ウルヴァリン X-MEN ZERO
何となく本編からのスピンオフ企画というと、本編では脇役だった人物を主役にした話(「バットマン」のスピンオフが「キャットウーマン」だったりとか)のことだと思っていたのですが、X-MENのスピンオフ第一弾はウルヴァリンが主人公って、それじゃ本編と変わらんじゃん。まあ、確かに主要な登場人物の中ではヒュー・ジャックマンが一番集客力あるだろうし、高い製作費をかけたハリウッド映画ならば確実に稼げる線を狙うのは当然だよなあ、とスピンオフとは何ぞやなどと考えてしまいました。
そして集客アップのために今回もやっぱり脱ぎましたジャックマン。しかも遂にスッポンポンでご登場。ヒュー・ジャックマンの映画を全て見ている訳ではないですが、この人が脱いでいない(ような気がする)のは「プレステージ」ぐらい。そりゃまあ自分だってペネロペ・クルスが脱ぐ映画は何を置いても馳せ参じる所存でありますから、西のヒュー・ジャックマン、東のイ・ビョンホンと男性版の脱ぎ要員が登場するのは女性のマーケットを考えれば当然のことなのだろう。ただ、それならそれでもうちょっと男の裸を魅せる撮り方をすればいいのに、と思う。自分の目が男の裸とエロとが結びつかないからだろうが、この映画のヒュー・ジャックマンのストリーキングって実際見せ場になってんの?と疑問に思った。どうせやるならバズ・ラーマンの「オーストラリア」の水浴びシーンくらいサービスしても良かったんじゃなかろうか。まあ、あまりそっち方面にいかれても自分はきっと引いてしまうだろうから、男女ともに楽しめる辺りに落とし込んだのかもしれない。
そんなコトを考えてしまうのは、どうも「ウルヴァリン」はヒュー・ジャックマンをはじめとして様々な人種や年代やタイプのイケメンを観るための映画のように思えたからだ。その中で自分が面白かったのはトランプマン(役名忘れた)。トランプを華麗に飛ばして攻撃したり、魔法のステッキでヒュー・ジャックマンの邪魔をしたりで荒木飛呂彦的にカッコ良い。彼の見せ場が一番無意味なのに、最も華を持たされてるように見える。このあたりの軽い感じは、なるほどこれがスピンオフか、と納得がいく。
これまでスカーレット・ヨハンソンの夫としてしか認識していなかったライアン・レイノルズを初めて映画で観ました。彼が最後に登場する姿が奇形的で、もっとビジュアル的にこの感じを突詰めていけば人造人間のグロテスクさが光るハードなストーリーになったろうに、ちょっと残念に思う。でもまあ、あまりやりすぎると今度は女性客が引いてしまうのだろう。万人向け映画ってちょっと歯痒い。
こんな人にオススメ:ストーリーは丸パクリでいいからこれの女版作ってくれ。
そして集客アップのために今回もやっぱり脱ぎましたジャックマン。しかも遂にスッポンポンでご登場。ヒュー・ジャックマンの映画を全て見ている訳ではないですが、この人が脱いでいない(ような気がする)のは「プレステージ」ぐらい。そりゃまあ自分だってペネロペ・クルスが脱ぐ映画は何を置いても馳せ参じる所存でありますから、西のヒュー・ジャックマン、東のイ・ビョンホンと男性版の脱ぎ要員が登場するのは女性のマーケットを考えれば当然のことなのだろう。ただ、それならそれでもうちょっと男の裸を魅せる撮り方をすればいいのに、と思う。自分の目が男の裸とエロとが結びつかないからだろうが、この映画のヒュー・ジャックマンのストリーキングって実際見せ場になってんの?と疑問に思った。どうせやるならバズ・ラーマンの「オーストラリア」の水浴びシーンくらいサービスしても良かったんじゃなかろうか。まあ、あまりそっち方面にいかれても自分はきっと引いてしまうだろうから、男女ともに楽しめる辺りに落とし込んだのかもしれない。
