ヒトリマケ
お金を~~ あげたいのォ~~~
あなたに~ お金を~ あげたいのォ~~
と清水ミチコが歌う主題歌がキャッチー過ぎて、しばらく耳から離れそうにありません。iTunesで売ってくれないか。「ヒトリマケ」は、集まった6人のうち投票でヒトリマケを決めて、その人に全員の借金を背負わせるという、ワン・アイディアで話が進むタイプの映画です。
ワン・アイディアものなんてジャンルがあるのか知りませんが、金のかかってない映画にありそうな、面白そうなネタ一発で脚本書いちゃいました、みたいなモノを勝手にそう呼んでおります。集団ロシアンルーレットで生き残る奴に金をかける「13/ザメッティ」なんてワン・アイディアの典型で、アレはホントにそのアイディアしかなくて期待外れだったが、その点「ヒトリマケ」は誰を陥れるかを登場人物が画策することに醍醐味があって、「金を使うな頭使え」的な脚本が面白い。着想も(ロシアンルーレットよりずっと)凝っているし、四日間で話が二転三転するにつれて登場人物に対する見方が変わってきて、全くダレずに楽しめました。
この映画は内容よりも「出演者・スタッフ全員ノーギャラ」のインパクトが先行してしまっている感じで、それはしょうがないかもしれないが、「だから映画の質は問わないでね」なんてエクスキューズにも聞こえる。安手のビデオをキネコしたとおぼしき映像の悪さは実際に映画としてどうよ?他はともかく街田しおんの肌色の悪さにスタッフは頓着していないのだろうか。映画を撮る男には「女をキレイに撮りたい」という欲求が絶対あるハズだと思っているのだが、低予算映画で映像が汚いってのは問うてはいかんのだろうか。せめてもうちょっとライトを、、ライトを街田しおんに・・・結構いいトシだし・・・
自分は映画の冒頭から理詰めでヒトリマケが決まるものと思い、結構セリフを注意深く聞いていたのだが、井戸田潤は亜希子に「(ウソをつかないと)ちょっと前に決めたんだ」というシーンがあって、その後で街田しおんに「中学受験に失敗してウソをついて以来、ウソをつくのはやめた」とも言っており、この不一致はラストに関わるケアレスミスなんじゃないかと思った。この違いで井戸田潤は口から出任せ的にウソをつく男だと思って映画を観てしまったのだ(もしかして「ずっと前に」の聞き間違いだったかも)。どうでもいい事だが、この映画における井戸田潤の顛末が見事に現実とシンクロしてしまっていて、ラストの(以下ネタバレ→)安達祐実が井戸田の別れた妻だった(←ネタバレ終わり)の解説シーンでは、申し訳ないが大爆笑してしまった。
アガサ・クリスティの「ねじれた家」の犯人の設定が大好きな自分としては、こういうオチは大いにアリでした。あの動機の軽さも、それに反感を覚える街田しおんの常識の備え方も、観客であるフツーの人たちに対して気を配っている感じです。当初はサスペンスのつもりで脚本を書いたと製作ブログにあったけど、これがシリアスなサスペンスだったら後味は悪いし脚本の詰めの甘さを気にしない訳にはいかないので、冒頭の清水ミチコの歌で現実感の無さを猛烈にアピールしてコメディタッチで話が進む作りで正解だと思いました。
こんな人にオススメ:アレコレと先読みして映画を楽みたい方
あなたに~ お金を~ あげたいのォ~~
と清水ミチコが歌う主題歌がキャッチー過ぎて、しばらく耳から離れそうにありません。iTunesで売ってくれないか。「ヒトリマケ」は、集まった6人のうち投票でヒトリマケを決めて、その人に全員の借金を背負わせるという、ワン・アイディアで話が進むタイプの映画です。
ワン・アイディアものなんてジャンルがあるのか知りませんが、金のかかってない映画にありそうな、面白そうなネタ一発で脚本書いちゃいました、みたいなモノを勝手にそう呼んでおります。集団ロシアンルーレットで生き残る奴に金をかける「13/ザメッティ」なんてワン・アイディアの典型で、アレはホントにそのアイディアしかなくて期待外れだったが、その点「ヒトリマケ」は誰を陥れるかを登場人物が画策することに醍醐味があって、「金を使うな頭使え」的な脚本が面白い。着想も(ロシアンルーレットよりずっと)凝っているし、四日間で話が二転三転するにつれて登場人物に対する見方が変わってきて、全くダレずに楽しめました。
