今日も定時ダッシュ -16ページ目

イット・フォローズ

 映画のあらましが非常に扇情的なこの映画。「13日の金曜日」でおなじみの、お色気シーンの後でそのカップルが餌食になるというパターンを逆手に取ったともいえるし、「リング」のビデオを置き換えただけとも言える。ただ、この映画をテーマの解釈で理解しようとするのは、この映画を楽しむ・・・というか怖がるための非常な悪手だと思う。

 この映画は先ず第一に、内容を全て映像に表現していて、それこそ目の穴かっぽじって見ることを要する演出をしている。説明的な部分としては、呪いの仕組みをヒロインがボーイフレンドから聞かされるシーンと、いくつか古典文学からの引用があるくらい。映像は最近ありがちなガチャガチャしたカット割りとは無縁の、シーンをじっくり見せていくタイプで、一見何も起こっていなさそうに見えるところが余計に恐怖を煽っている。ジワジワと忍び寄る怖さがラストまで持続している。

 映画の中の「それ」は、下着姿だったり、トップレスだったり、貫頭衣だったり、どれもこれも裸に近い姿というのが共通している。中盤の「それ」に襲われて犠牲者が出るシーンで、「それ」がなぜ裸に近いのかというのはそこでストーリーとしては説明されているのだと思う。けれども、そんな理屈よりも観ている最中は、単純な違和感からくるズレによる不気味さに目を奪われて、怖さゆえに逆にまじまじと見入ってしまうような迫力がある。

 クライマックスで襲ってくる「それ」の正体がその後さりげなく明かされる(これもセリフ無しで絵で示してしまうナイスな演出)。この映画は必要以上に大人を排除していて、そして最後に出てくる「それ」の正体を合わせると、そこにはやっぱり監督の意図があるのではないかと思う。何か映画のテーマとして含まれているのかもしれないが、ただやっぱり、そういう状況自体を恐怖として映像にしている。

 映画のラストで、なんとなく「なぜ呪いの伝染手段がコレなのか」というのが了解できるような見せ方になっている。決してハッピーエンドでは無いけれど、呪われていようがいなかろうが必ずやってくる死の前に人間に出来ることってソレくらいだよねー、という、なんだか最後に上手くまとめられて納得してしまった。

 自分はこの映画を、とても怖く、そして面白く見たのだけれど、しかし一点だけ不満アリ。このヒロインの猫背っぷりは何なのだ?彼女が背中を見せるシーンがいくつかあるのだが、あのモサっとした丸まった背中の造形は、ぽっちゃり型というより老けた印象しか受けない。こんなコトで怒っているのは世界中でも自分だけであるということを承知で!美人という設定でスクリーンに存在するからには!!全世界の映画で猫背を禁止すべきだと思いますっ!!!

スターウォーズ フォースの覚醒

 現時点でスターウォーズのメガホンを取れるのは誰だ?となったら、やっぱりJ・J・エイブラムスが一番適任だと思うし、実際に出来上がった新作は、とてもスターウォーズだった。ハン・ソロやレイア姫がご登場なさるという以上にエピソード4を踏襲した今作は、たとえ思い出補正を含めていたとしても、余計なケレンのない、とても堂々とした、見応えのある新作でした。たぶんもう一回くらいは確実に観るハズ。

 自分が映画館で見た初めての洋画は「帝国の逆襲」だったし、自分の映画好きの一角は確実にスターウォーズが作っているのだが、今回もそうだったしエピソード1の時も同じことを思ったのだが、スターウォーズが社会現象としてニュースとして扱われ、そこでコスプレして浮かれている人たちを眺めていると、「そこまでビッグニュースちゅうほどでもないわな」と思う。新作を楽しみにしていることは間違いないが、なにも馬鹿騒ぎするほどでもない。たぶんアメリカであっても大多数はそうじゃないかと思うのだけれど。

 自分のスター・ウォーズに対する思いは、ボバ・フェットが何故人気があるのか、ついでにジャージャー・ピンクスがなぜああまで嫌われているのかが未だに分かっていないという程度のものであります。その程度の浅いファンばかりでは、これほどの大掛かりな映画はおいそれとは作れないと思う。一体何を言いたいのかと申しますと、エピソード7が面白かったということに全く異論は無いのですが、エピソード4のコピーみたいな作りになってしまったのは、何よりも今作がスターウォーズに人生を変えられたようなコアなファンに向けたためなのではないかと思うのだ。