そんなコトを考えてしまうのは、どうも「ウルヴァリン」はヒュー・ジャックマンをはじめとして様々な人種や年代やタイプのイケメンを観るための映画のように思えたからだ。その中で自分が面白かったのはトランプマン(役名忘れた)。トランプを華麗に飛ばして攻撃したり、魔法のステッキでヒュー・ジャックマンの邪魔をしたりで荒木飛呂彦的にカッコ良い。彼の見せ場が一番無意味なのに、最も華を持たされてるように見える。このあたりの軽い感じは、なるほどこれがスピンオフか、と納得がいく。
これまでスカーレット・ヨハンソンの夫としてしか認識していなかったライアン・レイノルズを初めて映画で観ました。彼が最後に登場する姿が奇形的で、もっとビジュアル的にこの感じを突詰めていけば人造人間のグロテスクさが光るハードなストーリーになったろうに、ちょっと残念に思う。でもまあ、あまりやりすぎると今度は女性客が引いてしまうのだろう。万人向け映画ってちょっと歯痒い。
こんな人にオススメ:ストーリーは丸パクリでいいからこれの女版作ってくれ。
TAJOMARU
小栗旬のアイドル的コスプレ映画かと思いきや、小栗旬以外の役者に結構目がいく映画でした。若者の薄っぺらな正義感を難なくいなして、老獪な権力者として場を支配してしまうショーケン(どうでもいいけどこの人は顔が小さいせいで耳がすごい大きく見える)の暗黒オーラや、悪党なれども人の良さからトンマな死に方をする松方弘樹といったベテランの印象が強く残ります。
思わぬ拾い物が阿古姫を演じた柴本幸で、決めるべき箇所でバシっと決めており男前的にカッコいい。森の中で愛していた男を殺してくれと言い募る場面など、拙い演技力ではドッチラケだったろう。お白州での決死の覚悟が顕れた緊張感や、地獄谷にて気が触れた形相で小栗旬を見据えるシーンなど、アイドル映画のヒロインではおさまらない存在感を見せる。彼女とのかけあいのシーンでは、小栗旬がまるでコメディリリーフのようだった。
その他にも、やべきょうすけが登場すると、それまでの時代劇から一気に現代劇っぽく転調するのも小栗旬の雰囲気に合っていて小気味良く、結構面白く見ていたのだが、しかしそれも最後の最後、子供時代をプレイバックするシーンが出てきて全部ブチ壊された。
もうこの子役どもの芝居が映画を破壊するほど下手クソで、しかも映画の冒頭では子供達のどうにもならん学芸会に結構な時間を費やしている。でもまあ、子供の演技が下手なのはしょうがないことだと思う。ハラが立つのは子供たち本人ではなく、観客にあの薄ら寒い子役のかけあいを見続けさせて平気な監督の感性であります。
コレはアレだね。監督はどーせ「小栗旬目当てのシネコンの客なんて低能ばっかだからイチイチ全部説明してやんねーと何にも理解できないんだよな」と見くびっているに違いない。そりゃ映画にストーリーは大切だろうが、しかしこの映画のように客が不快になってもフォローしなければという程大事だとも思わないんだけどねえ。
こんな人にオススメ:逆に子役パートで不快にならなければ普通に楽しめる映画ではないかと。
思わぬ拾い物が阿古姫を演じた柴本幸で、決めるべき箇所でバシっと決めており男前的にカッコいい。森の中で愛していた男を殺してくれと言い募る場面など、拙い演技力ではドッチラケだったろう。お白州での決死の覚悟が顕れた緊張感や、地獄谷にて気が触れた形相で小栗旬を見据えるシーンなど、アイドル映画のヒロインではおさまらない存在感を見せる。彼女とのかけあいのシーンでは、小栗旬がまるでコメディリリーフのようだった。
その他にも、やべきょうすけが登場すると、それまでの時代劇から一気に現代劇っぽく転調するのも小栗旬の雰囲気に合っていて小気味良く、結構面白く見ていたのだが、しかしそれも最後の最後、子供時代をプレイバックするシーンが出てきて全部ブチ壊された。
