批判的頭脳

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通貨はいかなる意味で政府負債なのか? 及びソマリアシリングの話

通貨はいかなる意味で政府負債なのか?[ダイジェスト版]

上記Togetterで行われた議論について、有益と思われるのでまとめていこうと思う。

議論の発端は、「通貨発行益」についての検討である。

通貨発行益については、拙記事「通貨発行益 再論」という記事にまとめたのだが、議論を改めて端的に再確認しよう。

よくある誤った俗論では、「政府紙幣発行や中央銀行直接引き受けによって政府に純利益が生まれ、そこから支出した場合は政府負債は増加しない」と主張されている。

しかし、貨幣はいかなる意味で負債なのか そもそも負債とは何なのかで確認した通り、統合政府の発行する通貨は、政府紙幣にせよ準備預金にせよ、統合政府の負債(”徴税前借”)なのであり、通貨発行それ自体で政府部門に純利益が発生することはない。

もし通貨発行益が発生するとしたら、それは『発行した負債=通貨が純粋に吸収・破壊される際』であり、『統合政府の徴税、それによる統合政府負債=通貨の吸収・破壊が、通貨発行益を"発生"ないし"確定"させる措置』である。支出時点ではなく、その後の徴税(回収・破壊)時点で通貨発行益は発生する。
(将来的な徴税を見越して、支出時点で通貨発行益を”先行計上”することも不可能ではないが、あくまで将来的な徴税=通貨発行益”確定”が前提である)

少し細かい話をすると、政府紙幣発行の場合、現金主義会計を採用する財務省では(現金主義会計によって)純利益が発生するのであるが、これは単にミクロの会計手法によって発生する事象であって、発生主義で考える場合や、マクロ金融のレベルで考える場合とは無関係となることに注意したい。(参考リンク:政府紙幣発行の財政金融上の位置づけ―実務的観点からの考察― [大久保和正]

実際、金融をマクロ的に評価する枠組みである資金循環統計では、政府発行貨幣=硬貨も準備預金同様、一律に中央銀行負債として計上されている。


さて、貨幣はいかなる意味で負債なのか そもそも負債とは何なのかでも確認したところであるが、通貨は後々の納税手段として発行され、納税手段であるが故に国民が通貨を受容・需要する(こうした考えは「表券主義」[Chartalism]と呼ばれる)という構図になっており、このことは通貨が政府負債として機能し、政府負債として機能するが故に国民資産として機能するということを示している。

つまり、「通貨が納税手段として受容・需要される」ということと「通貨が政府負債として機能する」ということは同値なのだが、これが同値であることの理解が難しいと感じる人が少なくないということが議論を通じて分かったので、『この二つがいかにして同値か』ということについて咀嚼して論じることにしよう。(貨幣はいかなる意味で負債なのか そもそも負債とは何なのかと内容的に重複することになるが)


まず第一に、通貨発行以前に、国家は国民に対して一方的な債権(徴税債権)を持ち、その裏で国民は国家に対して一方的な負債(納税負債)を持っている。(というより、そもそもこの”一方的な債権債務関係”が国家の成立要件・成立前提なのである)
もちろん国家は、歴史上そうであったように、国民から単に実物財・実物資産を巻き上げるだけという行為も可能だ。
しかしそこで敢えて「通貨発行→金銭徴税による回収」というワンクッションを挟んでいるのが現行の通貨制度なのである。
通貨制度・納税制度において、定められた分の通貨を納税できない国民は、代わりに実物資産を接収されたり、労役を課されて『労働力』という経済資源を徴収されたりする(懲役がこれにあたる)。裏を返せば、政府は通貨(それ自体は紙切れ、ないし電子データに過ぎず、実物価値を持たない)を提出されることで、国民から実物資産を接収したり労役を課したりする権利を相殺されることになる。これは政府にとって経済資源の喪失にあたり、政府の経済資源を実物的対価なしに相殺するという意味で、通貨は疑いなく政府の負債に他ならない。

会計から縁遠い一般人にとって、負債の弁済は現金支払で行うものというイメージが強いので、上記の取引が資産と負債の相殺取引であり、相殺取引を通じた負債の弁済であるということが理解し辛いかもしれない。
このことについても貨幣はいかなる意味で負債なのか そもそも負債とは何なのかで詳しく論じているのだが、現金支払は数ある弁済方法の一つに過ぎない。
現実には、現物(商品など)を納入する、他社の債券等を提出する、あるいは支払相手に対して債権を持っている場合はその債権と相殺する(相殺取引)、といった多様な他の弁済方法が存在するのである。
納税はこのうち、最後の「相殺取引」とほぼ同じ構造を持っている。国民は、政府に対する負債(納税負債)を、通貨≡政府負債(つまり国民にとっては対政府債権)を提出することで相殺することが出来る。逆に政府側から見れば、国民に対する債権(徴税債権)が、通貨≡政府負債の受領によって相殺されてしまうというわけだ。

ではなぜ政府は負債発行≡通貨発行、及び金銭徴税による回収というワンクッションをわざわざ挟むのだろうか?

第一義的には、公的雇用・公的需要を賄うためであろう。(この点は拙記事MMT関連小噺集―Hut taxと租税貨幣論、金本位制≒ドルペッグ、最終需要と所持需要に挙げた王室・宮廷労働者・農家の例を参照していただければわかりやすいと思う)
穀物などの実物を物理的に徴収し、それを給与として分配するのは、様々なコストがかかるし、物理的徴収に伴うタイムロスも大きい。
しかし、通貨を発行し、それを納税手段として指定すれば、農家に納税のための通貨需要が発生し、宮廷労働者が農家から(通貨支出によって)穀物を購入することが可能になる。このため、宮廷労働者が給与として通貨を受容するようになるのである。
このように、通貨を介することで、実物徴収の際に発生するコストやタイムロスを削減することが出来る。

副次的には、政府は最高位の信用単位(貨幣単位)を創造することで、民間の相互信用の単位が統一され、決済システムが統一的に整備されるという経済利便性が期待できる。
加えて、信用単位を提供するというだけでなく、決済システムの安定のために適宜通貨を供給することも可能になる。決済システムの安定は、投資や成長の安定にも結び付くであろう。