この映画は内容よりも「出演者・スタッフ全員ノーギャラ」のインパクトが先行してしまっている感じで、それはしょうがないかもしれないが、「だから映画の質は問わないでね」なんてエクスキューズにも聞こえる。安手のビデオをキネコしたとおぼしき映像の悪さは実際に映画としてどうよ?他はともかく街田しおんの肌色の悪さにスタッフは頓着していないのだろうか。映画を撮る男には「女をキレイに撮りたい」という欲求が絶対あるハズだと思っているのだが、低予算映画で映像が汚いってのは問うてはいかんのだろうか。せめてもうちょっとライトを、、ライトを街田しおんに・・・結構いいトシだし・・・
自分は映画の冒頭から理詰めでヒトリマケが決まるものと思い、結構セリフを注意深く聞いていたのだが、井戸田潤は亜希子に「(ウソをつかないと)ちょっと前に決めたんだ」というシーンがあって、その後で街田しおんに「中学受験に失敗してウソをついて以来、ウソをつくのはやめた」とも言っており、この不一致はラストに関わるケアレスミスなんじゃないかと思った。この違いで井戸田潤は口から出任せ的にウソをつく男だと思って映画を観てしまったのだ(もしかして「ずっと前に」の聞き間違いだったかも)。どうでもいい事だが、この映画における井戸田潤の顛末が見事に現実とシンクロしてしまっていて、ラストの(以下ネタバレ→)安達祐実が井戸田の別れた妻だった(←ネタバレ終わり)の解説シーンでは、申し訳ないが大爆笑してしまった。
アガサ・クリスティの「ねじれた家」の犯人の設定が大好きな自分としては、こういうオチは大いにアリでした。あの動機の軽さも、それに反感を覚える街田しおんの常識の備え方も、観客であるフツーの人たちに対して気を配っている感じです。当初はサスペンスのつもりで脚本を書いたと製作ブログにあったけど、これがシリアスなサスペンスだったら後味は悪いし脚本の詰めの甘さを気にしない訳にはいかないので、冒頭の清水ミチコの歌で現実感の無さを猛烈にアピールしてコメディタッチで話が進む作りで正解だと思いました。
こんな人にオススメ:アレコレと先読みして映画を楽みたい方
鎧 サムライゾンビ
「魁!!男塾」に続く坂口拓監督作品、今回は北村龍平脚本ということで密かに期待していたこの映画、ゾンビの名を拝借した映画は間違いなくバカ映画であるという経験則から、深作健太監督の傑作「エクスクロス」を彷彿とさせる作品を期待しておりました。
で、結論を申し上げますとこの映画は案外真面目に作ってあり、自分があまりにもバカ映画を期待しすぎてしまったせいで、期待値との落差にちょっとズッこけた。人によってはこの映画の何が真面目なんだと思うかもしれないが、ゾンビというか怨霊として復活する鎧武者が何故人間を襲うのかといったオチがちゃんと用意してあり、破綻のないストーリーが存在する時点でバカ映画失格である。北村龍平が脚本を書いた時点では純然たるホラーのつもりだったんだろうな。
ということで、以下はバカ映画を最後まで期待してしまったオッサンの理不尽なイチャモンが続きます。
坂口監督は明らかにバカ映画を狙っていると思うのだが、映画の底は初めから抜けてるのになかなか底が割れなくてイライラする。正統なホラーとして観るにはいしだ壱成の怪演ぶりが邪魔だし、何よりキャストの中に荻野目慶子という底なしの狂人ポテンシャルを秘めた女優が潜んでいるのだ。この二人の存在を前に、トンデモ映画を期待するなってほうが無体であります。
鎧武者が絶対的に強いという設定なので、人間vsゾンビのキレのあるアクションシーンを期待していたのに、こっちも何だか中途半端。人間側の攻撃方法が銃で撃つだけ、それも鎧ゾンビには銃は全く通用しないので、そもそも殆どのシーンが対決になっていない。いしだ壱成なんて、銃で撃たれてもタマを噛み切られても平気という不死身設定なのにアッサリと首チョンパされる始末。ゾンビと渡り合う見せ場を作らずして何のための不死身設定だったのだ。荻野目慶子だって歳くっちゃいるが、正気のタガを外して無敵モードの狂人女となった彼女が、ゾンビの鎧を素手でひっぺがしてウジ虫やらゾンビの体液やらを浴びまくる中で凄惨な笑みを浮かべるという役だってバッチリ決まる女優なのに勿体ない。ダリオ=アルジェントや日野日出志もビックリの、そこまでのモノを自分は期待していたのだ。
