今日も定時ダッシュ -114ページ目

女の子ものがたり

 はるか昔に、コラムニストの中野翠が「邦画は貧乏は描けるけど金持ちが描けない」と書いていた記憶がある。「女の子ものがたり」を観た自分は真っ先にこの言葉を思い出し、「そして今では貧乏ですら描けなくなった」と繋げたのでありました。

 先に申しますと、おそらくこの映画は深津絵里あたりの年代の女性がターゲットで、映画に彼女達を引き込むのではなく、この映画がキッカケとなって、彼女達自身の子供の頃や高校生の頃を振り返るために作られたのだと思う。なので、西原理恵子の持ち味である、身もふたもないほどの残酷さやみじめさなど女性がドン引きしそうな要素は抑えている。貧乏を描けないではなく、わざと貧乏臭くしなかったのかもしれない、とも言える。

 先ず主人公とその友達の三人が貧乏に見えない。彼女達が着ていた服はアップでみると薄汚れてはいたがサッパリしたもので、顔は日に焼けておらずスタイルもいいものだから、彼女達が男子の苛めにあっている所を金持ちの女の子に助けてもらうシーンなんて見た目の違いが余り無く(どころか、金持ちの子の服のほうが流行遅れに見える)、引け目を感じるような落差は全く感じなかった。

 一番貧乏なきいちゃんの母親役が風吹ジュンで、貧乏で家がド汚くて娘を放りっぱなしにしているにしては良いお母さんとして登場しているのも変だ。友達が土足であがるほど汚い家なのに、その家の湯沸かし器が新品のように真っ白なのもおかしい。ボロく見せるために手を加える時間や予算がないのだったら、なぜわざわざあの湯沸かし器をフレームに入れたのだろう。

 自分が思うに、貧乏の色というのはセピア色で、焦げ茶のようなネズミ色のような、競輪場にいるオヤジ達を煮染めると染みだすような色である。「女の子ものがたり」から貧乏を余り感じないのは、つまるところ色彩がキレイだからなのだろう。女の子のカラーも黄色、ピンク、青と奇麗に使い分けられて、彼女たちが緑の深い土手や山をバックに、夕陽や夏の日差しの中を歩いている様子はとても清々しかった。自分にとっては、どうしても西原理恵子の原作ということで貧乏フィルタを通して観てしまうところがあったので、いまひとつ素直に印象的な色彩を楽しめなかった。監督の興味も、子供達の世界の色を混ぜ込んでセピアにするのではなく、おとぎ話的にそれぞれの色を際立たせることにあるのなら、原作自体が監督のイメージに対して一番邪魔ではなかったかと思う。

こんな人にオススメ:西原理恵子が苦手な女性でも楽しめそう。

ドラクエ9 クロエばあさんの事

 これは9で始まったことではないが、ドラクエの世界には割と多くの老人が登場する。白いヒゲを生やしたおじいさんや、髪をダンゴに結ったおばあさんが道具屋や宿屋にいたりするが、そりゃ他のRPGだって村人の立場で老人は出て来るのだけれど、ドラクエの場合は老人の配置の仕方にいちいち引っかかりを覚える。

 分かりやすいところでベクセリアで登場した新婚夫婦。夫は白ヒゲの老人なのだが妻はバニーガールの格好をしており、この義父の介護的なカップリングに先ずギョッとする。で、てっきり「私どもがこれほど年が離れている理由は・・」とか「なぜアタシがバニーやってるか・・・」とか聞けると思ったら「新婚旅行で来たものの病気にかかって・・・」と、話す内容はいたってフツー。おいジジイ!オレが聞きたいのはソコじゃねえ!シレっとストーリー進めんな!!とまあ、もどかしいったらありゃしない。

 他にも、カラコタ橋の道具屋では、白髪の老人の店主にビキニを着けた若くてワガママな妻の、ここにも似たようなカップルが登場しており、この年の差カップルが普通に混ざっているのはやっぱり堀井雄二の願望なんだろうか?これだけの大作なので堀井氏以外の人が仕込んでいるかもしれないが、逆に老人がからむ演出は全部堀井雄二が手がけているという可能性だってある。ドラクエ9発売後に「堀井雄二、キャバクラにハマってる説」がどこからともなく出てきたが、それはサンディのガングロキャラよりも、ドラクエ9は妙に爺さんと若い娘のペアが多く、それが若い世代には全く存在しない感覚だからではないかと思う。

 老人がRPGの世界に当たり前のように存在できるのは、ドラクエ9がドット絵みたいな3DCGで描かれているという理由が大きい。ファイナルファンタジーのようなカッコいい3DCGでは、奇麗な若者をピカピカに表現する技術には長けていても、その世界に普通の老人を存在させるようなスキルはない(と思う)。そもそも年の差カップルが登場する必要もないし。

 そんな、老人が普通に登場するドラクエ9において、とりわけクロエという名のおばあさんが心にこびりつくキャラクターでした。彼女が初めて登場するのは、物語の序盤で彼女の友人が知っている情報を得るための、いわば「ついでに登場した」程度なのだが、彼女の家の本棚に「月刊 石の友 第29号」という本があって、初回はそれが何の意味なのか分からないままにその場は終わる。そして中盤でクロエばあさんが絡むエピソードが登場し、その後で彼女を訪ねて、同じように「月刊 石の友」を見つけた時に、ああああそういう事かと、初回には分からなかった意味が浮かび上がって来る仕掛けになっている。

 ここで大切なのは、クロエばあさんも石の友もプレイヤー自身はスッカリ忘れているという事で、それを思い出すことによって、プレイヤーが主体的に「月刊 石の友」の意味が見いだせた気分になれる。これは好きな時に好きな場所に行けるからこそ出来る演出で、映画で同じ事をやるにしても、こんな風にさりげない形にはならないだろう。何となくドラクエをやって良かったなと思えた瞬間でした。

