「転移」を読んで
昨年の五月にガンで亡くなった中島梓の闘病記を、最近寝る前や風呂の中でチビチビ読んでいます。ガン告知から手術までを綴った「ガン病棟のピーターラビット」の最後に膵臓ガンが肝臓に転移したという記述があり、「転移」はガン手術の後日談ではなく、むしろこちらのほうが闘病記としての色合いが強い。なので、言い方は悪いけれども「ピーターラビット」のほうはガン手術という非日常をレポートするような余裕を感じたのだけれど、「転移」は重い読後感で、そして自分にも起こるかもしれないと考えると、変な言い方だが自分の最期の予行演習をしているような感じだった。
本に記述された出来事だけを拾っていくと、ご本人には申し訳ないがとてもガン患者とは思えない。末期の筈なのに家族の夕食の心配をしたりステーキを焼いて食べようと考えたり、臨終の一ヶ月前にライブを行うというのはマトモな末期ガンの人間のすることではない。さすがに数百冊の小説を書いてしまうだけのバイタリティの持ち主だと関心してしまう。このあたりの旺盛な生命力というのは・・・真似できないな、やっぱり。
ガンを抱えての日記なので、その内容はとても日常的なもの、食べる事や眠る事に関する記述が多く、そしてそれがガンや抗ガン剤のためにいかにままならないかという苦しみの記述が多く読んでいて辛い。しかし食べ物についての執着は食欲からではなく生きようと願う気力からであることは明らかで、「転移」で書かれている事の全ては、冒頭の「QOL(クオリティ・オブ・ライフ)を優先させたい」という記述をいかに実践したか、という顛末記なのかもしれない。
この本を読んで自分が一番考えたことは、中島氏にとってQOLというのはどのようなものだったのだろう?という事だった。本書の冒頭では一冊でも多くの本を書き、一回でも多くのライブをすることだと書いているのだが、それは本心からの希望だろうけど、どれだけ生きられるか分からない状況ではそれは計りようもないことだ。一年間でできるだけ多くのグインを書く、というのなら方針も立てられるだろう。けれども先が分からず、抗ガン剤の治療によって延命だけでなく日常生活にも支障をきたすともなれば、「このようにすれば最もQOLが高い」などという最適解はないのだろう。
中島氏の言うQOLとは、死の直前まで自分自身であり続けることだったのではないかと思う。緩和ケアを極力拒み、鎮痛剤や入眠剤をなるべく取らず、その分の激痛に耐えながら、自分の状態や思うことを記録し続けた。おそらく死ぬ事よりも文章を書けなくなること、文章を書くだけの明瞭さを保てなくなることこそを恐れていたのではないだろうか。そして本書のまさに絶筆!とでも言うべき終わりを読むと、中島氏は最期まで全力でガンと戦い、己を渡さなかったのだと深く思う。
「転移」はその記述の中で中島氏が転機を迎えたと感じられる箇所がある。医者から余命宣告された2009年の5月、コラム形式から日記形式に変えた2008年の10月、そして形式を変えたいきさつを著者註で記した2009年の2月。それぞれのタイミングで、おそらく回復に向かうのではなく、このまま死んでしまうことへの覚悟を固めていったのだろう。そしてその覚悟と同時に「それじゃあ死ぬ間際に自分がどう感じたかを具に書いてやろう」と、言い方は悪いが虎視眈々と準備を整え、「その時」に備えていったように思う。5月12日の日記にある「だがこれからこそ書かなくてはならない」という一文は、死神相手に相撲を取る横綱の結びの一番のような、並々ならぬ熱意に漲っている。
グイン・サーガを読んでいると、何度も「え?こんな続きが気になるトコで終わるの??」という終わり方をしており、栗本薫は読者の気をもたせることがとても好きな作家だった。「転移」はまさに中島氏の人生を賭して、次巻に乞うご期待!という鬼のようなヒキでもって結んでいる。まるで中島氏が「転移」というフィクションの主人公だったような見事な終わり方である。ガンの痛みに耐えてきたことやこの先もう小説が書けない無念と引き換えに、きっとあの世ではなくグインやナリス、北斗多一郎達がいる世界に旅立って行ったのだろう。