また、議論で指摘された通り、相殺取引としての通貨納税は、あくまで前提として「政府から国民への一方的な(暴力的な)債権・債務関係」があり、その前提に基づいて創出された、いわばマッチポンプ的なシステムである。しかし、暴力的マッチポンプであることは、通貨納税が経済・会計上の相殺取引に相当することと矛盾するものではないことに注意してほしい。
一連の取引において、確かに国民は政府から何も得ていない。それどころか、財政支出(≡通貨発行)時点で実物が国民から政府へ移動しているので、最後の納税を含めてトータルで見れば、国民から政府への実物移動という事実だけが残るため、むしろ国民にとっては(実物移動の分だけ)マイナスの取引となっている。
かといって、『国民が政府から何も得ていないから、通貨が対政府債権(≡政府負債)であるとは言えない』という主張は誤りである。一連の取引で国民が政府から何も得ていない理由は、「”予め”政府が国民に対して徴収権(徴税債権)を持っている」という制度前提にあるのであり、このことは、通貨納税が経済・会計上の相殺取引であるという事実と矛盾するものではないのである。
例えば、A企業がB企業に対して何かしらの債権を持っていたとしよう。裏を返せば、B企業がA企業の債務を持っている。(それまでの経緯は不問とする)
そしてB企業が第三者からA企業の手形を得て、その手形を供出してA企業に対する債務を相殺するとしよう。
この場合、B企業は相殺取引によって何も得ておらず、それどころか、獲得した手形を喪失しているわけだが、だからといってこの場合、手形はA企業の負債ではない、と言えるだろうか? 無論、言えないだろう。
そもそもこの相殺取引が成立するのは、手形がA企業の負債に他ならないからだ。
A企業を政府、B企業を国民に置き換え、B企業の債務を納税負債、A企業の手形を通貨に置き換えても、全く同じことが言える。
この際、B企業・国民側の債務が暴力的かつ一方的に設定された債務である場合も、議論の構造には影響しない。
B企業の相殺取引と同様に、国民の納税においても、当年の納税債務が相殺取引によって償却されることで、経済的利益を得ることになる。
B企業の相殺取引を経済的利益と理解するなら、国民の納税(相殺取引)も経済的利益と見做さなければダブルスタンダードになる。
もちろん、国民に課された納税債務は、国家によって設定された暴力的マッチポンプだが、暴力的マッチポンプであることは、納税債務が国民にとって債務として働く事実、通貨が当該債務を相殺する金融資産≡政府負債として機能する事実を棄損するものではないのである。


再度整理しておこう。

国家は国民に対して原初的に徴税債権を持ち、逆に国民は国家に対して原初的に納税負債を追う。原始的徴税システムにおいて、国民は実物的経済資源の提出で随時弁済する。

ここに通貨制度を導入すると、(既に論じた様々な利便性を鑑み)政府は一旦通貨発行を挟んで財政支出を行い、支出によって創出された通貨は実物資源の代わりに納税可能となる。
これは、実物的経済資源の供出義務(対政府負債)を、通貨提出によって打ち消せるということと同義だ。
通貨に単体価値がない場合、実物価値なしで対政府負債を相殺できるという意味で、通貨は対政府債権以外の何物でもあり得ない。
こうして、国民にとって、通貨が(単体価値がゼロにも関わらず)対政府債権としての資産価値を持つことになる。
そして、通貨が国民にとって対政府債権としての金融資産価値を持つがゆえに、国民は通貨発行支出に対して財を供出することを受け入れるわけだ。
国民が通貨を受容するには、まず最後の金融的相殺取引が存在していなくてはならないのである。
つまり、通貨が政府負債(”徴税前借”)であることが、通貨発行の前提となる。(そうでなくては、”ただの紙切れ”を国民は受容・需要しない)
裏を返すと、金銭徴税というのは、通貨を国民に受容・需要させ、流通させるために用意された措置に過ぎない。多くの人々は、「徴税で通貨を集め、それを支出に回している」と勘違いしているが、実態は全く逆で、『支出によって市中に通貨を供給し、徴税で既発通貨を回収することで、通貨の”流れ”を作り出している』のである。(関連拙記事:ウォーレン・モズラー「命取りに無邪気な七つの嘘」紹介①、②(政府支出と徴税/政府債務の将来負担)

以上はトータルで見ると、単に国民が実物を払って終わりというところを、政府負債の発行とその償還(金銭徴税による相殺取引)というワンクッションを挟んでいることになる。
確かに、全ての過程取引を合計してしまえば、プラスマイナスはゼロになる取引だ。
しかし、トータルでプラスマイナスゼロであるということは、過程において、通貨発行が政府負債であり、徴税が政府負債の相殺取引である、という事実を特別に毀損するものではない。あくまで一見余計なワンクッション的金融取引が存在する、というだけに過ぎない。しかし、このトータルでプラスマイナスゼロになるワンクッションが、既に述べたような利便性を発揮するのである。


とはいえ、上記のような詳細な議論を抜きにしても、通貨が単体で(マクロでの)純資産として機能することが有り得ないことは分かる。
というのは、 我々が価値を得る、つまり効用を得るのは究極的には実物の消費以外にあり得ない(貯蓄も、将来の消費として効用を生む)のであって、マクロ的には実物生産以外に全体(マクロ)での”純粋な”価値を生むものはないからである。
したがって、金融資産は、金融資産自体を消費して効用を得ることは出来ないので、金融資産がマクロで価値を持つということは定義的に・根本的にあり得ない。金融資産の価値の源泉は、金融資産保有者以外の何者かからの何かしらの拠出(相殺含む)のみである。
故に、実物消費(ないし実物の将来消費)のみが効用・価値の源泉であるという認識に基づけば、政府が通貨創造によってマクロ的に見て純粋な価値を創造できると想定するのは根本的に間違っているとしか言いようがないのである。