もうこの子役どもの芝居が映画を破壊するほど下手クソで、しかも映画の冒頭では子供達のどうにもならん学芸会に結構な時間を費やしている。でもまあ、子供の演技が下手なのはしょうがないことだと思う。ハラが立つのは子供たち本人ではなく、観客にあの薄ら寒い子役のかけあいを見続けさせて平気な監督の感性であります。
コレはアレだね。監督はどーせ「小栗旬目当てのシネコンの客なんて低能ばっかだからイチイチ全部説明してやんねーと何にも理解できないんだよな」と見くびっているに違いない。そりゃ映画にストーリーは大切だろうが、しかしこの映画のように客が不快になってもフォローしなければという程大事だとも思わないんだけどねえ。
こんな人にオススメ:逆に子役パートで不快にならなければ普通に楽しめる映画ではないかと。
カムイ外伝
イケメンブームの当節、まるでおニャン子クラブのように(←古いか)若いハンサムの頭数をそろえるのが目的のドラマや映画が多い中、松山ケンイチはその中に混じれない個性を持つ俳優です。これは小栗旬がいまだに学生服着て群れているのとは対照的で、年齢というよりはやっぱり雰囲気でしょう。松山ケンイチの今風になりきれない感じは女優で言うと全盛期の安達祐実に似て、一歩間違うと演じる役が全くないという危険さを感じさせる。だからこそ「デスノート」のLといい今回のカムイといい、「この役は松山ケンイチでこそ」と言わしめる仕事が出来るのだと思う。
この映画で目を引いたのは、登場人物の身のこなしの鋭さでした。松山ケンイチでいえば渡組の帆船の舳先に登ったり、高床式の住居の床下に身を潜める姿が、まるでネズミのように体を小さくした俊敏な動作で感心しました。1アクションで2つも3つもカメラをブツブツ切るストレスフルな映画が多い昨今、1シーンで次々に連続した運動をしており、カムイの感じている緊張感がダイレクトにこちらに伝わってくる。そして肝心の殺陣のシーンの流れるように続く丁々発止の連続は、ワイヤーやCGも使ってはいるが、何より生身を強調しており、とても贅沢なアクションを堪能できました。生身が強調されるアクション性は他のキャストにも備わっており、小雪や小林薫の動きもとても良かった。
小雪が演じる抜け忍のスガルは、死力を尽くして夫や家族を守るも無念の最期を遂げてしまうのですが、こと切れるシーンで何とハエが小雪の顔に止まっており、そのタイミングの良さに感動しました。いやマジで。あのハエがCGだったりしたらドッチラケなのだけど、あのシーンで意図せずハエが止まっているというのは、これこそ映画の神に愛された瞬間と言えるのではないでしょうか。いやホントにマジで。
「カムイ外伝」は役者の体の張りっぷりが素晴らしい一方、CGやワイヤーが非常にショボい。いや、ショボいというよりわざとらしいというべきか。物理法則を無視して変な方向に飛んで行く忍者や、サメやシカの違和感のあるCG、そして空や海と別次元にあるとしか思えない船など、CGのアラがそこかしこで綻んでいる。でもいいのだ。そこが気にならない訳ではないのだけれど、それを補ってあまりあるプラスを考えれば大したモンではない。そもそも、ここ数年の忍者映画っていうのは、超人ではない忍者を描いた「梟の城」はしょうがないとして、「赤影」はノーアクション、「伊賀忍法帖」はラストに説教と、観客が見たいハズのアクションに振り切れた映画が全くなかったのだ。あ、「戦国 伊賀の乱」がありましたな。
リアルタイムで漫画を読んでいると、非人の出自で抜け人という運命を背負った漫画に比べて映画は手ぬるいと感じるかもしれない。ただ、原作を全く読んでいない自分にとっては、監督が崔洋一だし、もしかして今回もまた全編説教じみた忍者映画になってたかもと、そっちのほうが心配だったので、テーマを強調しない作りで良かったと思いました。多分無いとは思いますが、万が一続編が作られればもっと格差や被差別といった要素が出てくるかもしれない。その時は土屋アンナは絶対物の怪の本性を現すと見た。