本に記述された出来事だけを拾っていくと、ご本人には申し訳ないがとてもガン患者とは思えない。末期の筈なのに家族の夕食の心配をしたりステーキを焼いて食べようと考えたり、臨終の一ヶ月前にライブを行うというのはマトモな末期ガンの人間のすることではない。さすがに数百冊の小説を書いてしまうだけのバイタリティの持ち主だと関心してしまう。このあたりの旺盛な生命力というのは・・・真似できないな、やっぱり。
ガンを抱えての日記なので、その内容はとても日常的なもの、食べる事や眠る事に関する記述が多く、そしてそれがガンや抗ガン剤のためにいかにままならないかという苦しみの記述が多く読んでいて辛い。しかし食べ物についての執着は食欲からではなく生きようと願う気力からであることは明らかで、「転移」で書かれている事の全ては、冒頭の「QOL(クオリティ・オブ・ライフ)を優先させたい」という記述をいかに実践したか、という顛末記なのかもしれない。
この本を読んで自分が一番考えたことは、中島氏にとってQOLというのはどのようなものだったのだろう?という事だった。本書の冒頭では一冊でも多くの本を書き、一回でも多くのライブをすることだと書いているのだが、それは本心からの希望だろうけど、どれだけ生きられるか分からない状況ではそれは計りようもないことだ。一年間でできるだけ多くのグインを書く、というのなら方針も立てられるだろう。けれども先が分からず、抗ガン剤の治療によって延命だけでなく日常生活にも支障をきたすともなれば、「このようにすれば最もQOLが高い」などという最適解はないのだろう。
中島氏の言うQOLとは、死の直前まで自分自身であり続けることだったのではないかと思う。緩和ケアを極力拒み、鎮痛剤や入眠剤をなるべく取らず、その分の激痛に耐えながら、自分の状態や思うことを記録し続けた。おそらく死ぬ事よりも文章を書けなくなること、文章を書くだけの明瞭さを保てなくなることこそを恐れていたのではないだろうか。そして本書のまさに絶筆!とでも言うべき終わりを読むと、中島氏は最期まで全力でガンと戦い、己を渡さなかったのだと深く思う。
「転移」はその記述の中で中島氏が転機を迎えたと感じられる箇所がある。医者から余命宣告された2009年の5月、コラム形式から日記形式に変えた2008年の10月、そして形式を変えたいきさつを著者註で記した2009年の2月。それぞれのタイミングで、おそらく回復に向かうのではなく、このまま死んでしまうことへの覚悟を固めていったのだろう。そしてその覚悟と同時に「それじゃあ死ぬ間際に自分がどう感じたかを具に書いてやろう」と、言い方は悪いが虎視眈々と準備を整え、「その時」に備えていったように思う。5月12日の日記にある「だがこれからこそ書かなくてはならない」という一文は、死神相手に相撲を取る横綱の結びの一番のような、並々ならぬ熱意に漲っている。
グイン・サーガを読んでいると、何度も「え?こんな続きが気になるトコで終わるの??」という終わり方をしており、栗本薫は読者の気をもたせることがとても好きな作家だった。「転移」はまさに中島氏の人生を賭して、次巻に乞うご期待!という鬼のようなヒキでもって結んでいる。まるで中島氏が「転移」というフィクションの主人公だったような見事な終わり方である。ガンの痛みに耐えてきたことやこの先もう小説が書けない無念と引き換えに、きっとあの世ではなくグインやナリス、北斗多一郎達がいる世界に旅立って行ったのだろう。
9(ナイン) 9番目の奇妙な人形
こっっコレは・・・久々に自分のモロ好みでストライクな映画でした。
なんだかこのところ9の付く映画が多い。しかしミュージカルの「ナイン」は思った程乗れず、話題作の「第9地区」は3秒以上カメラを固定すると映画が爆発するのでは?という強迫的な3秒ルールに縛られたカメラに目が潰れ、やっぱり9って忌み数なんだよな~と何故か日本の物差しでケチをつけていた訳ですが、今度のナインは滅茶苦茶イケる!