さて、上記議論に対し、『「通貨は債務の決済に使える」というルールだと解釈すればよい』という反論があった。
この反論について直接検討する前に、「決済」という経済上の実務についてまず考察していくとしよう。そうした方が、当該反論の誤謬の構造も見えやすくなるはずだ。
既に同様のことを論じたが、現実の経済実務を鑑みて、決済にはいくつかの方法があり、通貨を支払うというのは、いくつもある決済の方法の一つに過ぎない。
まず方法の一つとしてあるのは「実物資源を支払う」という方法である。この方法で弁済される負債としては、前受報酬、前受金といった負債がある。
もう一つは、相殺取引という方法だ。決済する主体同士の相互の債権・債務を相殺するもので、前述の実物資源支払も包摂した「業務と負債を相殺する」というものもある。
最後に、「より上位の負債を支払う」というものがある。
MMTの理解として決済ヒエラルキー(ないし債務ヒエラルキー)というものが金融資産(金融負債)にはあって、下位の負債を、より上位の負債(保有者から見れば債権)によって決済することが可能だ、という普遍的ルールが存在するわけだ。

[R.レイのMMT入門 第三章第二節 決済と債務ピラミッドより]
例えば、子会社が取引先への支払いを行う際、親会社から(現預金でなく)手形を借入して決済する場合は、上位の負債(親会社の手形)を以て、下位の負債(取引先に対して負った子会社債務)を弁済したことになる。
ここで親会社が、(第三者に渡った)支払手形を銀行預金で弁済した場合も普遍的ルールの範疇である。
というのは、上位の負債(銀行預金≡銀行負債)を以て、下位の負債(親会社の手形)を弁済したことになるからだ。
この弁済は、例え負債の額面が同じでも、決して逆方向では成り立たない。(仮に可能だとしても、大きく価値が割り引かれてしまい、額面通りの決済は出来ない)
負債にはヒエラルキーがあり、第三者が親会社手形>子会社債務、および銀行預金>親会社手形というヒエラルキーを共有しているからこそ、ヒエラルキーに基づいた弁済は成立する。
当然、銀行預金の「弁済」の一つである現金引出、つまり銀行負債の弁済方法の一つとして現金供出による弁済が成り立つのは、現金>銀行預金という負債ヒエラルキーが広範に共有されているからだ。
ここでは当然、現金(通貨)は、それによる納税が認められているということ以外何の価値もない代物なのだが、しかしながらその納税能こそが、確固たる国家・政府の運用下においては通貨を負債ヒエラルキーのトップたらしめるわけである。(もちろん、統治が不安定になればこのヒエラルキーは崩れる)
アドホックに通貨による債務弁済を認めなくても、”自然な”決済ヒエラルキーの中で、政府負債は決済能を持つ。
『”通貨は特別に債務への弁済に利用可能である”というアドホックなルールが設定されている』という想定よりも、上記のように考える方が、現実の経済システム・決済システムに合致する。
そもそも、銀行預金も含めて、円建てでの債権・債務関係がまず経済において広範に創造されなければ、円による債務決済も何もあったものではない。そしてそのためには円があらかじめ広範に通貨、そして貨幣単位として受容されなくてはならず、その必要十分条件はやはり納税能である。

似た内容を繰り返すが、円で決済できるのは、基本的に円建て債務だけだ。
そして、円建て債務は、まず円通貨が発行され、それが需要された『後』にしか生まれてこない。
つまり、「円建て債務が決済可能だから、円通貨が資産として民間に受け入れられる」という”仮説”は、実は時系列的に矛盾してしまっている。
また、円通貨の発生後に円建て債務が広範に形成される、つまり、円をヒエラルキートップとした決済ヒエラルキーが創造されるのは「何故」かについて、当該仮説では全く説明することが出来ない。円通貨を頂点とした円建て債務ヒエラルキーの存在を「所与」として議論を組み立ててしまっているからだ。そしてヒエラルキートップである理由を説明しようとするなら、その根拠は通貨の納税能以外にありえないだろう。



ところで、「納税は通貨の回収・破壊にあたる」という議論に対し、「徴税によって政府に還流された通貨は破壊されず、政府預金に保持されるので、通貨の回収・破壊にはあたらない」という反論があった。
この反論は本質的に、通貨発行体を中央銀行単体と考え、政府も通貨のユーザーに過ぎないと言明するものである。
果たしてそれは事実だろうか? 端的にいえば、これはあり得ない。通貨発行体は、中央政府(財務省)+中央銀行、いわゆる”統合政府”として一体的に存在しているのであり、このため、政府と中央銀行を(手続き的にはともかく)機能的に二分することはできない。(統合政府として総合して分析するということは、即ち政府預金が相殺勘定になって、経済分析上意味のない勘定になるということと同値であることに注意しておこう)
なぜ通貨発行体として統合政府は分割不能なのかというと、通貨がまず納税手段として民間に受容・需要されるからである。単に中央銀行が発行したというだけでは、民間はそれを決済手段としては受け入れない。
あくまで納税手段として資産価値を持つ以上、直接の発行者が中央銀行だとしても、発行通貨の流通性は課税をする政府(財務省)が創出するのであり、この意味で、通貨は政府と中央銀行によって協同的に発行されるものに他ならないのである。こうして統合政府で考察する場合、政府預金を分割して分析することが経済上無意味になり、徴税による統合政府への通貨還流が、マクロ経済的には通貨回収・破壊として評価されることになるのである。




傍論になるが、「無税国家」について論じておこう。
既に各所で同じ旨を述べているが、税が通貨を”駆動”する関係上、恒久的な無税は通貨の流通性を完全に損なってしまう。ただし、一時的な無税の場合は、将来的の税による駆動に期待できるため、通貨の流通性を即座に損なうということはない。
また、例えば(今後)一億円までしか徴税しないとしたら、その一億円までしか流通価値を持たず、残りの通貨はヒエラルキートップの座を失い、ゆくゆくは流通性を持たなくなるだろう。