こんな人にオススメ:「忍者映画なのにアクションが少ない」とお嘆きの貴兄に。
この映画で目を引いたのは、登場人物の身のこなしの鋭さでした。松山ケンイチでいえば渡組の帆船の舳先に登ったり、高床式の住居の床下に身を潜める姿が、まるでネズミのように体を小さくした俊敏な動作で感心しました。1アクションで2つも3つもカメラをブツブツ切るストレスフルな映画が多い昨今、1シーンで次々に連続した運動をしており、カムイの感じている緊張感がダイレクトにこちらに伝わってくる。そして肝心の殺陣のシーンの流れるように続く丁々発止の連続は、ワイヤーやCGも使ってはいるが、何より生身を強調しており、とても贅沢なアクションを堪能できました。生身が強調されるアクション性は他のキャストにも備わっており、小雪や小林薫の動きもとても良かった。
小雪が演じる抜け忍のスガルは、死力を尽くして夫や家族を守るも無念の最期を遂げてしまうのですが、こと切れるシーンで何とハエが小雪の顔に止まっており、そのタイミングの良さに感動しました。いやマジで。あのハエがCGだったりしたらドッチラケなのだけど、あのシーンで意図せずハエが止まっているというのは、これこそ映画の神に愛された瞬間と言えるのではないでしょうか。いやホントにマジで。
「カムイ外伝」は役者の体の張りっぷりが素晴らしい一方、CGやワイヤーが非常にショボい。いや、ショボいというよりわざとらしいというべきか。物理法則を無視して変な方向に飛んで行く忍者や、サメやシカの違和感のあるCG、そして空や海と別次元にあるとしか思えない船など、CGのアラがそこかしこで綻んでいる。でもいいのだ。そこが気にならない訳ではないのだけれど、それを補ってあまりあるプラスを考えれば大したモンではない。そもそも、ここ数年の忍者映画っていうのは、超人ではない忍者を描いた「梟の城」はしょうがないとして、「赤影」はノーアクション、「伊賀忍法帖」はラストに説教と、観客が見たいハズのアクションに振り切れた映画が全くなかったのだ。あ、「戦国 伊賀の乱」がありましたな。
リアルタイムで漫画を読んでいると、非人の出自で抜け人という運命を背負った漫画に比べて映画は手ぬるいと感じるかもしれない。ただ、原作を全く読んでいない自分にとっては、監督が崔洋一だし、もしかして今回もまた全編説教じみた忍者映画になってたかもと、そっちのほうが心配だったので、テーマを強調しない作りで良かったと思いました。多分無いとは思いますが、万が一続編が作られればもっと格差や被差別といった要素が出てくるかもしれない。その時は土屋アンナは絶対物の怪の本性を現すと見た。
こんな人にオススメ:「忍者映画なのにアクションが少ない」とお嘆きの貴兄に。
サブウェイ123
お願いだデンゼル・ワーシントン、その体型は冗談だと言ってくれ。
一体全体これは何事ならんと、デンゼル・ワシントンの変わりっぷりに映画を楽しむどころではありませんでした。いくら加齢で体型が変わるとはいえ、ハリウッド俳優がここまで見た目に頓着しないとは考えづらく、ならば本作のための役作りとしてこんなドボチョン体型に自分を持ってったのか・・・でも、くたびれたドボチョンオヤジを演じて何か見返りがあるほどの映画とは思えない。この、ハリウッドの二枚目俳優が中年になって、そのあまりの変わりっぷりによる衝撃と疑問は以前にも寸分違わず味わった記憶がある。それはヴァル・キルマーが、かつて「バットマン」を演じた二枚目が、数年前に観た映画では坂上二郎みたいになっていた時の衝撃。あの変わり果てたヴァル・キルマーを見てしまったのは確か「デジャヴ」という映画で・・・と思い出して私は気付いてしまった。「デジャヴ」も「サブウェイ123」も監督がトニー・スコットじゃん!!今までトニー・スコットのことなどマトモに考えたこともなかったが、この人は今は面影もないかつての二枚目俳優を出演させることに何かザマミロ的な快楽を覚えるタイプなのか、それともただのデブ専監督だったのか、あ、だからトップガンの主役がトム・クルーズだったんだ!すごい!トニー・スコットのデブ専の名の下に全てはつながっていたのだ。