とにかく観て欲しい映画なのですが、人を選ぶ面も確かにあって、決して万人向けではないのだけれども、この映画で自分が感じた要素に少しでもひっかかる人であれば楽しめる・・・ハズ。
こんな人にオススメ:
「WALL・E」の前半の人類が滅亡した世界が大好き
「コララインとボタンの魔女」の人形の布地や糸目に心惹かれる
「火の鳥」のような哲学的な生命観にシビれる
「トランスフォーマー」のギミック的なメカ造型が大好物
映画の「ドラえもん」でのび太とジャイアンが協力して戦う姿に感動した
ゲームでいうなら「バイオショック」的な雰囲気
ジェニ ファー・コネリーの声だけでご飯3杯はイケる
なんだかこのところ9の付く映画が多い。しかしミュージカルの「ナイン」は思った程乗れず、話題作の「第9地区」は3秒以上カメラを固定すると映画が爆発するのでは?という強迫的な3秒ルールに縛られたカメラに目が潰れ、やっぱり9って忌み数なんだよな~と何故か日本の物差しでケチをつけていた訳ですが、今度のナインは滅茶苦茶イケる!
とにかく観て欲しい映画なのですが、人を選ぶ面も確かにあって、決して万人向けではないのだけれども、この映画で自分が感じた要素に少しでもひっかかる人であれば楽しめる・・・ハズ。
こんな人にオススメ:
「WALL・E」の前半の人類が滅亡した世界が大好き
「コララインとボタンの魔女」の人形の布地や糸目に心惹かれる
「火の鳥」のような哲学的な生命観にシビれる
「トランスフォーマー」のギミック的なメカ造型が大好物
映画の「ドラえもん」でのび太とジャイアンが協力して戦う姿に感動した
ゲームでいうなら「バイオショック」的な雰囲気
ジェニ ファー・コネリーの声だけでご飯3杯はイケる
イチゴジャム
春といえば・・・保存食のシーズン。露地物の苺が出回ったあたりでイチゴジャムを作り、その勢い(?)で5月はラッキョウ、6月は梅と、一年の保存分をしこたま作り続ける季節です。

1回に作る分はだいたい1キロ。このまま半日ほど置いて果汁を出します。
砂糖の量は果物の重量の50%で作っています。最近の風潮で砂糖を減らすもよし、ジャムなんて大量に食べるものでもないからと言い訳しつつ果物と同量の砂糖を入れるもよし。
これまで食べた中で一番おいしかったのが、おフランス産のミオジャムというジャムなのですが、砂糖を使わないレシピは確かに自然で口当たりがよく、値段が高いだけのことはあるのだけれど、自分は保存食を作るようになってから、減塩とか減砂糖とか、あまり気にしなくなってきました。

イチゴはけっこうアクが出ます。
全体的にトロリとしてきたら煮沸消毒した瓶に入れて、脱気保存します。自分の好みとしては、紅茶やケーキにでも使えるように、ジャムというよりはシロップに近いあたりで火を止めます。今年は3キロのイチゴをジャムにしましたが、大体夏まで持たないので、来年はもっとせっせと作ることにしよう。

せっかくの手作りなので、イチゴは潰さずにそのまま作ってます。

1回に作る分はだいたい1キロ。このまま半日ほど置いて果汁を出します。
砂糖の量は果物の重量の50%で作っています。最近の風潮で砂糖を減らすもよし、ジャムなんて大量に食べるものでもないからと言い訳しつつ果物と同量の砂糖を入れるもよし。
これまで食べた中で一番おいしかったのが、おフランス産のミオジャムというジャムなのですが、砂糖を使わないレシピは確かに自然で口当たりがよく、値段が高いだけのことはあるのだけれど、自分は保存食を作るようになってから、減塩とか減砂糖とか、あまり気にしなくなってきました。

イチゴはけっこうアクが出ます。
全体的にトロリとしてきたら煮沸消毒した瓶に入れて、脱気保存します。自分の好みとしては、紅茶やケーキにでも使えるように、ジャムというよりはシロップに近いあたりで火を止めます。今年は3キロのイチゴをジャムにしましたが、大体夏まで持たないので、来年はもっとせっせと作ることにしよう。

せっかくの手作りなので、イチゴは潰さずにそのまま作ってます。
アリス・イン・ワンダーランド