次に、ソマリアシリングについて。
ソマリアシリングは内戦状態になっても、価値暴落はあったものの完全に流通が喪失するということはなく、内戦中も一定の流通性を持っていたことから、「政府による徴税が流通を基礎づけるわけではない証拠」として議論中に提出された。
しかし、実際にその流通のメカニズムについて分析したところ、単純にそのような”証拠”として利用できるわけではないことが判明した。
Bringing back the Somali shillingという記事で挙げられた仮説の一つに、「ソマリアはあくまで内戦状態なのであって、将来的に内戦状態が解消されるようなら、ソマリアの統治秩序とソマリアシリングの流通性が復活すると予想されている」という趣旨のものがあった。
この仮説は実際の為替レートの動きとかなり符合する。
ソマリアでは2005年に暫定政権が樹立し、2012年に政府が正式に成立するのだが、まさにこの二つのタイミングで、ソマリアシリング高は進行しているのである。(2013年4月にIMFがソマリア連邦政府を承認したのも大きい)
ソマリアシリングの流通性が、新政府成立予想に基づいていたことを裏付ける証拠と言えよう。

Investment.comより




他にも、『通貨が徴税前借だという説明をすれば、通貨発行が”子孫へのつけ回し”だと主張しているかのように見えるのではないか』という批判もあった。
この点については、拙note『政府債務は「将来世代の負担」なのか?』や、拙記事『ウォーレン・モズラー「命取りに無邪気な七つの嘘」紹介①、②(政府支出と徴税/政府債務の将来負担)』などで詳しく扱っているが、今一度端的に整理しておこう。
「財政赤字は将来へのつけ回し」という主張に対してMMTはまず、(政府と民間の金融取引がどうあれ)将来の消費水準は将来の生産水準にのみ依存する、という金融と実物の分離で反論している。
つまり、いかに政府負債(通貨+国債)が残存していたとしても、そうした金融関係が将来の実物生産水準を引き下げたりしないだろう(仮に問題が存在するとして、それは分配の問題に過ぎない)、という論立てである。残存通貨がいずれは政府によって相殺取引(=徴税)を受けなくてはならないとしても、それが将来の実物生産水準に影響することはありえないという考えなのである。
なお、MMTのこの主張には不足している部分もあり、先に挙げた拙note、拙記事では、MMTの議論の不足部分を補っている。その点についても論じておこう。
主流派経済学の「将来のつけ回し」論は、端的に言うと特定の世代が特別に損をするという主張であり、これは「現在の通貨供給が過剰であり、将来的には過剰が解消されなくてはならない」というかなり強引な前提に基づいている。
「では本当に通貨供給が過剰なら、現時点で即座にインフレが起こるはずでは?」
という話になるのだが、この批判に対して主流派は、
「国民が将来的な財政再建を予想しているので、インフレが起こらない。再建時点を先送りすると、その時点に応じて損する世代が現れる」
と反論するのである。
ところが、将来的に財政再建が予想されているという想定自体が、現状ではあまりにも荒唐無稽すぎる。特に、いつまでたっても減らない財政赤字や、たびたび先送りされる増税措置が現実に生じているにも関わらず、一向にインフレにならない現状を全く説明できていない。
ということで、普通に考えるなら、通貨供給≡財政支出自体が過剰とはいえず、むしろデフレ型不況なので、財政赤字は”不足”していると考えるべきなのである。
そもそも通貨発行≡財政支出が過剰でないなら、主流派の議論前提が覆り、主流派の「将来への負担先送り」という主張それ自体が成り立たなくなるという寸法である。




また、「『税が貨幣を駆動する』という主張は、『税は財源ではない』というMMTの主張と反するのではないか」という批判もあった。
しかしながら、これは「税は財源ではない」という言葉の意味を誤解したものと思われる。
既に説明した通り、政府は通貨を徴収して支出することで実物を得ているのではなく、通貨発行によって実物を得て、しかる後に通貨を徴税(金銭徴税)で回収している。
この”前後関係”が決定的に重要であり、この事実から「政府にソルベンシーリスクはない」、及び、 「税は通貨を事後的に回収することを通じて、通貨を民間に受容・流通させるための措置に過ぎない」とMMTは論じるわけだ。
「税が財源ではない」というのは、以上のような意味においてのことなのである。




余談になるが、一連の議論で「税」、「租税」と呼んでいるものは、単純・純粋な徴税だけでなく、民間から統合政府への通貨還流全般のことを指す。
例えば、政府が公社を保有し、その公社の営業利潤という形で、民間から通貨を還流させるというパターンもあり得る。
実際、日本でも歴史的には3公社5現業というものがあったし、天然資源国では天然資源やその精製業者が国有化されていることも珍しくない。こうした公的企業の場合は、政府が公的企業に自国通貨を出資・融資し、その営業利潤を通じて自国通貨を回収する、という信用サイクルが発生する。単に「税が通貨を駆動する」といっても、こうした風変りなタイプの”駆動”が有り得ることに注意したい。(付け加えると、政府や中央銀行による証券などの投資益も、このタイプの”税”にあたる)
noteにて、「経済学・経済論」執筆中!
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その他、
「貨幣論まとめ」
「不況論まとめ」
「財政論まとめ」

などなど……


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今回は、タイトルの通り、MMTに関連したいくつかの事例引用や小噺を披露していこう。

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最初の話題は、租税貨幣論(Tax-Driven Money)でよく引用されるお馴染みの歴史的事例、Hut tax(小屋税)についてである。
Hut taxというのは、簡単に言えば、英国がアフリカの植民地に通貨を流通させるにあたって課税を利用したという歴史的事例である。
英語版Wikipediaがあったので 、冒頭部分を翻訳してみよう。


『小屋税(hut tax)は、英国の植民地統治者が小屋あるいは家族ベースで課した課税タイプのことである。この税は、貨幣、労働、穀物、あるいは資産などの様々な支払方法があり、四つの経路から植民地支配に貢献した。』

『一つは資金調達、一つは通貨のサポート(表券主義を参照のこと)、一つは現金経済の普及(これはよりいっそうの成長を目的としていた)、そしてもう一つは、アフリカ人たちを植民地経済において働かせることである。』

