魔子問題、皇統とは何か? ① | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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宮さん 宮さん

 

    日本には殿さまがいるのだ!

 

       日本国の殿さまのことを天皇というのだ!

 

 ジャーナリストの篠原常一郎さんの言っていることは正論です。正論だけれども、おかしな所があります。それを指摘したいと思います。個人的には非常に尊敬している先生です。

 これは日本全体の問題です。それは、「原点を疑う」ということです。学問の本質とは、原点を疑うことです。福沢諭吉は子供の頃、自分の家の近くにお社があったのです。そこに「ご利益がある」と言って、みんな拝みに来たのです。

 それを見て疑問に感じたのです。「ご神体を石と取り換えたらどうなるのだろうか?」子供の頃、福沢諭吉はご神体をどけて石を置くと、人々は同じように拝んだのです。

 福沢諭吉のような考え方が大事です。それは、「原点を疑う」ということです。原点を疑わないで素通りしてしまうと、原点を間違えたままになってしまうのです。原点は学問の基礎です。「点というものは、位置のみあって面を持たない」というのが原点です。

 鉛筆でポンと点を打つと面積を持つのです。それが「面積を持つ」と決めてしまうと、幾何学は成り立ちません。点は、位置のみを示すものですから、点を何百万個集めても面積にはなりません。そのような考え方です。

 これが原点です。「どんな点でも面積を持つのだ」と言ったら、幾何学の体系が壊れてしまいますが、新しい幾何学が出来るのです。

 たとえば、ABという点があり、最短距離を結ぶものが直線です。これが定理です。点Aから、湾曲して点Bに到着したらどうなるのでしょうか? それは最短距離ではありませんから、幾何学は成り立たなくなるのです。

 そのように原点が非常に大事です。原点を何にするのかによって、学問が生まれてくるのです。何を学問の根本とするのでしょうか? それを何処まででも疑っていかないと新しい学問はできません。

 僕の探求してきたことは、「仏教の原点とは何か?」ということです。宗教は仏法の他に、キリスト教、神道もあります。「どうして違いが出てくるのでしょうか?」と考えます。考えるから学問が出来てくるのです。

 宗教には2つあります。宗教は無分別法を説く宗教と、分別法を説く宗教があります。すると、無分別法を説いたものが仏教です。何故かというと、仏教では「生命は皆同じだ」と言います。その通りです。

 「生命はみんな違う」というのが神様の思想です。神様は最初に天と地を創りました。それから人間を創ったのです。神様が創造主です。創造されたものには、それぞれの違いがあります。キリスト教はこのような宗教です。造物主(creatorクリエイター)が様々なものを生み出したのです。

 仏教は違います。「無量義は一法より生じる」と言うのですから、あらゆるものに差別はありません。皆、同じです。豚、牛、馬、人間と言って差別をしてはいけません。みんな平等です。そのような教えです。これは分けて考えないといけません。

 神というものは、人間が生きていくために作り上げた定理です。仏教とは、「みんな同じなのだよ」と平等観を説いたものです。

 どちらかに偏ってもおかしいとわかるでしょう。「生命は皆、同じなのだから差別はいけないのだ」と言ったら社会は成り立ちません。社会というものは、中心点があり、そこから様々な仕事が生み出されてくるのです。これは分別です。

 自衛官の仕事は命を懸けてやる仕事ですから、大事な仕事です。パチンコ屋の仕事は命を懸けているわけではないので、「どちらが大事な仕事なのか?」というと、自衛官の仕事が大事です。

 そのような分別ができている社会は、神様を中心にした分別社会です。宗教は無分別を説いた仏教と、分別を説いた神道があります。その2つがかみ合わないと、おかしな社会になってしまうのです。

 「差別だ」と言ったら、カースト制度が未だにあることになってしまうのです。カースト制度は、僧侶が一番偉くて、その下が王様、貴族、武士、商人、奴隷です。「これをきちんと守らなければいけない」と言ったらやりすぎです。