自分が基本的にバートンのファンなので余り深く考えなかったのだけれど、この人は実は今回のようなハリウッド大作というのは案外少なく、「バットマン」の2作と「猿の惑星」のリメイクくらい。日本でもバートン自身の知名度というよりは、ジョニー・デップ人気で観客を動員しているように見えてしまう。そもそもバートンの個性は間違っても「誰でも楽しめる」ようなものではなく、それが受け入れられるアメリカって懐が深い国だよなあ・・・などと思っていた。
それがここしばらくは、バートンもいい大人になって収まりの良い映画を作るようになってしまっていたのだが、「アリス・イン・ワンダーランド」は昔のバートンらしいテイストも顔をのぞかせておりました。
昔のバートンは社会に溶け込めない人間の描写に非常に長けており、フリークスや怪人たちをとても魅力的な切ない存在として描いて来た。今回の映画ではその思いは赤の女王に溢れている。この役がヘレナ・ボナム・カーターがバートン映画に出た中で一番バートンらしいキャラクターだと思う。映画のラストでは、赤の女王が可哀想で可哀想で、もうその後のアリスの顛末なんてどうでも良くなってしまった。
この映画は出て来るキャラが全員クレイジーで、皆どこか過剰な外見をしている。赤の女王のデカ頭やマッドハッターの目など、CGを使って違和感なくフリークスさを醸しておりますが、笑ってしまったのが白の女王。アン・ハサウェイのデカ目とデカ口はCGで加工しなくても立派に他の狂人キャラと釣り合っていて、バートンにとって彼女が一番狂人だと思っていそうな雰囲気も伺えた。一見柔和そうな表情を浮かべるも、その下は底知れぬ不気味さを秘めていて、彼女の姉である赤の女王の妹に対する言い分も決して間違っていないと思わせる。
昔からのバートンテイストで喜ばせる一方で、今回の3Dによる撮影は従来の映画よりも退化しているんじゃないかとも思えた。そもそもバートンはバットマンを作るためにゴッサムシティを作り、続編のために(1作目のセットがそのまま残ってたのに)新しいゴッサムシティを作り、スリーピー・ホロウのために森を作りと、背景にも非常に凝る監督である。それがまあ、冒頭の馬車のシーンでは背景は流れてるわ、庭の白バラに怒るシーンも芋虫を気味悪がるシーンも人間にばかりピントが合って肝心のバラも虫もピンボケだわ、こんな雑な絵を良しとする人ではなかったハズだ。この映画だけで決めつけると、3Dというのは映画にとって表現の退化なんじゃないかと思える。IMAXで観て得したのか損したのか。
こんな人にオススメ:まあバートンってそもそも日本で大当たりしない監督だし・・・
それがここしばらくは、バートンもいい大人になって収まりの良い映画を作るようになってしまっていたのだが、「アリス・イン・ワンダーランド」は昔のバートンらしいテイストも顔をのぞかせておりました。
昔のバートンは社会に溶け込めない人間の描写に非常に長けており、フリークスや怪人たちをとても魅力的な切ない存在として描いて来た。今回の映画ではその思いは赤の女王に溢れている。この役がヘレナ・ボナム・カーターがバートン映画に出た中で一番バートンらしいキャラクターだと思う。映画のラストでは、赤の女王が可哀想で可哀想で、もうその後のアリスの顛末なんてどうでも良くなってしまった。
この映画は出て来るキャラが全員クレイジーで、皆どこか過剰な外見をしている。赤の女王のデカ頭やマッドハッターの目など、CGを使って違和感なくフリークスさを醸しておりますが、笑ってしまったのが白の女王。アン・ハサウェイのデカ目とデカ口はCGで加工しなくても立派に他の狂人キャラと釣り合っていて、バートンにとって彼女が一番狂人だと思っていそうな雰囲気も伺えた。一見柔和そうな表情を浮かべるも、その下は底知れぬ不気味さを秘めていて、彼女の姉である赤の女王の妹に対する言い分も決して間違っていないと思わせる。
昔からのバートンテイストで喜ばせる一方で、今回の3Dによる撮影は従来の映画よりも退化しているんじゃないかとも思えた。そもそもバートンはバットマンを作るためにゴッサムシティを作り、続編のために(1作目のセットがそのまま残ってたのに)新しいゴッサムシティを作り、スリーピー・ホロウのために森を作りと、背景にも非常に凝る監督である。それがまあ、冒頭の馬車のシーンでは背景は流れてるわ、庭の白バラに怒るシーンも芋虫を気味悪がるシーンも人間にばかりピントが合って肝心のバラも虫もピンボケだわ、こんな雑な絵を良しとする人ではなかったハズだ。この映画だけで決めつけると、3Dというのは映画にとって表現の退化なんじゃないかと思える。IMAXで観て得したのか損したのか。