『家族達は生存して牛牧場による富を貯蓄するにあたって、納税のための現金調達を目的に植民地統治者へ働き手を送り出した。植民地経済はアフリカ黒人の労働による新しい町や鉄道建設(加えて南アフリカでは急速な鉱山開発)に依存していた。』

要するに、植民地(Hut taxの場合はアフリカ)において、家族単位あるいは共同体単位の自給自足で完結していた人々を貨幣経済に引きずり出すためには、宗主国通貨建ての課税が有効だった(それで事足りた)という事例なのである。

そして基本の構図は自国通貨普及でも変わらない。
例えば日本の場合は、いわば「ぽっと出」の新政府が発行する新通貨”円”の流通がいかにして基礎づけられたかというと、地租改正といった円建て課税制度の定着のおかげなわけだ。
通貨は単に発行するだけでは流通しない。国家による受領が通貨を流通させる(表券主義)のである。

また、租税貨幣論を考えるにあたって、和同開珎の歴史を参照するのも面白い。
和同開珎は適切な最終需要設定が出来ず、そのためあまり上手く流通しなかった。
蓄銭叙位令(和同開珎の貯蓄高で官位昇進)といった、流通と矛盾する制度を作って迷走したりもしている。
単に発行するだけでなく、どのように最終需要を設定するのかというのが通貨流通において主要な問題となる。


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さて、ある記事のコメント欄でも話題にしたのだが、レイの教科書"Modern Money Theory"では「金本位制とドルペッグは同じものだ」と解説されていて、中々分かりやすく興味深かった。

レイの教科書によれば
・金本位制≒ドルペッグ
・正貨準備(金準備)≒外貨準備
・兌換停止≒変動相場制移行
というまとめになる。
兌換紙幣と不換紙幣は完全に不連続な存在というわけではなく、単に固定相場制を採用しているかしていないかの違いしかないという。

兌換紙幣が兌換停止して不換紙幣にしても、管理通貨制度で例えれば、単にドルペッグ(外貨ペッグ)をやめたのと同じことなので、少なからず為替レート変動はある(基本的には減価する)ものの、(元々あった納税手段としての流通価値が残るので)急激に紙屑になるようなことはないわけだ。

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ある記事のコメント欄で書いたのだが、貨幣の「最終需要」と、「個々の主体の貨幣保持需要」を区別できず、貨幣の最終需要から天下り式に個々の保持需要が生まれることが分からない人が多いように見受けられる。

「租税や返済が貨幣の最終需要である」という話をすると、すぐさま『租税や返済のために貨幣を持っている人はごく少数』、『むしろ富裕層は節税に勤しんでいる。租税のために貨幣を持つなんて嘘だ!』といった、完全にピントの外れた反論が飛んできて困惑することが多い。

というわけで、貨幣の最終需要と、最終需要から天下り式に発生する個々の貨幣保持需要について平易な説明が必要であろう。


古代の中近東~ヨーロッパの通貨制度を意識した模型例で論じてみよう。
ある国に、王室、宮廷の労働者、農家の三者がいたとしよう。
王室は農家に穀物納税を課しているとする。

ここで王室は宮廷労働者に穀物を分配するのではなく、給与として発行コインを支払うとする。
そして農家に対し、穀物納税の代わりにコインで納税することが可能であると認めるとする。
すると、農家は自発的に宮廷労働者に穀物を売り、コインを稼得するようになる。(もちろん売買レート次第だが)

宮廷労働者も、コインによる代替納税制度の下では、コインが農家に対して確実に購買力を持つため、コインによる給与支払いを素直に受容し、コインを貯蓄するようになる。

この仮定では、宮廷労働者には何ら課税されていないことに注意しよう。
あくまで農家への課税から、”天下り式”に宮廷労働者の貨幣所持需要が発生している。
これが「貨幣の最終需要から天下り式に発生する貨幣所持需要」である。
宮廷労働者に課税がないことは、宮廷労働者の貨幣所持需要の発生において、何の障害にもならないわけだ。


例えを変えてみよう。
租税回避に熱心な富裕層と、きっちり課税される庶民層が居るとする。
ここでは、極端な仮定として、富裕層が完全な租税回避に成功し、一切税を支払わないとする。(仮定を緩めても、含意の大枠は変わらないことに注意してほしい。)

完全な租税回避に成功した富裕層には、貨幣所持需要がなくなるだろうか?
全くそういうことはない。
この例では、きっちり課税される庶民層が居て、この庶民層は、生産物を富裕層に買ってもらうことで、納税のための貨幣を調達しようとする。

そこで富裕層は、庶民層が納税のために生産物を売って貨幣を得ようとするだろう、ということを見越して、貨幣を所持し、貯蓄しようとする。
富裕層には一切の課税がなされていないにも関わらず、庶民に課される租税から、天下り式に富裕層の貨幣所持需要が生まれるわけだ。

仮定を緩めて富裕層が多少は納税するとした場合でも、「自身の納税需要以上に、他者の納税需要から、天下り式に貨幣保持需要が生まれてくる」という原則は不変である。
上記二例は政府発行通貨を元に論じたが、融資で創造され返済で破壊される銀行貨幣でも基本構造は同じになる。


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最後に、貨幣と河川のアナロジーについて論じておこう。

中央銀行貨幣(通貨)にしても、銀行貨幣にしても、そこにあるのは創造と破壊のサイクルであって、作られたら作られっぱなしで循環しているわけではない。
その意味では、貨幣の流れは、循環浴槽とは別物で、河川の方に近いのである。

貨幣の流れがしばしば循環浴槽的だと誤解されがちなのは、それこそ貨幣外生説の「罠」によるものだと思われる。
経済学教育で貨幣をニュメレール財(単位財)として教育してしまうので、どうしても貨幣が財貨として経済を巡り続けるものだと勘違いしてしまう。

そうではなくて、貨幣には入口と出口がしっかりとあって、出口の排出力によって、貨幣が流通力を得ている。
貨幣の入り口というのは、通貨の場合は財政支出、銀行貨幣の場合は銀行の投融資で、貨幣の出口というのは、通貨の場合は租税で、銀行貨幣の場合は返済にあたる。