 反対に「人間には階級などないのだ。人間は皆、平等なのだ」と言うと、Let It Be(ほっといてくれ!)」です。このような考え方では、社会は成り立ちません。この両方を正しく学んでいくことが、正理会(しょうりかい)の考え方です。神と仏は大事です。分別の思想を学び、無分別の思想を学ぶと、間違いのない人間ができるのです。確実な人間の集まった社会は、完璧です。

 布を織る時には縦糸と横糸が必要です。一枚の布は縦糸と横糸で出来ているのです。縦糸だけで布は織れません。横糸だけでも織れません。面積を持った布は、縦糸と横糸が織り合っているのです。

 日本の天皇は縦糸の理論です。天皇を中心にして、3千年も日本人は歴史を生きてきたのです。3千年の歴史を持った国家とは、縦糸がつくっているのです。ところが、身分制度だけが存在して、庶民がいなければ国は成り立ちません。そこに庶民が絡んでくるのです。庶民とは、会社の社長や、町人です。庶民に伝統はありません。

 「明治何年に会社が出来た」という会社の伝統はあります。それだけの話であり、たかだか100年の歴史では、日本の歴史の中には入ってきません。日本の歴史は3千年以上あります。

 明治時代の伝統など通りません。国家というものから見たら、まだまだ新参者です。たかだか100年くらいの歴史で威張るようなものではありません。

 「うちは江戸時代から続く庄屋の家で伝統がある」と言っても、200年か300年です。天皇の伝統は3千年です。桁が違います。実際は3千年続いている家柄は、比較にならないくらい尊いのです。

 江戸時代に出来た庄屋ではありません。明治時代に出来た会社の社長ぐらいでは、比較にならないくらい偉いのが天皇陛下です。国民はそのことをわからなければいけません。そのことが分からなければ、ハッキリ言ってバカなのです。

 だからこそ天皇は尊いのです。誰も真似できません。「3千年の家柄に盾突くのか?」と言われたら、日本人は「はっはー」と言ってしまうのです。

 明治時代に出来た成金など、「下がりおれ」ということです。社会とは、そのようなものです。

 司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、秋山好古が、四国の松山藩の殿さまに留学の報告に行ったのです。もう江戸時代ですから、殿さまではありません。屋敷へ行くと家老が出てきたのです。それだけの格式と伝統をもっているから、殿さまは軽々しく出てきません。

 秋山好古は、大日本帝国陸軍中佐です。明治政府の高官になっても、殿さまは出てきません。家老が出てくるのです。明治時代には、そんな制度はとっくに終わっているのです。

 家老が「一つ頼みたいことがある。若様はフランスに留学に行くので、よろしく頼む」と言うと、秋山好古は「はっはー」と言うのです。

 今でもそうなのです。伊達藩の殿さまが今でもいます。普通の人ですが、殿さまが出てくると、儀礼に従うのです。

 伊達の当主に会ったことがありますが、助さん、格さんのような屈強の若者が殿さまを守護していたのです。今でも地方の殿さまは存在しているのです。島津の殿さまも今でもいるのでしょう。殿さまが出てくると、皆「はっはー」と従ってしまうのです。

 それが3千年の伝統を持った天皇陛下になると偉さもケタ違いです。天皇には3千年の歴史があり、源氏、平氏、橘、藤原とつながっているのです。日本人の総本家が天皇です。「どのくらい偉いのか?」ということがわからなければいけません。(②に続く)

 

 

 

※本物の皇族(11宮家)のお顔が見れます。本来の日本に返ろう!

 

■安西孝之さんとA宮は、瓜二つです!

  安西孝之さんは、美智子さんの妹の亭主です。

 

 

※M子ちゃんと、 矗昶(もり のぶてるも、瓜二つ。

 森 矗昶は、安西孝之さんの祖父です。

https://www.yoshiepen.net/entry/2021/03/01/224414

 

 

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