どうも坂口監督が真面目過ぎるんじゃないかという気がする。この映画がバカ映画になりきれていないのはいいとしても、脚本に義理立てしてアクションまで封印することはなかったんじゃないか。アクション俳優でもある坂口氏が映画を撮るなら、こんな小器用な映画なぞよりもっと「自分にはアクションしかないんだ」という覚悟で作った映画が観たい。面白いアクション映画に面白いストーリーは必ずしも必要ないのである。
こんな人にオススメ:そういえば女装していない桜塚やっくんが主役だったんですね。。。彼の素顔が気になる人に。
で、結論を申し上げますとこの映画は案外真面目に作ってあり、自分があまりにもバカ映画を期待しすぎてしまったせいで、期待値との落差にちょっとズッこけた。人によってはこの映画の何が真面目なんだと思うかもしれないが、ゾンビというか怨霊として復活する鎧武者が何故人間を襲うのかといったオチがちゃんと用意してあり、破綻のないストーリーが存在する時点でバカ映画失格である。北村龍平が脚本を書いた時点では純然たるホラーのつもりだったんだろうな。
ということで、以下はバカ映画を最後まで期待してしまったオッサンの理不尽なイチャモンが続きます。
坂口監督は明らかにバカ映画を狙っていると思うのだが、映画の底は初めから抜けてるのになかなか底が割れなくてイライラする。正統なホラーとして観るにはいしだ壱成の怪演ぶりが邪魔だし、何よりキャストの中に荻野目慶子という底なしの狂人ポテンシャルを秘めた女優が潜んでいるのだ。この二人の存在を前に、トンデモ映画を期待するなってほうが無体であります。
鎧武者が絶対的に強いという設定なので、人間vsゾンビのキレのあるアクションシーンを期待していたのに、こっちも何だか中途半端。人間側の攻撃方法が銃で撃つだけ、それも鎧ゾンビには銃は全く通用しないので、そもそも殆どのシーンが対決になっていない。いしだ壱成なんて、銃で撃たれてもタマを噛み切られても平気という不死身設定なのにアッサリと首チョンパされる始末。ゾンビと渡り合う見せ場を作らずして何のための不死身設定だったのだ。荻野目慶子だって歳くっちゃいるが、正気のタガを外して無敵モードの狂人女となった彼女が、ゾンビの鎧を素手でひっぺがしてウジ虫やらゾンビの体液やらを浴びまくる中で凄惨な笑みを浮かべるという役だってバッチリ決まる女優なのに勿体ない。ダリオ=アルジェントや日野日出志もビックリの、そこまでのモノを自分は期待していたのだ。
どうも坂口監督が真面目過ぎるんじゃないかという気がする。この映画がバカ映画になりきれていないのはいいとしても、脚本に義理立てしてアクションまで封印することはなかったんじゃないか。アクション俳優でもある坂口氏が映画を撮るなら、こんな小器用な映画なぞよりもっと「自分にはアクションしかないんだ」という覚悟で作った映画が観たい。面白いアクション映画に面白いストーリーは必ずしも必要ないのである。
こんな人にオススメ:そういえば女装していない桜塚やっくんが主役だったんですね。。。彼の素顔が気になる人に。
ノン子36歳(家事手伝い)
このご時世に「家事手伝い」なんて言葉をタイトルに持って来る感覚に古さを感じ、そもそも「ノン子」なんて呼び方だって今更な感じに溢れていて妙に心惹かれてしまったオッサンがここに一人。実際にこの映画は単線の電車が走る田舎町を舞台にしており、コンビニやマクドナルドといった今ではどこの田舎にでもあるような記号を排して、昭和っぽい風景を敢えて選んでいる。そこに住む中年女と流れ者の若者との束の間のラブロマンスという、何だかロマンポルノにあるような一遍でした。