ここで「税が貨幣を駆動するなら、税を増やせば増やすほど貨幣が循環することになるのでおかしい」というよくあるタイプの誤解・誤読について論じておこう。

何もないところに河川を作るケースを考えるとわかりやすいと思われる。
その河川に十分な流量が発生するためには、少なくとも最初は排出量以上の水を供給しなければならない。
排出量以下の水供給だと、河川流量はゼロ、干上がったままになってしまう。
MMTで「財政支出高>租税高が常態」と論じるのもこの点から来ていて、河川に流れを起こす(≡通貨を流通させる)ためには十分な排出力(≡租税)が必要なのだが、河川の流量を確保するためには、流量分だけ累計財政支出(累計通貨発行量)が超過していないといけないのである。
また、より多くの人に、より多くのものを河川を通じて運ぼうとしたら、当然河川を拡大しなければならず、必然的に河川の総流量は増加し、その際は河川への水の"純"供給は追加されなくてはならない。

したがって、河川のアナロジーで考えれば、「税を増やせば増やすほど貨幣が循環することになるのではないか」という批判は、完全に見当違いのものであることがわかる。

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「ベーシック・インカムか、Job Guaranteeか」というのはよく議論になるところである。
この二つには様々な点での違いがあるのだが、今回は、再分配の形式として、不労所得として分配するか(ベーシック・インカム)、労働を介して分配するか(Job Guarantee)の違いというところだけにフォーカスして議論してみよう。

端的に結論を述べておくと、労働無き所得の(再)分配というのが現実の社会制度で許容可能なのか、並びに社会制度として望ましいのかについて考察すると、双方の点においてやはり所得ではなく労働の分配の方が好ましいのではないかと考えている。

第一に、俗な観点ではあるが、やはり「働いてもいないのに金を貰うのか」という非難は、互酬が根本にある社会制度において、”自然な感情”であることは否定できず、(再)分配に際して、形式的であっても労働という形を取るのは、そうした社会制度の基礎的部分との整合性が取りやすい筈である。

少し話が逸れるかも知れないが、少し関係のある議論としては、安田洋祐氏の「市場で再分配が可能」という前提を疑えがある。
上記記事を短くまとめると、競争的な市場均衡は、生産-消費マッチングの数量を最小化してしまい、再分配がない場合、アンマッチによって不利益を被る主体の数が最大化してしまうという趣旨である。

ここでもし、『労働のような社会参加を通じて「互酬」という社会の根本原理にコミットしなければ分配が与えられない』といった規範が広範に共有されている場合は、効率的な市場均衡ではなく、安田氏が記事で紹介しているような、均衡から乖離し得るマッチングシステムの導入が相対的に好ましくなる。

第二に、そもそも互酬を根本規範とする社会自体が好ましいかどうか、というところも当然議論すべきところであろう。
この根本規範は、ベーシック・インカム的な再分配が最適水準になるのを明らかに妨害するわけだが、かといって、互酬という規範が、社会的、ないし「生態的」に望ましくない共有規範かというと、そうとも言えないのではないだろうか。

というのは、構成員が皆、虎視眈々とフリーライダーになるチャンスを伺っている社会より、互酬を共有規範として、社会からの恩恵を受ける前提として各人の社会貢献が求められる社会の方が、社会全体の生産力や成長性は明確に高まる筈だ。その意味で、フリーライダーを排除したい性向を根本的に否定するのは難しいと思われる。

互酬を根本規範とする社会の場合、適応的に互酬、ないし他者への貢献に対して何らかの正の効用(達成感であったり、名誉感であったり)を持つ人々も多くなるだろう。
逆に、そうした人々が、労働等の社会参加から「排除」されると、所得と同等に疎外感に苦しむことになる。これはいわゆる「関係の再分配」にも絡んでくる話だ。

となると、従来の社会構造、社会に通底してきた規範や、そうした社会や規範を形成してきた人類の生態それ自体とのシナジーを取るなら、ベーシック・インカムのような所得単体の保障よりも、Job Guarantee型の(少なくとも形式的には)労働を通じた分配の方が適合的ではないかと考えるわけである。

上記に加えて同時に考えているのは、「労働する」、「社会に貢献する」という尺度を大きく緩める必要があるのではないかということだ。
例えば、単に栄養を得て、生き長らえるということだけを本質的活動だとしてしまうと、その尺度で見た「本質的労働・生産」には、この世のほとんどの労働・生産が当てはまらないことになる。

例えば、プロスポーツ選手の中には途轍もない金額を稼ぐ人々も居るが、彼らの足元にも及ばない所得である各種ショップ店員の皆さんの方が、明らかに我々の実生活における「必要度」は高い。
とはいえ私は、「プロスポーツ選手は実質的に穀潰しだからプロスポーツを廃止しろ」なんてことを言いたいわけでは無く、 『社会に参加している』、『社会に貢献している』、『社会において(何らかの)生産を行っている』、という評価は、(よほど困窮した社会でもなければ)可能な限り広く取って、様々な形で労働・生産・所得が発生するような社会である方が良いではないか、と言いたいわけだ。

ここらへんの議論と関係があるのが以下二つの拙コラムである。
「脱市場、脱成長が齎す文化的退廃 その裏にある市場の本当の恐怖」
「イノベーション、分配、経済成長」

上記議論に対し、「科学技術の発展によって、労働が不要になる可能性についてはどうか」という意見もあるのだが、現実の推移を見る限り、科学技術による自動化が進行するより前に、労働待遇が低下するという形で、雇用がキープされるというのが実情だと思われる。
齊藤誠「不況を放置した方が長期生産は高まる」について+追補で引用したレン=ルイスの記事の通り、不況による失業圧力の増加の中で、労働集約化シフトが進み、イノベーション利用は停滞し、これらによって生産性成長は抑制された。

これはある種当然で、生産手段(資本)から人々が隔離された現代経済では、是が非でも雇用されなければ生きていくことが出来ない。このため、自動化のコストに勝てるよう、人々は自身の提示賃金や労働待遇を”自ら”引き下げていく。
こうして、自動化されるまでもなく、人が低賃金で雇えるようになってしまうのである。
ちょうど『イノベーションの本当の源は高賃金』とは全く逆のことが起きてしまうというわけだ。

