今日も定時ダッシュ -118ページ目

MW -ムウ-

 いつもならばこういう地雷映画はサッサと迂回するのだが、この映画における玉木宏のカッコ良さというか、ホントに手塚治虫のマンガに登場する美青年のような雰囲気が気になって、玉木宏を見るためだけでも価値はあるんじゃないかと思っておりました。世の中には先に地雷を踏んだ先達の感想がそこかしこにアップされているので、彼らの屍を避ければ料金分は楽しめるハズ。

 ということで念入りに地雷対処法をイメージトレーニングをして観て参りました。「料金分の価値」がこの映画では玉木宏の美丈夫ぶりを堪能することであれば確かにモトは取ったと思います。まずポスターの上目遣いに薄く笑っている顔に手塚キャラっぽさを感じ、背が高い上に痩せぎす一歩手前な容姿もマンガ的で、スーツ姿のカッコよさにいつもなら「こいつはオレの敵」と嫉妬ゲージが上がる所がその気すら起きず。おそらく自分の眼がスクリーンに映る玉木宏に手塚治虫補正をかけていたのだと思う。

 しかしこの映画は玉木宏のアイドル映画ではないので、それ以外のダメさがこうも目に付くとは思わなかった。「MW」の失敗は原作にあった結城と賀来のホモセクシャル的な関係を除いたことが原因だったという感想が多く、確かにソレを省いちゃ「MW」の意味はないのだが、実際に観てみるとこの映画のつまらなさはそれ以前の問題だろう。玉木宏を誉めといてナンだが、そもそも結城が残忍な悪人に見えない。原作から離れて賀来との善悪の対比なしに悪を描くなら、映画では「セブン」の犯人のような悪人を、その犯人側から描く話にするしかないと思うのだが、結城が人の心を弄ぶ要素は最初の誘拐事件で控えめに出てくる程度。「MW」の殺人の扱い方は「007」と同様、殺される人間の苦痛や無念さは伝わってこない。これは監督の力量不足かテレビ局主導の弊害なのか、逃げの手を打ってもこの程度なんだから、これでキャッチコピーにあるような禁断の要素を入れてしまったらどこまで悲惨な事になったやら。

 個人的に手塚治虫の魅力は、キャラクターの無上のかわいらしさにあると思っている。なのでストーリーがつまらなくても手塚キャラの魅力をこれでもかと再現した「メトロポリス」を大いに買う一方で、アメリカ人の嗜好に合わせて男の子っぽいアトムに変えようとしたハリウッドのアストロボーイを許さないのだ。さすがにこれには手塚プロからもダメだしを食らったようで日米の折衷案で今のデザインになったのだが、しかし今のデザインですら許せん。そもそもどの映画でも画一的な絵しか描けないハリウッドの3D映画ごときに手塚治虫のセンスが再現できる訳もなく、「仏作って魂入れず」になるのは今から目に見えている。

 それを言うなら「MW」こそ仏すら作れなかったのだけれど、手塚治虫のビジュアルを実写で再現できた玉木宏が存在しただけでも、それなりにリスペクトはあったのではないだろうか。

こんな人にオススメ:玉木宏に操を立てた女性ならば。

ディア・ドクター

 映画の冒頭で「田舎は夜が暗いですねえ」と刑事が呟くシーンがあった。そうそうそうそうそう!!街灯がないと夜は暗いんだよ、と当たり前のことに深く共感したのであります。しかし、きょうびの映画でこの当たり前のことに気を配っているものが何と少ない事かと常々感じていたので、このセリフは「よくぞ言ってくれました」という感じです。時代劇でも現代のようにボヤっと明るい夜のシーンなんてザラにあるからな。「ディア・ドクター」でもライトを外す訳にはいかないから真っ暗ではないものの、濃い夜の闇が画面の上半分に重く掛かっていて、田舎を舞台にしていることを観る者に意識させてくれます。

 そして昼間は棚田の濃い緑と青い空、そこを走る余所者の瑛太の場違いな赤いカブリオレというのはあざと過ぎるが、それでも色の対比が美しい。稲がザワザワと風に吹かれる様子を真上から撮ったショットでは、その複雑にそよぐ様にウットリと見とれていた。あのショットもきっと映画の中で何か意味があったのだろうが、ストーリーのどのあたりだったのかは思い出せず。こういう絵作りは決して監督だけの力ではないのだろうが、映画の魅力として引き出した西田監督の手腕の高さを感じる。

