皇室と「Let It Be(レット・イット・ビー)」 ① | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

まつり 北島三郎 

 

     公は大事だ!

 

       ウソをつくな!

 

          ごまかすな!

 

              忖度するな!

 

                  真面目にやれ!

 

                    分を知れ!

 

 

  

 バカ宮様は、何をカン違いしているのでしょうか? バカ宮様が求めているのは、「完全な自由」です。魔子もそれに従って、完全な自由を欲しがったのです。

 魔子の場合、「完全な自由」とは、好きな男と一緒になることです。だから、その男は、無職の乞食男でもジゴロでもよいのです。それを実現したのです。「全ての国民が反対しても、私は好きな男と一緒になりたい」ということを実行したのです。

 すると、妹の火子が魔子と同じようなことを言っています。「私もそうしたいのだ、私が選んだ人を誰が反対しても一緒になりたいのだ」と思っているのです。

 このような思想のことを、Let It Be(レット・イット・ビー)」と言うのです。Let It Be(レット・イット・ビー)」の僕の解釈は、名訳だと思います。「Let It Be(レット・イット・ビー)」とは、「ほっといてくれ!」ということです。「なすがままに」ではなくて、「ほっといてくれ!」ということです。

 「私に構うな。自由にさせろ!」ということです。皇室には、そのような自由があるのでしょうか? 答えは、自由などありません。「人間と自由」の関係を考えてみると、分に応じて自由があるのです。

 分に応じて、「公」「私」があるのです。識者でも、このような考え方をしていません。「分に応じて」ということが大事です。それは、社会ということです。社会には、様々な役割があります。国会議員、警察官、裁判官、皇族などは、「公」です。この中には、一つも「私」はありません。

 身分制度がきちんとできていないと公私の分別はできません。天皇になった場合は、ほとんど「私」はありません。限りなく「公」が重いのです。

 最高裁の裁判長は、「公」が100%で、「私」などありません。その中にある「私」とは、本を読んだり、散歩したり、テレビを見たりするくらいの自由があるだけです。ゴルフをやるくらいの自由はあるのでしょうが、朝起きて夜寝るまでの間に考えていることは、「公」のことです。

 公私の比率は身分によって変わってくるのです。昨日、警官になったばかりの巡査ならば、「私」は40%はあるでしょう。まず、結婚して、お金の問題、将来の問題があります。これも自分のことです。どのくらいの割合なのかというと、「公」が60%で、「私」が40%くらいです。

 学校の先生は、「公」が80%くらいで、「私」は20%です。残りの20%で、自分のことをやるのです。それが反対だと、どうなるのでしょうか? 

警察官、学校の先生が100%「私」しかなければ、どうなるのでしょうか? 「私」が100%ということは、「好き、嫌い」で判断するのです。「お前は好きだから、可愛がってやる」「お前は嫌いだから点数をあげない」と言うのは、「公」ではありません。

 これは、100%「私」です。「俺はこいつが気に入ったから点数をあげるのだよ」「こいつはあの高校に行かせないように成績を落としてしまえ」と言ったら、「公」ではありません。

 「社会のためにそうするのだ」と言うと、「公」のように見えるのですが、やはりそれは「私」です。そのように分別していけばよいのです。

 「私の中には、公が何パーセントあるのか?」ということを考えていけばよいのです。私人と言っても、何万人も社員がいる大会社の社長はどうなのでしょうか? それは、ほとんど「公」です。

 社長のやっていることは国のためにもなるし、税金を納めているのですから、やっていることは「公」です。何万人の社員の面倒を見なければいけません。これは、「私」ではありません。「公」です。偉くなればなるほど、「公」が大きくなるのです。

 自分は小さくしていかなければいけません。では、「日本の天皇とは何か?」というと、日本の最高権威です。「私」などあるはずがありません。天皇陛下は、全て「公」です。

 皇族の場合は、90%が「公」で、10%は「私」でもよいのです。でも、圧倒的に「公」が重いお立場です。朝起きて寝るまで全て「公」です。国のこと、国民のことを常に考えられているのです。

 その中でA宮のやっていることは、全て「私」です。「公」は一つもありません。「もっと、もっと自由を!」と言っているのです。「もっと、もっと、Let It Beだ!(ほっといてくれ!)」と言っているのです。バカだとわかるでしょう。

 本来ならば、皇族は最高の権威をもっているのですから、「私」など無いのです。それを自覚できなくてA宮は、「もっと、もっと自由を! Let It Be(レット・イット・ビー)」だ!」と言っているのです。

 KKの座右の銘は、Let It Be(レット・イット・ビー)」です。だから、A宮の魔子と一緒になったのです。根底は、Let It Be(ほっといてくれ!)」なのです。Let It Be(レット・イット・ビー)」は、「ほっといてくれ!」ということなのです。

 すぐにわかるでしょう。ビートルズのLet It Be(レット・イット・ビー)」は、「ほっといてくれ! 何をやろうが俺の勝手だよ。人間は自由なのだ。Let It Be(レット・イット・ビー)なのだ! 俺は限りなく自由なのだ!」と言っているのです。そんな話はありません。

「限りなく自由」などという人間はいないのです。みんな、それぞれの立場において、「公」と「私」を考えていかなければいけません。我々庶民は、そんなに偉いものではありません。

 庶民は100%「私」で動いているかもしれません。庶民は社会的に偉くなどありません。偉くないのですから、庶民が何を考えてもよいのです。社会的に偉くなったならば、どんどん「私」を少なくして、「公」を大きくしていかなければいけません。そうでないと、偉い人間とは言えません。そうしないと社会の秩序が保たれなくなってしまうのです。

 これをカン違いして、A宮は「無限の自由を俺にくれ!」と言っているのです。皇室の「公」はどうなってしまったのでしょうか?

 「私は国の行事に参加していますよ」などと言って、そんな程度ではいけません。私心を持って公の儀式に参加しても、それは「私」です。「宮様として公の儀式に参加していますよ」と言っても、ダメなのです。

 「私」の心を持って国家の行事に参加してもダメなのです。心を開けると100%「私」ならば、そんな皇族はいりません。56歳にもなって、自分の立場というものがわからないのでしょうか? 

 看護婦さんでもそうです。嫌な仕事もやるのですから、看護婦さんにほとんど「私」はありません。休日だけが私です。私を振り回して、患者を殺す看護婦は最低です。「あの医者をゲットしたい」と思っているのは、私です。

 患者のことを忘れて「あの医者と一緒になりたい」と考えていたら私です。そんな奴はいなくなればよいのです。

 これからは、日本の隅々まで「公」と「私」を明確に分けた教えを説いていかなければいけません。今の日本人は、公私が全くわかっていません。僕は当たり前のことを言っているのです。僕のブログは全て一貫して、物の考え方を教えているのですから、一つも間違いはありません。

 誰でも納得することを僕は書いているのです。奇を衒ったことを書いているわけではありません。日本人が当たり前のことがわからなくなっているのです。それを戻してあげようとして、毎日、毎日、一生懸命、ブログを書いてきたのです。

まずは、日本人が「公とは何か? 私とは何か?」ということがわかるようにしていくことが大事です。(②に続く)

 

 

 

 

※本物の皇族(11宮家)のお顔が見れます。本来の日本に返ろう!

 

■安西孝之さんとA宮は、瓜二つです!

  安西孝之さんは、美智子さんの妹の亭主です。

 

 

※M子ちゃんと、 矗昶(もり のぶてるも、瓜二つ。

 森 矗昶は、安西孝之さんの祖父です。

https://www.yoshiepen.net/entry/2021/03/01/224414

 

 

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