こうした問題を解消するキーが再分配による労働供給の抑制なのだが、既に指摘したように、ベーシック・インカム型には社会的限界があり、したがって(公的)雇用創出という形を取るのが結局妥当なのではないか、と考えているわけである。
労働という名分のついていない再分配は、極めて小さく、不十分なものに終わってしまうのではないかという危惧があるのだ。


傍論になるが、上記の議論してて思ったのは、では「働けない人々」への社会的庇護の源泉はどこなのだろう?ということだ。

「基本的人権!」と言明するのは簡単だが、基本的人権は別に天から降ってくるものではないので(せいぜい天から降ってきたものという”ことにする”のが限界)、その根源まで迫りたいのである。
山極寿一氏著「「サル化」する人間社会 」によると人間社会は「えこひいき原理の家族」と「平等・互酬性原理の共同体」を両立させたものにあたるという。

つまり、病人や赤子といった「働けない人」への社会的補助は、家族的なえこひいき原理の中から出てきて、(平等・互酬性原理の)共同体の論理とのせめぎ合いの中で表出するものなのである。
プレーンな人間社会は、決して国家・社会レベルでの素朴な個人単位の再分配を保障してくれるものではなく、社会の論理と拮抗する別の論理(家族の論理)が拮抗することでようやく生まれるものなのだ。

逆に、家族的なえこひいき原理の力が薄れてくると、「サル社会」的な個人(個体)レベルのエゴが強くなって来る。
ともすれば、相模原事件も、個人のアトム化(原子化)が進む中での、一種の「サル化」現象の顕れだったのかもしれない。

とにかく、共同体的論理は、特に個人主義化が進行する中では、単純な所得再分配を否定しようとする方向に強い圧力を掛ける代物である。
そうした中でのベーシック・インカムは、(労働名目の雇用創出を通じた再分配に比して、)極めて弱弱しい、小さな規模に留まってしまう危険性が高くなる。

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Uberをはじめとした”ライドシェア”という業態がある。

詳しいところは参考リンクをご覧いただきたいが、要するに、インターネット上で「乗りたい人」と「乗せたい人」をマッチングして、自家用車への相乗りという形で白タク行為を行い、報酬を得る業種である。
退蔵されている自家用車という資源を利用可能にしたり、ライドシェアの浸透を通じて、全体の自家用車保有を低下させ、事実上の資源共有を深める(シェアリングエコノミー)といった謳い文句で持て囃されている。
日本では現状、上述した通り「白タク」行為にあたるため、実際にこのライドシェアによる報酬は得られないことになっている。
そしていつもながら、「日本のタクシー規制は時代遅れで、一刻も早くライドシェアを法的に認可するべきだ」という主張が後を絶たない。

そこで、ライドシェアが抱える問題について、まとめてみたのでご覧いただこう。


①ライドシェアには、代替移動手段(公共交通機関や自転車、徒歩など)からのシフトを促し、渋滞を生み出す不経済がある。

参考リンク
ライドシェアは渋滞を軽減するどころか悪化させる アメリカで話題の予測
米NY市が新条例、配車サービスの台数に上限

先述した通り、ライドシェアの謳い文句は自動車の”共有”(シェアリングエコノミー)であり、これによって渋滞などの問題は緩和されると主張されることもある。
しかし実際には、ライドシェアは渋滞を激化させ、現にニューヨークでは台数規制が始まった。
これは何故だろうか?

ライドシェアと競合しているのは、既に小見出しにも書いた通り、徒歩、自転車といった自動車以外の代替手段や、バスや電車といった公共交通機関である。
徒歩や自転車、電車は車道を利用しないし、バスは人々を”集約”して運行するため、渋滞緩和的な効果を持つ。
その一方で、ライドシェアは、利用人数あたりの車道利用が大きくなるため、渋滞悪化的効果を持つことになる。
タクシーと比較しても、低価格により利用は増加しており、また自家用車が利用可能なため、自動車資源の投入も増加する。結果として、深刻な渋滞悪化を引き起こしてしまったのである。

こうした事態に対し、「ライドシェアへの規制ではなく、渋滞時間帯の交通量徴収といった、自動車一般への渋滞対策を行うべきだ」というのがよくある反論である。
しかしながら、ライドシェアによって発生したコストの少なくない部分を他に転嫁することはそもそも不公平な上、転嫁分だけライドシェアは厚生上過剰供給になってしまう。ライドシェア過剰利用による不経済は、ライドシェアの値上げやライドシェアへの規制を通じて解消するのが、公平さの面でも厚生面でも妥当なのである。
また、運送業といった、車道以外の代替手段に乏しい業種を圧排してしまうのも不経済である。ライドシェア以外にも経済的負担を要求しようとする主張は、あらゆる面で道理を外れていると言えよう。






②ライドシェアにもバックグラウンド・チェックや評価機能はあるものの、それでも運転者による犯罪発生等のトラブルは後を絶たない。

参考リンク
世界各国における自家用車ライドシェアをめぐる犯罪行為等に関する質問主意書 

ライドシェア業者は、バックグラウンド・チェックや評価機能により「不良」運転者は排除されると喧伝しているが、上記リンクでも分かる通り、実際にはその効果には疑問符が付いている。



③ライドシェアのドライバーは請負扱いとなっており、各種労働者保護を受けられず、整備費等のコストもドライバーに押し付けられる構造になっている。

参考リンク
問題山積のライドシェア 断固反対を訴えるタクシー業界 

ライドシェア業者は、あくまでマッチングサービスを提供しているだけという建前なので、ドライバーに対する労働者保護は一切存在しない。
整備費はもちろん、事故に関する保険もドライバー個人単位で加入する。労災などあるわけもない。
ライドシェア業者の”目覚ましい業績”は、本来負うべきコストを回避することによる”フリーライド”によって発生しているわけだ。