 このエピソード以外にも、ベッドに横たわったまま二度と動かない人形や、流行り病で死んだ女の子の霊がいるんじゃないかと思って行ってみると、そこには全く関係ないオッサンの霊が立っていたりと、様々な場所で、少しずつ心を残すような演出が施されている。全てを語り切った本編よりも、こういう脇のエピソードの言外に含みを持たせるやり方が心憎い。

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アマルフィ 女神の報酬

 民放開局50周年記念企画だか何だか知らないが、そもそもテレビの記念ならテレビでやらんかい!とまあ、碌に観もせずに悪態だけはついていたのですが、中でもフジテレビは映画事業に関して調子に乗っている感じがする。しかしこの「アマルフィ」は、制作規模の大きさに反して事前に原作兼脚本の真保裕一氏が脚本のクレジットを降るといったヤバげなニュースもあり、結構評価も悪いので、「これは自ら赴いていかにテレビ局製作映画がダメか確かめてやろう」とマイナスオーラを噴出させながら観に行ったのでありました。

 そんな思いっきり上から目線の自分だったのですが・・・あれ?「アマルフィ」って、ひょっとして面白い映画なんじゃないの?と評価が逆転してしまい、自分自身がビックリ。とにかく「アマルフィ」は格好いい。織田裕二でも天海祐希でもなく、映画が格好よかったのだ。

 ただ、この映画を楽しむためには非常に難儀な条件があって、それは決して、決してストーリーを追わない事であります。物語としてこの映画を捉えると、真保裕一がクレジットを降りたのも納得のグダグダぶりで、御都合主義だったり説明不足だったり、サラ・ブライトマン(って誰?)に意味はないわ、それを言うならアマルフィも全く無意味だわで、一体何が言いたいのこの映画?となる。元々の脚本は西谷弘監督も携わっているらしいが、脱稿した後で更に監督がホンを変えてると思われる。ちなみに一番手に汗握ったシーンは、織田裕二がホテルから車を出すところ。あそこは織田裕二のアップから俯瞰のロングショットに繋がっているのでホントに運転しているのだろう。「危ない!ぶつかる、ぶつかるー」と志村うしろ状態。

 しかしストーリーとは関係ない所でこの映画は目を見張るものがある。冒頭で織田と天海がエレベーターに乗っている時に、真ん中に熱烈カップルを置いて二人が両側で強ばった顔をしていたり、空港では戸田恵梨香のアップの向こうで織田裕二が彼女が摺られた財布を取り戻したり(しかも織田裕二ピンボケ)、そしてラストシーンの凸レンズで撮ったような、中央にアマルフィの街が聳え、画面左下に母娘が佇み、画面右下には直前までいた男が消えているという、1カットで複数の視点を画面に入れる凝った絵作りによって、セリフではなく画面によって映画を進めている。「アマルフィ」がストーリーを語る映画だったら、織田裕二が財布を取り返す場面は彼の最初の見せ場としてもっとドラマチックに撮られていたハズだ。自分は以前に「ザ・バンク 堕ちた巨像」のカメラの悪口を書いたのだけれど、「アマルフィ」はそれとは真逆のことを行っており、比較的長いシーンとの合わせ技で観客に画面を見続ける緊張感を与えている。

 この映画におけるアマルフィは無意味だと上で書きましたが、ストーリー上はホントに意味がないのだけれど織田裕二にとっては話が別で、キラキラした海をバックに織田裕二がアップになるシーンで、映画も半ばにしてようやく織田裕二のスターとしての見せ場が登場する。その後もご褒美的に彼は2度、キラキラ海を背にしてキメているカットがあり、サブタイトルの女神の報酬というのは、ピンボケだったり画面から外れ気味だった織田裕二が、ようやくスターとして扱われた瞬間を指していたのだと納得。そういえば映画のタイトルではバックに波の音が流れ、次に波のようにうねる街のシーンに続いたのは、アマルフィではなく海に意味があったからなのだ、と思い至ったのでした。

 一応ヒロインである天海祐希ですが、登場場面のほとんどが能面みたいな無表情で感情表現が乏しい事おびただしい。けれども一方で、彼女は重い荷物を抱えたり坂道を走ったりと絶えず息を切らしており、そのハアハアという過呼吸気味の喘ぎが母親としての焦燥感を伝えている。これは彼女の演技というより監督の演出によるものであり、天海祐希も織田裕二と同様、役者としての見せ場を監督によって阻まれている。そんな彼女がヒロインとして成立するのもやっぱりアマルフィにおいてであり、ローマでは吸っていた煙草をアマルフィでは止めて、心のタガを外して織田裕二の胸で泣くことによって、彼女は束の間だけ能面芝居から解放されている。「アマルフィ」は硬派ぶった織田裕二と無表情の天海祐希が、一瞬だけ心を通わす映画なのだと思う。

 監督はストーリーそっちのけでそんな事ばかりしているものだから、クライマックスで犯人や標的の男がストーリーを喋りまくるダメダメな展開になってしまい、それまでのツケを一気に払っている感じであります。まるでイタチの最後っ屁のよう。サスペンスを期待した客に最低限の辻褄合わせだけをした感じで、そっちを期待していたらそりゃ怒るわ、と思う。個人的には大満足の一本でしたが、これじゃあフジテレビ的には大不満だろう。こんな無謀な映画を作ってしまた西谷監督の今後がちょっと心配。

こんな人にオススメ:映画はストーリーを語る器ではないと考える人は是非映画館で