 監督が女性だからか、映画の中で口紅の使い方にオっと思わせるものがありました。映画の冒頭で一人暮らしのお婆さんを診察する際に、彼女が真っ赤な口紅を塗って大正時代のモガみたいな帽子を被っている様子が医者が過剰に歓迎されていることを物語っており、そしてそれは後に八千草薫が医者の来診を待って薄いベージュの口紅を塗るシーンに繋がっている。選んだ色にもよるが八千草薫は年をとっても品があるので、冒頭のバアさんみたいなみっともなさがない。ついでに映画の最後で、医者が去った後の余貴美子が夜中に喘息を起こした息子を介抱する時のシミだらけの素顔のシーンにも繋がっているように思う。いや、夜中だからノーメイクで当たり前じゃんというのは尤もなのですが、あのシーンはそういうストーリーの裏に、余の素顔(シミを散らしたメイクだと思うが)を映して医者が去った後の女性の心理を現す意図があったと思うな。

 この映画では主役の笑福亭鶴瓶をはじめキャストが驚く程映画にハマっていた。脇役にもそれぞれいいシーンがあり、中でも母親に見られないように顔を背けて涙を流す井川遥が一番印象に残った。井川遥も良かったし、あそこで泣き顔を正面からアップにしないカメラも良かった。泣けるシーンがあるとハゲタカのようにカメラが迫る昨今、節度のある演出であります。鶴瓶がニセモノと分かった後の、瑛太の自分が裏切られたと言いたげな、苦々しい表情を顔に貼り付かせる様も良かった。瑛太も途中で鶴瓶がニセモノだと気付いていたのかな?とも思ったのだが、それだったら鶴瓶が失踪した後に一心不乱に田んぼの中を探しまわったりしないだろう。

 現代は、マスコミを通して一つの事件を日本中が共有し、余所者による正義の声がテレビにもブログにもひしめいている。例えば日曜日にウッカリとサンデージャポンなんて見てしまうと、気狂いのように自分の正しさを言い立てるヒナ壇文化人にイヤーな気分にさせられるのだが、「ディア・ドクター」は世の中は30秒コメントで片付けられるような単純なものではないということを現しているように思う。この映画の評判が良いのは、今の社会の息苦しさの裏返しなのではないだろうか。

こんな人にオススメ:こういう映画は若者にはピンとこないものなのだろうか。

サスペリア・テルザ

 「サスペリア」が公開されたのが1977年。「決して一人では見ないでください」のコピーは当時の流行語にもなったので7歳だった自分も知ってはいたのだが、さすがに映画そのものは見ておらず。その後テレビ放映されたのを観た覚えはあるのだが、内容については殆ど忘れてしまった。

 ダリオ・アルジェントの映画の記憶はそれっきりだから間違った感想かもしれませんが、アルジェントってばこんなに愉快な映画を作る人だったんだと大いに楽しませてもらいました。例えるなら深作健太の「エクスクロス」は作り手自体がバカ映画を目指しているのが分かるが、「サスペリア・テルザ」はあくまでも大真面目に作った挙げ句に物凄く妙テケレンな映画に仕上がったという感じ。意図しないだけこっちのほうがバカ度は高い。

 ローマに集まる魔女のメイクが皆アングラっぽく、矢鱈と荘厳なBGMの割には特殊メイクが安っぽかったり、どうにも映画から受ける印象が70年代チックであります。オッパイはポンポン出て来るわ白石加代子(みたいな日本人の魔女)も出て来るわ糞尿は降ってくるわで、笑える「女囚さそり」を観ているよう。ちなみに主役のアーシア・アルジェントは言わずと知れた監督の娘なのだが、彼女もしっかりオッパイ見せてくれました。ここは親子で何やってんだとツッコミを入れるのが礼儀。

 アーシア・アルジェントは復活した涙の魔女に対抗し得る力を持った白い魔女の役なのだが、彼女の不思議な力というのが魔女対決にて全く発揮されず、トイレのドアに顔をバンバン挟んで魔女をブチ殺したり涙の魔女の着ていたTシャツを剥ぎ取って最強の魔女をメソメソ泣かしたりと、ほぼ力技で乗り切っております。彼女を追いつめるシーケンスは彼女に関わる人物がことごとく悲惨な死に方をしていくという凝ったものなのに、肝心の魔女退治がこんなに大雑把でいいのだろうか。まあ笑ってしまったから自分としては良いに決まっているのだが。

 結局ワタクシはこの映画に大満足だったのですが、観終わってニコニコして席を立っところ、まるで「こんなクソ映画を観るために30年も待ったんじゃない」と言いたげな不機嫌そうな御年配の客と目が合ってしまい結構気まずかった。「サスペリア」をロードショーで観た人の話では、あの映画は真剣に怖くて面白かったそうなので、同じシリーズの最終作がコレってのはアルジェント監督も寄る年波には勝てなかったということだろう。「サスペリア・テルザ」は老人力の賜物と考えると、少しは優しい視線でこの映画を受け止める事が出来る・・・かも知れない。