④ライドシェアの安さは、タクシー業界が負担しているような安全コストの回避に起因しており、決して望ましいものではない。

参考リンク
問題山積のライドシェア 断固反対を訴えるタクシー業界

前項とやや重複する部分もあるのだが、ライドシェア業者は、ライドシェア業に関する正当なコスト負担を回避している。
事実上の請負仲介という立場を利用して、労働者(ドライバー)への保護制度を回避し、保険の整備どころか、保険加入の如何さえドライバーに押し付けている。
ライドシェアが(タクシーに比して)安いのは、単に負うべきコストを負っていないからだ。
この問題を解決するには、ライドシェアにおけるドライバーに正当な雇用契約を設け、ライドシェアの供給会社単位の保険や整備費用負担等を徹底する必要があるのだが、そうなれば、ほとんど既存のタクシーとコスト上変わらなくなる可能性が高いだろう。



⑤供給量のコントロールがないため、渋滞以外にもタクシードライバーの生活困窮を惹き起こしており、中長期的なタクシー(等)供給の安定化の観点からも問題となる。

参考リンク
問題山積のライドシェア 断固反対を訴えるタクシー業界
NYだけで8万人。増えすぎUber運転手の生活が困窮—— NY市規制に

瞬間的に料金が安くなっても、ドライバーの生活が困窮し、供給維持が困難になっては意味がない。
生活費捻出のために、”自発的”超過労働になってしまっては、安全にも支障がある。
また、収入が過剰に低いと、中長期的に安定した人材流入にも滞りが生じるだろう。
タクシーは、単なる営利事業であるだけでなく、補完的なインフラ、公共財の一種としての役割も期待されている。その意味で、過当な競争は望ましいものではない。
公共経済学的観点から言って、道路資源の効率的な利用の面のみならず、タクシー業一般の中長期的安定の面でも、ライドシェアの蔓延は望ましくない効果を生むだろう。



⑥ライドシェアにおける利用者評価機能への過度な依存は、利用者の『増長』を生み、ドライバーの著しい地位低下の原因となっている。

参考リンク
ライドシェア離れが進行中。滴滴出行はこの危機を乗り越えられるか

ライドシェアでは、ドライバーの評価が、ライドシェア業者ではなく、利用者に完全に委ねられている。
いわば人為的に「お客様は神様」状態を強化しているわけで、この構造により利用者がドライバーに対して無理な要求をするケースが後を絶たないという。利用者のレビューが真に正当なものかをチェックする仕組みは存在しないからだ。
通常の企業なら、ドライバーへの”評価”は、消費者によるクレーム等が反映しているとしても、あくまで企業単位で下される。ライドシェアには、そうした企業によるクッションが存在しないわけだ。

また、利用者評価機能への依存がライダーへの損害を産み出すという上記問題は、いわゆる労働者保護が、雇用主からの保護だけでなく、一部消費者からの保護としても機能している面を伺わせる。
バーゲニング・ポジションの差の問題は、労働者と消費者の間にもあるというわけだ。




問題のまとめは以上となる。
こうした経済学的(特に公共経済学的)な問題分析は、これから次々と生まれるであろう新サービスにも有効になり得るので、是非参考にしていただけると幸いである。
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物価連動型の債権債務契約が普及した経済について、以前までは
「価格硬直性の低下圧力になるので、経済調整がスムーズになるのだろうか?」
程度の検討しかしていなかったのだが、MMTの水平分析等を考慮すると、むしろ経済を不安定化させ得るものだという風に考えが転回した。

まずは、拙コラム「なぜ生産性ショックによるインフレ(所謂スタグフレーション)は「許容」すべきなのか」のおさらいから始めよう。
このコラムの議論では、まずMMTの水平分析にあたるCT(貨幣循環理論)、貨幣の信用理論とも呼ばれるものを前提にしている。

CTの詳説については、『「お金」「通貨」の実態・正体』や、『CT(貨幣循環理論)からMMT(現代金融理論)へ』をご一読頂きたいのだが、端的に言えば、信用貨幣経済における生産は、借入→投資→生産→販売→返済というサイクルを持つという理論だ。

なぜ生産性ショックによるインフレ(所謂スタグフレーション)は「許容」すべきなのか』では、このCTの理論から敷衍して、広範な生産性ショックが貨幣性生産サイクルに与える影響を考察している。
生産性ショックによる実質付加価値生産の低下があった際に、物価が据え置きであると、企業は返済資金を販売で調達することが出来なくなり、貨幣性(信用性)生産サイクルは破綻することになる。
勿論、個々の信用サイクルを取り上げれば、通常経済でも破綻する信用サイクルはいくらでも存在し得るわけだが、広範な生産性ショックの場合は個別論では済まない。

広範な生産性ショックによる、多数の信用サイクルの破綻は、当然ながら信用不況を惹起することになる。
これに対し、生産性ショックによる物価上昇を"許容"して、名目所得(及び名目所得成長)を維持することで、信用不況を回避する必要があると議論したのである。

しかしながら、物価上昇の許容による名目所得の維持が信用サイクルの破綻防止に繋がるのは、事前の債権債務契約が名目的に固定的であるという前提に基づいている。
もし物価連動型の債権債務契約であれば、物価上昇による名目所得維持があっても、物価上昇の分だけ返済が増加してしまうので、結局信用サイクルの破綻を免れ得ない。

もしそこで信用サイクルの広範な破綻を防ごうと思えば、さらにより一層名目所得を拡大する必要があるが、これはさらなる物価上昇を惹起するため、物価連動型の債権債務契約がこれに"反応"してしまい、まさに”いたちごっこ”となってしまう。
この場合、信用不況か、際限のないインフレか、どちらかを強いられることになる。

上記により、物価連動型の債権債務契約の普及は、生産性ショックに際して、経済不安定性を爆発的に増幅させてしまう構造を持っている。
生産性ショックに対する致命的な脆弱性があるわけだ。

なお、物価連動型「国債」の場合は、政府が実質的な通貨発行者なので、上述のような信用不安の惹起は無いのだが、物価連動型国債の規模が大きくなれば、インフレ発生時に物価連動によって政府による返済額=通貨発行額が増加するという構造上、名目所得上昇の加速→さらなるインフレの加速を促す危険があるかもしれない。