主人公はかつてタレントだったこともある出戻り女で、映画の中で彼女がフラフラする先が神社の境内や古びたスナックや木造二階建ての安宿など。もう見事なほどの場末っぷり。ただしヒロインを演じる坂井真紀がまだまだ十分イケているので彼女自身が場末感に乏しいのが残念なところ。熊切監督にはここはいっちょ、怖いもの見たさでバーのママ役の新田恵理(!)を主人公に据えるような英断が欲しかった。まあ、それは英断ではなく自殺行為と言うのですが。
映画には主人公の濡れ場が二本登場し、一つは鶴見辰吾と、もう一つは若い俳優の星野源とのもの。この鶴見辰吾がギョッとするほど油っこくってねえ、坂井真紀の体を這い回る手のイヤらしさとか年の割に締まったオケツとか、中年の作法をコッテリ見せられている感じ。雑誌のポパイにあったセックス特集の四十路版というような、今後の自分もアレを目指すべきなのか。坂井真紀も座卓の角を極限まで利用して秘所をギリギリ隠しつつ、小さなオッパイとスレンダーなボディをたっぷり披露しております。逆に若者との濡れ場は部屋いっぱいに夕焼けの光が溢れて肌もほのかなピンク色に染まって初々しい感じ。男によって女はこうも変わるものか、いやいやこれは熊切監督の女性観であるから、女は誰もが男に合わせてコロコロ変わる女優であると言いたいのか。とりあえず確実に言えることは、やっぱりこれが新田恵理だったらホラーになっていたろうから、ヒロイン新田恵理説は撤回いたします。
どんづまったヒロインの生活に風穴を開けたのがテキ屋の若者ですが、この男は今時の若者らしいというべきか、かなり危うげな性格だった。純粋なようで図々しいというか、礼儀正しいようで無理矢理テキ屋の場所取りに割り込もうとするのが社会と自分との距離感が分かっていないというのか。このアンバランスさは「俺は世界に出たい」と言いながら田舎に来てしまうチグハグさと妙に符合している。
熊切監督は映画に登場するダメ人間三人を、田舎でくすぶってるノン子も居場所のないマサルも借金返済のためにノン子を騙そうとする宇田川も、映画の舞台の中でだけは責めずに優しく休ませているように思える。だから男はいつかそこから出て行き、女はそのまま居続ける。ノン子は男を送り出す役割を果たすために二人と寝たのだろう。この映画は自己実現に駆り立てられる30代の女性のためではなく、自己実現できなくても生きて行かねばならない男のためにあるように感じました。やっぱりロマンポルノの世界だなあ。
こんな人にオススメ:中島みゆきの「あぶな坂」に心惹かれる男
主人公はかつてタレントだったこともある出戻り女で、映画の中で彼女がフラフラする先が神社の境内や古びたスナックや木造二階建ての安宿など。もう見事なほどの場末っぷり。ただしヒロインを演じる坂井真紀がまだまだ十分イケているので彼女自身が場末感に乏しいのが残念なところ。熊切監督にはここはいっちょ、怖いもの見たさでバーのママ役の新田恵理(!)を主人公に据えるような英断が欲しかった。まあ、それは英断ではなく自殺行為と言うのですが。
映画には主人公の濡れ場が二本登場し、一つは鶴見辰吾と、もう一つは若い俳優の星野源とのもの。この鶴見辰吾がギョッとするほど油っこくってねえ、坂井真紀の体を這い回る手のイヤらしさとか年の割に締まったオケツとか、中年の作法をコッテリ見せられている感じ。雑誌のポパイにあったセックス特集の四十路版というような、今後の自分もアレを目指すべきなのか。坂井真紀も座卓の角を極限まで利用して秘所をギリギリ隠しつつ、小さなオッパイとスレンダーなボディをたっぷり披露しております。逆に若者との濡れ場は部屋いっぱいに夕焼けの光が溢れて肌もほのかなピンク色に染まって初々しい感じ。男によって女はこうも変わるものか、いやいやこれは熊切監督の女性観であるから、女は誰もが男に合わせてコロコロ変わる女優であると言いたいのか。とりあえず確実に言えることは、やっぱりこれが新田恵理だったらホラーになっていたろうから、ヒロイン新田恵理説は撤回いたします。
どんづまったヒロインの生活に風穴を開けたのがテキ屋の若者ですが、この男は今時の若者らしいというべきか、かなり危うげな性格だった。純粋なようで図々しいというか、礼儀正しいようで無理矢理テキ屋の場所取りに割り込もうとするのが社会と自分との距離感が分かっていないというのか。このアンバランスさは「俺は世界に出たい」と言いながら田舎に来てしまうチグハグさと妙に符合している。