とまあ、映画とは関係ない事ばかり脳内で大いに盛り上がっておりました。これだけで料金分楽しんだも同然。
「サブウェイ123」は、いつものトニー・スコットらしい、スタイリッシュなカメラと黄色から青にかけての独特のライティングがカッコ良いのですが、そこに映ってるのが全部デブでオッサン。NY市長(もちろんデブ)が地下鉄から地上に出て秘書と会話をするシーンでは、全く何の意味もなくカメラが360度回って市長を余すとこなく見せつけている。「スピード」ではこれと同じ360度回転シーンをキアヌ・リーブスでやっていたことを考えれば、誰が考えてもトニー・スコットは観客に良かれと思ってあのデブオヤジを後ろから前から激写しているのだ。まあホントの所はともかく、実際にこの市長はなかなか味のあるキャラクターで、デンゼル・ワシントンとジョン・トラボルタの次に映画で目立っている。
そしてドボーンとしたデンゼル・ワシントンですが、左耳にオヤジらしからぬピアスを付けており、そのへんはさすがアメリカン、さすがニューヨーカー、オヤジピアスを平然と受け入れる社会なのだろうと思っていたら、なんとトラボルタは右耳にピアスしとるがな。この映画のトラボルタはゲイという裏設定があったのか?デンゼル・ワシントンに絡んだのはそういう意味か?やっぱりトニー・スコットが「デブのトラボルタxデブのデンゼル」などと妄想していたのだ。そうだそうだそうに違いない。
これに気付いて以後は、デンゼルの奥さんのほうがデンゼルよりも地味な輪っかのピアスだったとか、男の着けていた指輪から彼が元航空部隊(だったっけ?)の出身と分かるシーンも、そもそも軍隊の退役で指輪なんて贈るのだろうかなど、目に映るもの全てが何か怪し気な伏線に思えてくる。トラボルタが首に彫っていた入れ墨の言葉の訳が映画の冒頭の字幕にあったが、アレはどんな意味だったのか?ピアスやら指輪つながりで何か意味があったんじゃないかと、うっかり見落として激しく後悔している。
お好きな方にはたまらない要素はそれくらいにしておいて、「サブウェイ123」にはニューヨークという地の利を使った様々な見せ場があって、個人的なイチオシは身代金を運ぶためにパトカーや白バイがニューヨークを爆走するシーンです。カーチェイスでもないのに焦った警察がバンバン一般車とクラッシュする、いまだかつてこんなマヌケなスペクタクルを見た事がありません。「なぜヘリで運ばん」とツッコミを入れようとしても、それは映画の中で既にツッコミ済みなので、観客としては全ての解釈を諦めて映画を見続けるしか手は無く、ただボーゼンと「こいつら阿呆じゃ」と呟くのみ。トラボルタ一味が地下鉄の風圧を受けながらワラワラと歩いている姿も間抜けで良かったなあ。
映画を誉めてばかりいても何なので(誉めてるか?)不満点を述べてみますと、この映画の悪役も、昨今のバブルが弾けたアメリカの世相を反映したもので、どうにも動機が浅ましく、せっかくのトラボルタなのに小物じみて見えてしまう。犯人が悪事を働く一方で株や先物で一儲けするというプロット自体は昔から確かにあるのだが、ここしばらくの風潮のせいで、そういう知能犯が単に生臭いだけの印象を受けてしまうというのは、やっぱりきっと自分もどこか毒されているのだろうと思う。
