A宮は「皇族である前に一人の人間でありたい!」と言った ① | 中杉 弘の徒然日記

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北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう、1847年4月1日弘化4年2月16日 〉- 1895年明治28年〉10月28日)は、日本皇族陸軍軍人。幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんおうじのみや)として知られる。伏見宮邦家親王の第9王男子。生母は堀内信子。幕末に活躍した山階宮晃親王久邇宮朝彦親王の弟で、仁孝天皇猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たり、また義父に当たる、北白川宮智成親王が孝明天皇の猶子に当たるため、明治天皇の甥でもある。

 

 

 

A宮は「皇族である前に一人の人間でありたい!」と言った ①

 

 これは、如何にバカな考え方だとわかるでしょう。魔子は、「皇室から離れて自由になりたい」と言ったのです。では、お金をもらわないで平民の生活をしなさい! 何を生意気なことを言っているのでしょうか?

 この2人は、充分すぎるほどの皇族待遇を与えられて、何をトボケたことを言っているのでしょうか? A宮家は、年間1億6千万円もらっているのです。ふざけるものではありません! これだけではありません。様々な特権がありながら、「皇族である前に一人の人間でありたい」、などとトボケたことを言っているのでしょうか?

 国民に聞いて御覧なさい。「私は国民よりも皇族になりたい」と言うでしょう。皇族であれば、生活には困りません。A宮も魔子も、考え方がおかしいのです。

今上天皇も、結婚する時に「私は命を懸けて雅子をお守りします」と言われたのです。それは違うでしょう。天皇がお守りするのは、国民です。雅子さんは家族です。家族を守るというのは、当たり前の話です。そんなことを公の場で言うことではありません。

天皇が、公の場で言うことは、「私は命を懸けて国民を守ります」ということです。「私の家族を、命を懸けて守ります」とは、どのようなことなのでしょうか?

A宮の発言は、これと同じような発言です。まず、「人間でありたい」と言っているのです。では、「裸の人間」とは、何でしょうか? この世に存在するのでしょうか? 社会的な身分もない、財産もない、「人間」という名前だけの人間が存在するわけがありません。

「人間」という以上は、必ずそこに社会的身分があります。皇族も、大富豪も、官僚も身分があります。A宮は皇族なのですから、最高に恵まれた環境です。それよりも、「一人の人間でありたい」とは、どのようなことなのでしょうか? 

これは、一切の責任を放棄した姿です。A宮は、当然、国民に対しての責任があります。ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)というのです。貴族というものは、普段は自由でよいけれども、「いざ戦争だ!」という場合は、国民の先頭に立つのです。これが西洋の伝統であり、日本にもそのような伝統があるのです。

皇族は戦争になると、先頭に立ったのです。竹田恒泰さんの祖父の北白河宮は、台湾神社に祀られています。北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう)は、台湾へ近衛師団長として出征したのです。台湾でマラリアにかかり、お亡くなりになられたのです。

今でも竹田恒泰さんが台湾へ行くと、台湾人に尊敬されるのです。台湾の北白河宮が祀られている神社には、写真が飾ってあるのです。皇族は先頭に立って、戦争に行ったのです。それが当たり前です。

師団の連隊長には、皇族が入っていたのです。皇族は、陸海空軍の階級を持っていて、「いざ、戦争だ!」という場合は、軍服を着たのです。皇族が戦争の先頭に立って指揮をしたのです。それでこそ皇族は、尊敬されたのです。

それとは全く反対の皇族がA宮です。A宮が発言した「皇族である前に一人の人間でありたい!」とは、どのような意味なのでしょうか? 「乞食になりたい」ということなのでしょうか? 人間はこの世に「オギャー」と生まれて、生を享けた瞬間に責任を持つのです。

責任を持った分だけが、社会から受け入れられるのです。「一人の人間になりたい」と言うならば、身分も階級も捨てて、ホームレスになって、大阪の西成区に住めばよいのです。西成区は有名なホームレスの町です。その中でウロウロと歩き回っていればよいのです。

僕は、小室直樹先生を非常に尊敬しています。小室直樹先生は、論理の先生です。小室直樹先生は、「公明党が野党ならば、何を考えてもよい。ただし、宗教政党が政権与党に入ったならば、憲法違反だ」と言われたのです。

野党の公明党が「国立戒壇を造る」と言おうと、何を考えようと自由です。「何故、自由なのか?」というと、野党は権力がありません。それでも、国会議員という権力があるから、よくはありません。

一応、あえて言うと政権が権力を持っているのです。与党に入らない場合は、公明党が何を考えていようと、どのような思想を述べようと自由です。

ところが、公明党のような宗教政党が、権力の中枢に入った以上は、憲法違反です。これを教えてくれたのが、小室直樹先生です。「なるほど、そのようなものか」とわかったのです。言われてみると、その通りなのですが、このようなことは、誰も言いません。小室直樹先生は、分別の先生です。物事をよく分別していく、分別の先生だと言えるのです。

物事には、分別と無分別があります。人間が勉強しなければいけないものは、2つあります。それは、分別法と無分別法です。分別法とは、一般の学問です。学問と称して我々は、様々なものを分別して、様々な理論を構築しているのです。これは学校で習うことです。

しかし、人間がもう一つ学ばなければいけないことがあります。それが無分別法です。この両方を教えないと、人間は立派なものにはなりません。分別法は社会を構成します。法律も分別法、経済も分別法です。これらは、学んだ分だけ賢くなるのです。

しかし、もう一つの無分別法というものがあります。現代人に欠けているのは、無分別法です。人間は分別と無分別から出来ています。一般世間の人は、片方の分別法だけを勉強して、無分別法を勉強していません。

無分別法は、分別しません。全ての生命は一つです。分別法では、頭の良い人、悪い人を分別して、「お前は東大に行け」「お前は職人になれ」と分別するのです。

それと同時に無分別法があるのです。無分別法から言うと、生命は皆、同じです。生命は人間だけではありません。あらゆる生命が一つです。これは、無分別法です。このような見方も大切です。

 この見方から始まったのが仏教です。仏教では、分別法を説いていません。仏教をいくら学んでも、賢くはなりません。仏教は、智恵を学んでいるのではありません。「学ぶ」ということは、分別法の学びです。分別を学んだほうが、たくさんの情報が手に入るのです。社会で生きていく上では有利です。

 無分別法は、人間を創るのです。分別法では、人間はできません。分別法は、知識と智恵だけの“化け物”を創っているのです。だから、当たり前のことが議論できない人間になってしまうのです。(②に続く)

 

 

 

■安西孝之さんとA宮は、瓜二つです!

 

  安西孝之さんは、美智子さんの妹の亭主です。

 

※M子ちゃんと、 矗昶(もり のぶてるも、瓜二つ。

 森 矗昶は、安西孝之さんの祖父です。

https://www.yoshiepen.net/entry/2021/03/01/224414

 

 

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