主人公に迫る見せ場の多さでありました。
今回のトム・クルーズの中年ファッションリーダーとしての役割は、スーツやタキシードといったフォーマルが多目なので、まあ普段着よりもパリっとした格好の需要がある方なら。
そしてトム映画最大のトピックであるトム・クルーズの乳首問題ですが、映画の始めのほうで敵に捕えられる際のシーンでご登場。ストーリーの都合から考えれば、そもそもアソコでトム・クルーズが脱いでいる意味は無いのだが、御丁寧にトム・クルーズの裸を下から見上げるようなアングルでボディを強調している。本作の監督は「アウトロー」と同じ人らしく、「アウトロー」でトムの乳首をスクリーンの右下にドアップで撮り上げたことを考えると、今作の乳首の扱いもさもありなんという感じ。これもスター映画ならでは。
ジュラシックワールド
一作目から二十年以上経ち、ホントに出来ちゃったジュラシックパークでサア大変!というこの映画。CGの技術は一作目から格段に進歩を遂げ、敵役の恐竜もかつてない程に禍々しく、そしてネタバレになりますからボカして書きますが、クライマックスのアイツのバク進にはおもわず感動で目頭が熱くなった。
これだけの映画にケチをつけるなんておこがましい。・・・のだが、もうワタクシは恐竜が生き生きと動き回るだけで心躍るような純真な幼子ではなく、気力もカラダも弛んできた薄汚いオッサンとして、この映画と自分の距離みたいなものを感じてしまった。
ただ、ジジイの繰り言であると承知の上で言ってしまうのですが、1作目のジュラシックパークは、単に恐竜がスゲーというだけではなく、「激突」や「ジョーズ」から続く、スピルバーグのしつこく追われる恐怖を描いた映画だった。スクリーンを超えて迫って来るサメやトラックを、ひたすら恐怖と感嘆の念で見続けた世代として、「ジュラシックワールド」のサスペンスは昔のスピルバーグ映画とは違う。
それは今回の監督がそもそもスピルバーグではないからという理由では(多分)ない。「ジュラシックワールド」は自分のようなスピルバーグ世代に宛てた映画ではなく、それこそUSJのテーマパークとして今後展開しても大丈夫な、家族で楽しめるスリルを上手くパッケージにした、豪華なアトラクションを意図したものなのだと思う。そして、それは今の時代のビックバジェット映画として非常に正しい在り方だとも思う。
年くってくるとこの程度の変化にも簡単に対応できないという不甲斐なさ。「ジュラシックワールド」のスゴさは十分理解しているつもりなのに、「なんか昔と違う」という年寄り臭い拗ね方がちょっと自分でもトホホ。
これだけの映画にケチをつけるなんておこがましい。・・・のだが、もうワタクシは恐竜が生き生きと動き回るだけで心躍るような純真な幼子ではなく、気力もカラダも弛んできた薄汚いオッサンとして、この映画と自分の距離みたいなものを感じてしまった。
ただ、ジジイの繰り言であると承知の上で言ってしまうのですが、1作目のジュラシックパークは、単に恐竜がスゲーというだけではなく、「激突」や「ジョーズ」から続く、スピルバーグのしつこく追われる恐怖を描いた映画だった。スクリーンを超えて迫って来るサメやトラックを、ひたすら恐怖と感嘆の念で見続けた世代として、「ジュラシックワールド」のサスペンスは昔のスピルバーグ映画とは違う。
それは今回の監督がそもそもスピルバーグではないからという理由では(多分)ない。「ジュラシックワールド」は自分のようなスピルバーグ世代に宛てた映画ではなく、それこそUSJのテーマパークとして今後展開しても大丈夫な、家族で楽しめるスリルを上手くパッケージにした、豪華なアトラクションを意図したものなのだと思う。そして、それは今の時代のビックバジェット映画として非常に正しい在り方だとも思う。
年くってくるとこの程度の変化にも簡単に対応できないという不甲斐なさ。「ジュラシックワールド」のスゴさは十分理解しているつもりなのに、「なんか昔と違う」という年寄り臭い拗ね方がちょっと自分でもトホホ。
海街diary
映画の初まりは長澤まさみの足を下から見上げるように。なんとまあ是枝監督、わかっていらっしゃる。その後もブラ姿を披露したり、丈の短いスカートがデフォルトのキャラなのでおみ足がこれでもかと拝めたり。そして白眉は法事から戻って、画面の端で黒いストッキングを脱ぐシーン。アレは絶対中央で繰り広げられているストーリーではなく、長澤まさみがストッキングを脱ぐ一瞬のために設計されているハズ。しかし、男に振られて仕事モードに入る後半はパンツルックになって足が封印されてしまうという残念な展開に。
綾瀬はるかはこの四姉妹の長女役として、コメディエンヌ的な持ち味を封印して凛とした表情を見せています。姿勢の良さが映えるわー。非常に短いのだが、彼女が梅酒をビンに小分けするシーンが、ライティングの陰影と相まってとても美しい。堤真一のマンションからの帰り際に携帯をチェックする何気ない動作が付き付きしく、そのほかにも、落ち着いた所作の美しさが際立っております。
ホームドラマらしく食事のシーンがとても多いのだが、ワタクシが時折批判している「邦画のモノ食ってるシーンのSEがわざとらしすぎ」というほどのやり過ぎ感は無く、割と自然に見ていられました。