 これが良いのか悪いのか。エイブラムス監督はエピソード4の完コピという方針で、この大役をやりおおせた。同じことを繰り返していては飽きられるのは目に見えていますが、なんせスターウォーズは(1~3は無かったことにして)40年ぶりの繰り返しである。昔と同じ見せ方を現代の技術を使って再現しました、という方針でも許されるだけの時間が経っていると思う。

 エイブラムスが次回作の監督は行わないというのも、こうやって考えると「そりゃそうだわな」と納得できる。完コピすりゃ安パイかというと、あの市川崑ですら「犬神家の一族」でやらかしたのだからリスクは相当高いハズ。よくまあライアン・ジョンソン監督はエピソード8を受けたよなあ。エピソード9を受ける奴は余程のバカかオッチョコチョイじゃないと手が出せないシロモノであります。そこでまさかのジョージ・ルーカスが・・・という神展開に期待。

スプラトゥーン ボールド 楽しい

 スクイックリンを極めようとした夏・・・。ドラクエ3の武器にあった「どくばり」を彷彿とさせる効果音もあいまって好きな武器でしたが・・・自分のガバガバのエイミングではもう如何ともしがたく、泣く泣く諦めたのが秋もはじまりのころ。

 もういっそエイミングなんて言葉は忘れたい。けれどローラーは使えない、、という私がたどりついたのがボールドマーカー。スクイックリンよりも物好きな輩が使うというアレ。はじめはもう、「落ちていくならとことん堕ちてやろう」という、身を持ち崩した酒場女みたいな心境で手に取ったんですよ。

 しかしコレが、予想外に楽しい。チャージャーのようなエイミングのセンスが不要というのも相まって、ドバドバ塗ってイノシシ戦法で突撃という脳筋状態がさらにテンションを高めていく。

 しかし、ボールドは楽しいとは言ったが、ボールドは強いとはヒトコトも言ってない。

 どの武器も一長一短がある中で、ボールドのとんでもなく射程が短いという短所は、このゲームにおいては何より致命的であると思う。けれども、敵味方入り乱れる乱戦状態で至近距離からの敵との打ち合いに勝った時の快感が、他の武器では体験できない楽しさである。

 ヘタレなのでたいていはこっちが先にヤられているのだけれど、それでもスクイックリンで自分の下手さを呪っていた時よりは活躍できている。チャージャーと対峙して少しずつ近寄って倒した日なんかにゃ、もう脳内でエンドルフィンがそれこそボールドのインクのようにドバドバ出てる状態。

 乱戦が起こりやすいガチマッチではボールドが有利なことも(たまに)あり、なんだか他の武器には戻れない!と思っていたら、スプラシューターコラボを使ったらホントにイマイチで、自分がボールドの魅力にとりつかれた、ボール道に足を踏み入れてしまったことを自覚した次第であります。

ロバ売りの親子の話

 小学校の道徳の授業で読んだロバ売りの親子の話。知らない人はwikiを見ていただくとして、オチがちゃんとついているあたり、さすがイソップ童話であります。

 ロバ売りの親子が人の意見に左右されまくって最後にはロバを川に流してしまう、この寓話を、大人になってからとても頻繁に思い出す。この年になってからつくづく思うのだが、他人の意見というのは、たいていは言われるまでもない常識的なものか、その人の自慢話だったりする。常識的な考え方は穏当な人生を歩む指針にもなるし、自慢話はその人がそれで人生やってこれた証左でもあるので、それが無用という訳ではない。・・・のだけれど、人の意見を重んじすぎるのは危険である。というのが「ロバ売りの親子」の教訓であります。

 四十半ばのオッサンが他人の気安さで思うのだけれど、今の二十代の女性というのはつくづく大変だと思う。就職するのは当たり前という常識の中で大変な思いをして就活を終えても、仕事をがんばりなさいと言われる一方で、やれ早く結婚しろと常識的な年寄りに言われ、結婚したらしたで若いうちに子供を産むべきだと意見される。人からの意見でなくても、本人がそういう常識に囚われて、とても辛い思いをすることもあるかもしれない。

 しかしそういう一方で、自分自身がその偏見にも浸かっていて、30代の独身の女性に対しては「せめていい人がいれば・・・」などと余計なことを思ってしまう。自分の娘が30過ぎて何の話もなかったらやっぱり心配して要らぬことを言ってしまうのだろう。

 話は変わって。

 認知症のケアが社会問題になっている昨今、たいていのお年寄りやその家族は、特に対策もとらないまま当事者になってしまうケースが多いと思います。毎日どこかしらのテレビ番組で認知症の特集が組まれている昨今でありますが、そこにある意見を全部聞いていると、「一体何をさせたいのか」という思いが湧き上がる。