こんな人にオススメ:右見てもオヤジ、左みてもオヤジなオヤジパラダイス大好きっ子に
一体全体これは何事ならんと、デンゼル・ワシントンの変わりっぷりに映画を楽しむどころではありませんでした。いくら加齢で体型が変わるとはいえ、ハリウッド俳優がここまで見た目に頓着しないとは考えづらく、ならば本作のための役作りとしてこんなドボチョン体型に自分を持ってったのか・・・でも、くたびれたドボチョンオヤジを演じて何か見返りがあるほどの映画とは思えない。この、ハリウッドの二枚目俳優が中年になって、そのあまりの変わりっぷりによる衝撃と疑問は以前にも寸分違わず味わった記憶がある。それはヴァル・キルマーが、かつて「バットマン」を演じた二枚目が、数年前に観た映画では坂上二郎みたいになっていた時の衝撃。あの変わり果てたヴァル・キルマーを見てしまったのは確か「デジャヴ」という映画で・・・と思い出して私は気付いてしまった。「デジャヴ」も「サブウェイ123」も監督がトニー・スコットじゃん!!今までトニー・スコットのことなどマトモに考えたこともなかったが、この人は今は面影もないかつての二枚目俳優を出演させることに何かザマミロ的な快楽を覚えるタイプなのか、それともただのデブ専監督だったのか、あ、だからトップガンの主役がトム・クルーズだったんだ!すごい!トニー・スコットのデブ専の名の下に全てはつながっていたのだ。
とまあ、映画とは関係ない事ばかり脳内で大いに盛り上がっておりました。これだけで料金分楽しんだも同然。
「サブウェイ123」は、いつものトニー・スコットらしい、スタイリッシュなカメラと黄色から青にかけての独特のライティングがカッコ良いのですが、そこに映ってるのが全部デブでオッサン。NY市長(もちろんデブ)が地下鉄から地上に出て秘書と会話をするシーンでは、全く何の意味もなくカメラが360度回って市長を余すとこなく見せつけている。「スピード」ではこれと同じ360度回転シーンをキアヌ・リーブスでやっていたことを考えれば、誰が考えてもトニー・スコットは観客に良かれと思ってあのデブオヤジを後ろから前から激写しているのだ。まあホントの所はともかく、実際にこの市長はなかなか味のあるキャラクターで、デンゼル・ワシントンとジョン・トラボルタの次に映画で目立っている。
そしてドボーンとしたデンゼル・ワシントンですが、左耳にオヤジらしからぬピアスを付けており、そのへんはさすがアメリカン、さすがニューヨーカー、オヤジピアスを平然と受け入れる社会なのだろうと思っていたら、なんとトラボルタは右耳にピアスしとるがな。この映画のトラボルタはゲイという裏設定があったのか?デンゼル・ワシントンに絡んだのはそういう意味か?やっぱりトニー・スコットが「デブのトラボルタxデブのデンゼル」などと妄想していたのだ。そうだそうだそうに違いない。
これに気付いて以後は、デンゼルの奥さんのほうがデンゼルよりも地味な輪っかのピアスだったとか、男の着けていた指輪から彼が元航空部隊(だったっけ?)の出身と分かるシーンも、そもそも軍隊の退役で指輪なんて贈るのだろうかなど、目に映るもの全てが何か怪し気な伏線に思えてくる。トラボルタが首に彫っていた入れ墨の言葉の訳が映画の冒頭の字幕にあったが、アレはどんな意味だったのか?ピアスやら指輪つながりで何か意味があったんじゃないかと、うっかり見落として激しく後悔している。
お好きな方にはたまらない要素はそれくらいにしておいて、「サブウェイ123」にはニューヨークという地の利を使った様々な見せ場があって、個人的なイチオシは身代金を運ぶためにパトカーや白バイがニューヨークを爆走するシーンです。カーチェイスでもないのに焦った警察がバンバン一般車とクラッシュする、いまだかつてこんなマヌケなスペクタクルを見た事がありません。「なぜヘリで運ばん」とツッコミを入れようとしても、それは映画の中で既にツッコミ済みなので、観客としては全ての解釈を諦めて映画を見続けるしか手は無く、ただボーゼンと「こいつら阿呆じゃ」と呟くのみ。トラボルタ一味が地下鉄の風圧を受けながらワラワラと歩いている姿も間抜けで良かったなあ。