熊切監督は映画に登場するダメ人間三人を、田舎でくすぶってるノン子も居場所のないマサルも借金返済のためにノン子を騙そうとする宇田川も、映画の舞台の中でだけは責めずに優しく休ませているように思える。だから男はいつかそこから出て行き、女はそのまま居続ける。ノン子は男を送り出す役割を果たすために二人と寝たのだろう。この映画は自己実現に駆り立てられる30代の女性のためではなく、自己実現できなくても生きて行かねばならない男のためにあるように感じました。やっぱりロマンポルノの世界だなあ。
こんな人にオススメ:中島みゆきの「あぶな坂」に心惹かれる男
ウォッチメン
「ウォッチメン」の原作者のアラン・ムーアは、子供向けとみなされていたアメコミの世界に成人向けのテーマや哲学的な問題を取り入れて、アメコミのジャンルを復活させた人物として知られております。などと知ったかぶりで書いておりますが、ウォッチメンの原作を注文したものの映画の公開に間に合わず、何の予備知識も無しに見ることとなりました。
ヒーロー物を脱構築した物語とされる「ウォッチメン」ですが、脱構築が実際何を意味するのか自分には分かっていなかった。去年の夏に大ヒットした「ダークナイト」も脱構築化のヒーロー物と言われるが、ヒーローの屈折した心情や狂気を織り込んだ物語についてはティム・バートン版の「バットマン」から既になされており、要は1990年以降のアメコミヒーロー映画は脱構築された物こそがスタンダードだったのだ。
今更脱構築って何よ?と眉に唾つけて観た「ウォッチマン」ですが、なるほど確かにこの物語はエポックメイキングな一遍であると思いました。ヒーロー物のヒーロー物たる最後の砦とでも言うべき、正義のヒーローと悪人との対決という枠をも取っ払い、子供相手には御法度のエログロてんこもり。ある者はヒーローなのに孕ませたベトナム女を撃ち殺し、仲間の女をレイプしようとする。ある者はベットインしようとしても役に立たず、ヒーローのコスチュームを着て自信を取り戻し、ようやく可能となる。このようにヒーローの意味を徹底的に解体しており、解体された一つ一つの要素に当時のアメリカの世相をからませている。
ザック・スナイダー監督がこれまたバイオレンスやセックスを強調して映像化しており、腕をヘシ折られて骨が剥き出しになるようなグロい場面でスローモーションな演出を使うなど、「300」よりもドギツい表現です。原作は登場人物も多く複雑だそうだから、おそらく原作の複雑なストーリーを追うのはこれが精一杯だったのだろう。過去を語るためにモノローグを多用し、主要な登場人物の説明が終わったら即座にラストになってしまうなど、ダイジェストな感じは拭えなかったが、その分映像の凝りようは半端ではなく、3時間という長さを感じさせない仕上がりでした。
原作者のアラン・ムーアはイギリス人であり、「ウォッチメン」におけるヒーロー物の脱構築化というのは、米ソの冷戦時代におけるアメリカ人の傲慢さや暴力性といった負の性質をアメコミのヒーローという正義の象徴を使って語り直した話である。原作が上梓された1986年は、レーガン大統領が「強いアメリカ」を標榜し、当時高校生だった自分は「ロッキー4」に代表される正義のアメリカのイメージをモロに受けていた頃だ。その一方で「ウォッチメン」が当のアメリカ人に受けていたということは、当時の雰囲気に違和感のある人たちが結構いたということなのだな。まあそれがオタクだったというオチなんだろうけど。
こんな人にオススメ:原作を知らなくても現在のアメコミ・パワーを感じたい人は是非
ヒーロー物を脱構築した物語とされる「ウォッチメン」ですが、脱構築が実際何を意味するのか自分には分かっていなかった。去年の夏に大ヒットした「ダークナイト」も脱構築化のヒーロー物と言われるが、ヒーローの屈折した心情や狂気を織り込んだ物語についてはティム・バートン版の「バットマン」から既になされており、要は1990年以降のアメコミヒーロー映画は脱構築された物こそがスタンダードだったのだ。