 国の政策として介護による離職をゼロにしようという方針が掲げられて以来、仕事をしながら在宅ケアでがんばっている家族の様子が取り上げられているのだが、介護をしながら働くことは大切だと説く一方で、NHKのクローズアップ現代で「同居をしていても日中はほぼ独居状態の高齢者の存在が問題となっています」などとやられてしまうと、国もその出先機関のマスコミも、親切ヅラして道を塞ぎにかかっているとしか思えない。どの意見も正しいのだろうけれど、精神的に疲労している中でそれぞれの正しさを認めてしまったら、仕事は辞めるな24時間介護しろ出来ないのはお前のせいだ、と聞こえてもおかしくない。

 最近、自分は中年の狡さでもって、間違いではない意見は山ほどあるけれど、正しい意見など一つもないのだと思うようになりました。「間違いではない」を「正しい」と取り違えてしまうと、対立する正しさに自縄自縛に陥って八方塞がりになる。どの生き方を選んでも何かしら文句言ってくる奴はいる。年齢の問題で不妊治療をすれば「もっと早く産むべきだった」という奴が出てくるし、在宅でケアしきれない親を施設に入れれば「親を見捨てるなんて親不孝だ」という他人がいる。それは間違ってはいないのだろうが、しかし決して正しくはないのだ。

 人の意見を聞かないことは多くを望まないことでもある。人間は二つの生き方を同時に選べない。どの道を選んでもリスクがあり、覚悟が要る。何かを選ぶためには、時として親ですら敵になる。意見を聞くことの大切さはお説ごもっともなのだが、それでも「最後に決めて責任を負うのは自分」という自覚がないと、とんでもないトコロに運ばれてしまう。

どうぶつの森 amiiboフェスティバル

 今年の任天堂は、ラインナップがE3の時点ですでに「大丈夫かコレ?」なレベルだった上に、岩田社長の逝去とその後のゴタゴタで、細木数子先生が言うところの大殺界にズボリと嵌っているような状況だった。ということで、私見でありますが、もうここまでダメならリカバーの必要もあるめえと、任天堂は今年のホリデーセールスは捨てたように見える。

 来年になればポケモンの20周年で出てくるであろう本編の新作やポケモンGO、ゼルダも30周年で現在製作中の新作やトワプリのリマスターはじめ色々とイベントも考えているだろうし、NXももしかしたら発表だけじゃなくて発売されるかもしれず。こうなりゃ下手に今年がんばるよりも来年一気に巻き返そうぜ!という考えもアリだと思う。

 もしそうなら、スターフォックスやスマホアプリが軒並み来年に回されたのも「まあそうだよな」という感じ。スマホアプリなんて、そうじゃなければ発表された内容程度がリリースできないなんて、ソコまで落ちたかというようなシロモノである。新しいネットワークサービスとあわせて、来年に一気に仕掛けるという理由でもなければ、それこそホントに大丈夫か任天堂?というくらいの落ちっぷりではなかろうか。・・・ホントに大丈夫だよねw

 ということで、今年のラインナップは始まる前にすでに出涸らし状態に違いないという思いを、この「amiiboフェスティバル」を遊んでみて確信した次第であります。

 もうこのなんというか、ゲームがamiiboのオマケ状態というか食玩状態というか、ゲーム単体でみるとガッカリ感が著しい。他のパーティーゲームのように皆で盛り上がるという瞬間が一切ないまま淡々と過ぎていくこの感じ。どうぶつの森の味わいを残したと言われればそうだとも思いますが、その結果がコレなんだとしたら、そもそもこの企画自体がアウトだったんじゃないかと思う。当たり障りのない言い方をすれば、小学生の娘が友達と遊ぶにはちょうど良い感じ。

 しかし今年の任天堂はamiibo大プッシュなので、amiibo目当てじゃなく純粋に「どうつぶの森の世界ですごろくが出来るなんて」などと思っている奴はまずいないだろうから、こういう露骨なamiiboのオマケ商法もアリかもしれない。ワタクシはパッケージについているものの他に、とたけけ、きぬよ、たぬきちの3体を購入。

 ちなみに、付属のamiiboカードはプレイヤーキャラとして使えず。パッチちゃんで遊びたかった身としては軽く残念。そこまでバリエーションは用意できなかったのね。

 ただ、こういう手が使えるのも、ひいては「今年のホリデーは捨てた」などという手が打てるのも、任天堂のゲームに価値があると客がおもっていてこそできる芸当であります。今年の分も来年は是非濃いラインナップで任天堂イヤーにして欲しいと、ワタクシは遠い目をして期待してしまうのでありました。