こんな人にオススメ:まあバートンってそもそも日本で大当たりしない監督だし・・・
タイタンの戦い
自分が小学生の頃はプラネタリウムが非常に好きで、ひと月ごとに内容が変わるため、その度に母親にせがんで連れて行ってもらっていた。この天文少年が長じて天文学者・・・にはならずとも、せめて天体望遠鏡で星を見るような上等な趣味でも残っていれば良かったのだけれど、今では全く面影もない。結局自分は星自体よりも、星や星座にまつわって語られるギリシア神話のほうが興味があって、そこで一通り語られると満足して興味を無くしてしまったようである。ついでに言うならば、プラネタリウムの巨大なドームに映し出される、生け贄にされたアンドロメダ姫の半裸姿にトキメイたものでしたよ。
まあギリシア神話と一口に言っても長い間に醸成された物語なので、その内容はおどろくほど巨大で(自分の印象としては)取り留めの無いものであり、イメージの重なるキャラや出来事も多い。「タイタンの戦い」の主人公がペルセウスだったかヘラクレスだったか、映画をつい1時間前に見たばかりだというのにもう思い出せなかった(ので公式サイトで調べようと思ったら、なんじゃア!あのクソ煩わしいサイトは)。
そのようなモノなので、現代の映画にしようとしたら色々肉付けする必要はある。それは分かる。アンドロメダが脱いでないじゃないかとか、海の怪物ってクジラじゃなかったっけというのは、商売上の選択やグリーンピースの横やりで改変も良しとしよう。そもそもクラーケンのどこがギリシア神話なんだ?というツッコミも、ハリーハウゼン版からクラーケンだったようだしまあいいじゃない、とは思う。
だがしかし、神話では「カシオペアが娘の美しさを神を超えるものと発言したせいで神の悋気に触れ」で済んでいた導入部が映画ではかなりチグハグなことになっていて、その設定のせいで最後まで違和感があった。なんか無理矢理旧約聖書と掛け合わせて、アメリカ人の好きそうな親子の和解モノでまとめていた。そこまでするならギリシア神話を持ち出すなよと思う。自分の目には今回の「タイタンの戦い」は、さながら人権意識に目覚めた主婦が桃太郎を読んで「鬼の人権を保護せよ」と出版社に抗議した都市伝説と同種のみっともなさを感じる。脚本家はここまでギリシア神話を不細工にする、何か恨みでもあったのだろうかとすら思えてくる。
こんな人にオススメ:小学生の男子を連れて行くファミリー映画としてならアリ。
まあギリシア神話と一口に言っても長い間に醸成された物語なので、その内容はおどろくほど巨大で(自分の印象としては)取り留めの無いものであり、イメージの重なるキャラや出来事も多い。「タイタンの戦い」の主人公がペルセウスだったかヘラクレスだったか、映画をつい1時間前に見たばかりだというのにもう思い出せなかった(ので公式サイトで調べようと思ったら、なんじゃア!あのクソ煩わしいサイトは)。
そのようなモノなので、現代の映画にしようとしたら色々肉付けする必要はある。それは分かる。アンドロメダが脱いでないじゃないかとか、海の怪物ってクジラじゃなかったっけというのは、商売上の選択やグリーンピースの横やりで改変も良しとしよう。そもそもクラーケンのどこがギリシア神話なんだ?というツッコミも、ハリーハウゼン版からクラーケンだったようだしまあいいじゃない、とは思う。
だがしかし、神話では「カシオペアが娘の美しさを神を超えるものと発言したせいで神の悋気に触れ」で済んでいた導入部が映画ではかなりチグハグなことになっていて、その設定のせいで最後まで違和感があった。なんか無理矢理旧約聖書と掛け合わせて、アメリカ人の好きそうな親子の和解モノでまとめていた。そこまでするならギリシア神話を持ち出すなよと思う。自分の目には今回の「タイタンの戦い」は、さながら人権意識に目覚めた主婦が桃太郎を読んで「鬼の人権を保護せよ」と出版社に抗議した都市伝説と同種のみっともなさを感じる。脚本家はここまでギリシア神話を不細工にする、何か恨みでもあったのだろうかとすら思えてくる。
こんな人にオススメ:小学生の男子を連れて行くファミリー映画としてならアリ。