広瀬すず演じる上の三人とは異母兄弟に当たる末っ子が物語の中心になっていて、基本的には映画は彼女を中心に撮られている。しかしここで声を大にして言いたいのが、「海街diary」が面白い所以が、ドラマのためのシーンを撮っているのではなく、この少女を含めた登場人物の動きを中心に撮っているからだということであります。
映画の序盤で、長澤まさみが寝坊したせいで、広瀬すずと二人で「ちこくちこく」と言いながら駅まで走るシーン。脚本にすると一行で終わってしまうであろう箇所を、鎌倉の風景とからめて(確か)3カットに分けて駅まで走る二人を撮っている。これはストーリーの描写が映画になるのではなく、二人が走る姿が映画になると是枝監督が分かっているからである。
他にもシラス干しの手伝いをした後で自転車で海岸線を走るシーンの、江の電が走って行く脇を画面の奥へ奥へと自転車で走るシーンの清々しさよ。桜のトンネルを男の子と二ケツで走るシーンの、まさに桜酔いというよな、とても不思議な・・というか、官能的と言ってしまっていいのか迷うのですが、そういう表情を見せる彼女をこの映画では数少ないアップで撮っている。他にも梅の実をもいだり梅酒で酔っぱらったり扇風機の前で湯上がりのバスタオルをはだけて涼んだり、十代だからこそ映えるシーンがてんこ盛り。
以前、是枝監督の作品は映画では評価されているがテレビでは全く箸にも棒にもなのは何故なんだ?みたいなことを書きましたが、「海街diary」を見ればとても当たり前の話で、役者の動きや表情や光を捉えようとする是枝監督の演出と、とにかくストーリーで視聴者の興味を引っ張るテレビドラマとは相性最悪。この原作がもしテレビドラマになったら、毎回波乱を呼ぶエピソードが無理矢理入れられて、良くて橋田壽賀子的な家族のイザコザが持ち込まれたり、最悪だと広瀬すず妊娠とか綾瀬はるかと長澤まさみが男を取り合うとか、そういうドボチテな脚色がなされるハズ。ともかく、この映画の演出はテレビでは不可能だと思う。やっぱり自分はストーリーの善し悪しよりも「長澤まさみの脚線美がスゲー」とか、そういうことで喜んでいたいので、これからもテレビドラマより映画を贔屓にしていく所存であります。
綾瀬はるかはこの四姉妹の長女役として、コメディエンヌ的な持ち味を封印して凛とした表情を見せています。姿勢の良さが映えるわー。非常に短いのだが、彼女が梅酒をビンに小分けするシーンが、ライティングの陰影と相まってとても美しい。堤真一のマンションからの帰り際に携帯をチェックする何気ない動作が付き付きしく、そのほかにも、落ち着いた所作の美しさが際立っております。
ホームドラマらしく食事のシーンがとても多いのだが、ワタクシが時折批判している「邦画のモノ食ってるシーンのSEがわざとらしすぎ」というほどのやり過ぎ感は無く、割と自然に見ていられました。
広瀬すず演じる上の三人とは異母兄弟に当たる末っ子が物語の中心になっていて、基本的には映画は彼女を中心に撮られている。しかしここで声を大にして言いたいのが、「海街diary」が面白い所以が、ドラマのためのシーンを撮っているのではなく、この少女を含めた登場人物の動きを中心に撮っているからだということであります。
映画の序盤で、長澤まさみが寝坊したせいで、広瀬すずと二人で「ちこくちこく」と言いながら駅まで走るシーン。脚本にすると一行で終わってしまうであろう箇所を、鎌倉の風景とからめて(確か)3カットに分けて駅まで走る二人を撮っている。これはストーリーの描写が映画になるのではなく、二人が走る姿が映画になると是枝監督が分かっているからである。
他にもシラス干しの手伝いをした後で自転車で海岸線を走るシーンの、江の電が走って行く脇を画面の奥へ奥へと自転車で走るシーンの清々しさよ。桜のトンネルを男の子と二ケツで走るシーンの、まさに桜酔いというよな、とても不思議な・・というか、官能的と言ってしまっていいのか迷うのですが、そういう表情を見せる彼女をこの映画では数少ないアップで撮っている。他にも梅の実をもいだり梅酒で酔っぱらったり扇風機の前で湯上がりのバスタオルをはだけて涼んだり、十代だからこそ映えるシーンがてんこ盛り。
以前、是枝監督の作品は映画では評価されているがテレビでは全く箸にも棒にもなのは何故なんだ?みたいなことを書きましたが、「海街diary」を見ればとても当たり前の話で、役者の動きや表情や光を捉えようとする是枝監督の演出と、とにかくストーリーで視聴者の興味を引っ張るテレビドラマとは相性最悪。この原作がもしテレビドラマになったら、毎回波乱を呼ぶエピソードが無理矢理入れられて、良くて橋田壽賀子的な家族のイザコザが持ち込まれたり、最悪だと広瀬すず妊娠とか綾瀬はるかと長澤まさみが男を取り合うとか、そういうドボチテな脚色がなされるハズ。ともかく、この映画の演出はテレビでは不可能だと思う。やっぱり自分はストーリーの善し悪しよりも「長澤まさみの脚線美がスゲー」とか、そういうことで喜んでいたいので、これからもテレビドラマより映画を贔屓にしていく所存であります。