今更脱構築って何よ?と眉に唾つけて観た「ウォッチマン」ですが、なるほど確かにこの物語はエポックメイキングな一遍であると思いました。ヒーロー物のヒーロー物たる最後の砦とでも言うべき、正義のヒーローと悪人との対決という枠をも取っ払い、子供相手には御法度のエログロてんこもり。ある者はヒーローなのに孕ませたベトナム女を撃ち殺し、仲間の女をレイプしようとする。ある者はベットインしようとしても役に立たず、ヒーローのコスチュームを着て自信を取り戻し、ようやく可能となる。このようにヒーローの意味を徹底的に解体しており、解体された一つ一つの要素に当時のアメリカの世相をからませている。
ザック・スナイダー監督がこれまたバイオレンスやセックスを強調して映像化しており、腕をヘシ折られて骨が剥き出しになるようなグロい場面でスローモーションな演出を使うなど、「300」よりもドギツい表現です。原作は登場人物も多く複雑だそうだから、おそらく原作の複雑なストーリーを追うのはこれが精一杯だったのだろう。過去を語るためにモノローグを多用し、主要な登場人物の説明が終わったら即座にラストになってしまうなど、ダイジェストな感じは拭えなかったが、その分映像の凝りようは半端ではなく、3時間という長さを感じさせない仕上がりでした。
原作者のアラン・ムーアはイギリス人であり、「ウォッチメン」におけるヒーロー物の脱構築化というのは、米ソの冷戦時代におけるアメリカ人の傲慢さや暴力性といった負の性質をアメコミのヒーローという正義の象徴を使って語り直した話である。原作が上梓された1986年は、レーガン大統領が「強いアメリカ」を標榜し、当時高校生だった自分は「ロッキー4」に代表される正義のアメリカのイメージをモロに受けていた頃だ。その一方で「ウォッチメン」が当のアメリカ人に受けていたということは、当時の雰囲気に違和感のある人たちが結構いたということなのだな。まあそれがオタクだったというオチなんだろうけど。
こんな人にオススメ:原作を知らなくても現在のアメコミ・パワーを感じたい人は是非
マンゴーのチーズケーキ
DSのレシピソフトの中から実際に作ってみるシリーズ。12回目は懲りずにまたまた焼きました、マンゴーのチーズケーキです。イチゴが割と成功したので気を良くしたのと、もう少し甘さや全体的な分量を抑えたほうがいいのでは?と改良の余地アリと踏んだのであります。

出来上がりは妙にテカっておりました
結論を先に述べますと、マンゴーがまだ時期じゃないので酸っぱくって失敗。こういう試行錯誤も楽しい経験であります。ただ今回はクリームチーズを250gから200gへ、生クリームを200ccから150ccへなどと比率を全く考えずにアバウトに減らした結果、妙に固いケーキになってしまい、家族からも前回のような好評は得られませんでした。この詰めの甘さはケーキ作りに限らず万事において自分のダメな点でありますが、まあB型だかと自ら率先して諦めてます。

マンゴーだと色が同じであまり目立たない
今回のマンゴーについて、季節感がないと言われる日本の食糧事情でも、やっぱり旬の食材が一番おいしい(そして安い)ということを改めて感じました。季節感をスーパーで感じるってのも殺伐とした感じがしますが。

出来上がりは妙にテカっておりました
結論を先に述べますと、マンゴーがまだ時期じゃないので酸っぱくって失敗。こういう試行錯誤も楽しい経験であります。ただ今回はクリームチーズを250gから200gへ、生クリームを200ccから150ccへなどと比率を全く考えずにアバウトに減らした結果、妙に固いケーキになってしまい、家族からも前回のような好評は得られませんでした。この詰めの甘さはケーキ作りに限らず万事において自分のダメな点でありますが、まあB型だかと自ら率先して諦めてます。

マンゴーだと色が同じであまり目立たない
今回のマンゴーについて、季節感がないと言われる日本の食糧事情でも、やっぱり旬の食材が一番おいしい(そして安い)ということを改めて感じました。季節感をスーパーで感じるってのも殺伐とした感じがしますが。