こんな人にオススメ:バカ映画好きが二人で観に行けば気兼ねせずに大笑いできること請け合い。この映画のコピーは正しかったね。

青梅の甘露煮

 梅は「今買っておかねば無くなってしまう」という強迫観念がついてまわるため、目に入ってしまうとついつい買い込んでしまう、という誘惑光線を放っています。梅シロップを十分作ったってのに作るアテのない梅を買い込んでしまい、どうしようか考えて甘露煮でも作ろうと思い立つの巻。

 しかしこの甘露煮、言うは易し行うは難しの典型みたいなシロモノでございました。

 レシピを調べると、梅に針で穴を開けるだの弱火にかけながらお湯に手を入れて梅を返すだのとテクニカルな作業が多いのですが、要は目的は梅の渋を適度に抜いて甘く煮ることにあります。いやまあ、初めから甘露煮作ってんだからそんなことも分からんのかボケ!とお思いでしょうが、実際に体験して腑に落ちることも世の中多い訳で。わたしゃ都合2キロの青梅を使ってようやく理屈が分かったよ。

 梅の渋は抜きたいが湯が熱過ぎると梅が破れてしまう、このジレンマを解決するために非常に繊細な手順が編み出されたのでありました。梅を水につけて灰汁を抜き、針を刺して皮に穴をあけて熱を加えても簡単に皮が破れないようにしておく。50度くらいの湯温にして、さらに熱い鍋底に梅が触れないように手でかき回す。砂糖で煮ると梅が浮かんでしまうので落としぶたをする、それも木の蓋では梅が破れてしまうので布巾をかけて蓋にする、とまあ、まるで「お梅さま」とでも呼びたくなるような姫御前ぶりであります。

 これは下手すりゃ一日がかりで鍋に付きっきりの仕事になりますが、別に料亭に出す料理を作ってる訳でなし、多少皮が破れたくらいは大目に見るにしても、結局1回の作業で半日ぐらいかかってしまいました。

今日も定時ダッシュ-梅甘露煮2
2Lの梅がちょうどいい感じです。

 あれほど手をかけて煮たというのに、出来上がった梅は種のまわりに渋が残っており、あとは中まで染みるまで、シロップ漬けにして一週間くらい冷蔵庫で保存しておきます。そうすると渋味が上手い具合に酸味に変わって、暑い夏に良く合う一品になるのですが・・・、ホントにこれでいいのだろうか?梅シロップの梅なんてもっと濃厚な甘さになるのだが、あれくらい甘いものが世間一般の梅の甘露煮なのではなかろうか、と出来上がりにいまひとつ自信のない、もうすぐ不惑の梅雨のひとときでありました。

それでも恋するバルセロナ

 ウッディ・アレンは女優の使い方が上手いと言われております。見た目ショボいオッサンのくせにダイアン・キートンやミア・ファローといった女優と交際してきたあたり女性の選択もかなり目が高い。もしやウッディ・アレンは出演する女優を念頭に負いて、その女優が一番輝けるキャラクターを作った上で脚本を書いているのではないかという気がする。

 しかし出演する女優の全員をキラキラと輝かせるには、いかな手練のウッディ・アレンといえども至難の業のようで、例えば「ギター弾きの恋」ではあろうことかユマ・サーマンがサマンサ・モートンの引き立て役になっていた。そのデンでいうと「それでも恋するバルセロナ」はスカーレット・ヨハンソンがペネロペ・クルスの引き立て役になってしまっており、ここ最近のアレン映画の出演をもってヨハンソンがウッディ・アレンのミューズだという映画評が多いが、「それでも恋するバルセロナ」のミューズはどう見てもペネロペ・クルスである。ウッディ・アレンは絶対ペネロペを念頭に置いてマリア・エレーナのキャラを作ったね。

 前半は割と緩いバカンス映画だったのが、ペネロペ・クルスが登場してから急に熱を帯びたように映画がヒートアップしてくる。とにかくこの女が何をやらかすのか妙に気になって、ペネロペ・クルスの独壇場みたいになってくるのだ。それに対してスカーレット・ヨハンソンは情熱的ではあるが所詮は自分探し大好きな普通の娘の役なので、振られた役の分が悪過ぎた。

 同じフェロモン系で割を食ったスカジョに比べて、ノーマークだったレベッカ・ホールの、享楽的になれないながらもヨロヨロとよろめいていく役が結構印象に残りました。この映画では、カップル2組でテーブルにつくときに、カップル同士ではなく男同士・女同士で座っており、アレは映画上の演出なのか常識的な行為なのか、なんだかニューヨーカーの堅苦しさをのぞかせるシーンでした。

 カンヌ映画際におけるこの映画のプロモーションで、スカーレット・ヨハンソンがワガママで非協力的だったというニュースがありましたが、これはやっぱりペネロペに食われたスカジョの最後っ屁とみたね。女の戦いって怖い。

こんな人にオススメ:ひさびさのウッディ・アレンらしい映画なので、氏のファンならば是非