映画を誉めてばかりいても何なので(誉めてるか?)不満点を述べてみますと、この映画の悪役も、昨今のバブルが弾けたアメリカの世相を反映したもので、どうにも動機が浅ましく、せっかくのトラボルタなのに小物じみて見えてしまう。犯人が悪事を働く一方で株や先物で一儲けするというプロット自体は昔から確かにあるのだが、ここしばらくの風潮のせいで、そういう知能犯が単に生臭いだけの印象を受けてしまうというのは、やっぱりきっと自分もどこか毒されているのだろうと思う。
こんな人にオススメ:右見てもオヤジ、左みてもオヤジなオヤジパラダイス大好きっ子に
梅干し 土用干し
いやあ、今年の夏は梅的にものすごいヤバかった。
土用干しをするならもちろん土用の、だいたい海の日あたりの土日を利用して月曜日も会社を休んで・・・と考えていたのに、みなさんもご記憶の通り、今年はまったく夏晴れとは無縁の土用で、梅干しを作る以前は憂鬱なだけだった土用のうだるような暑さも、梅干しを干す楽しさのためならまるで春のそよ風のごとし、というくらい待ちわびていた暑さが無かったのだ。
そして翌週、翌々週の週末も相変わらず雨模様で、気勢が上がらないことこの上ない。ひょっとすると今年は梅漬けのまま年を越して、来年の分といっしょに干すことになるのだろうか・・・と意気消沈している中、ようやく盆休みで晴れてくれたおかげで土用干しができて、ああスッキリ。
ただ、お盆の暑さは土用とくらべて湿気が足りないので、梅干しにもそのへんは影響しているのではないかと思う。まあ自分の舌はそこまで繊細ではないので、土用干しとお盆干しとの違いなんて分からないのだけれど、作ってる本人のテンションはやっぱり変わってきますな。
冷夏だったのでお盆でも結局2日しか晴天が続かなかったけれども、梅はそれでも十分な塩梅になりました。追熟させたものより黄熟してから収穫した梅のほうが、土用干しの日数も少なく済んでしかも柔らかい仕上がりになっており、やっぱり初めに梅の値段はケチるべきではないと確信したのでありました。

手前が赤じそ漬け、奥が白漬けです。
土用干しをするならもちろん土用の、だいたい海の日あたりの土日を利用して月曜日も会社を休んで・・・と考えていたのに、みなさんもご記憶の通り、今年はまったく夏晴れとは無縁の土用で、梅干しを作る以前は憂鬱なだけだった土用のうだるような暑さも、梅干しを干す楽しさのためならまるで春のそよ風のごとし、というくらい待ちわびていた暑さが無かったのだ。
そして翌週、翌々週の週末も相変わらず雨模様で、気勢が上がらないことこの上ない。ひょっとすると今年は梅漬けのまま年を越して、来年の分といっしょに干すことになるのだろうか・・・と意気消沈している中、ようやく盆休みで晴れてくれたおかげで土用干しができて、ああスッキリ。
ただ、お盆の暑さは土用とくらべて湿気が足りないので、梅干しにもそのへんは影響しているのではないかと思う。まあ自分の舌はそこまで繊細ではないので、土用干しとお盆干しとの違いなんて分からないのだけれど、作ってる本人のテンションはやっぱり変わってきますな。
冷夏だったのでお盆でも結局2日しか晴天が続かなかったけれども、梅はそれでも十分な塩梅になりました。追熟させたものより黄熟してから収穫した梅のほうが、土用干しの日数も少なく済んでしかも柔らかい仕上がりになっており、やっぱり初めに梅の値段はケチるべきではないと確信したのでありました。

手前が赤じそ漬け、奥が白漬けです。