(出発日:1994年8月19日、入山日:1994年8月20日、下山~帰宅日:1994年8月21日)

 前年に白馬大池まで上がったものの悪天候で白馬岳には登れなかった。いつか登りに行こうと思ったまま日が経ってしまっていたが、翌年八月に大雪渓から登っている。

 この山行については、前橋を出発して頂上小屋に着くまでのことが書かれたメモ帳が残っていた。(以下の青字はメモ帳の引用箇所)

>先週の山行の疲れが残っていたが、以前Hさんがお勧めだった白馬へなかなか行けずにいたので、とりあえず行ってみることにした。

 重い荷物を背負って折立から新穂高温泉まで縦走してきたばかりだったが元気なものだ。

 この時は、前橋で電車に乗り遅れてタクシーで高崎に移動している。毎度のパターンで信越本線で篠ノ井に行き、そこから急行「ちくま」に乗り一時少し前に松本に着いている。

 出発がバタバタでいろいろ買い足していかなければならないものがあり駅前のコンビニに寄って行った。繁華街が近く、なんとなく風紀が良くなさそうだったが特に支障は無く、翌朝に食べるパンなどを買って駅に戻った。
>改札前のコンコースには、山ヤを中心に駅カンの態勢に入ったのがマグロのように寝転がっている。今年の夏は暑いせいか、シュラフに潜っている者は見かけなかった。

 自分もエアマットを敷いた上に横になる。すでに構内の照明は消されていたが、一部終夜点灯しており、ちょうど自分が仰向けになっている上にもあって目障りだったが、仕方なくそのまま寝る。

 今回の失点の一つは耳栓を忘れたことだ。夜中に酔っ払いがコンコースを徘徊して、横になっている人にケチをつけている。自分のところにもニ三度近づいてきて、そのたびに半分まどろんできたところで目が覚めてしまい迷惑このうえない。

 人の話声が耳につくと眠れなかったので耳栓は必ず持っていったが、このときのように忘れることもあった。

 上記のとおりあまり眠れなかったが四時前には起きて、朝一で到着する急行「アルプス」に乗った。 

>松本から乗った電車の車窓が次第に明るくなる。ところが、あたりはどんよりとして、先週、毎朝快晴だったのがウソのよう。近くの山々に霧がかかり、あまり芳しい天候ではない。

 前週の縦走のときは連日好天に恵まれていたが、このときはそうではなかったようだ。

>白馬に着く。結構な人が下車する。

 駅前のバス乗り場には列ができている。持参したはずの団扇がないのに気づき、売店に買いにいってみたがどこにもない。

 暑がりで大汗をかく自分にとって団扇は必需品だった。登山中に手がふさがるので、山で団扇をあおぐ登山者はほとんど見かけないが。

 少しでも早く登山口に着きたかったのかタクシーで移動しようとしたが、このときは駅前からほとんど出払っていて、残っていた一台も予約済みで乗れなかった。

 仕方なくバスの乗り場の列の後ろの方に並んだが、幸い席に座ることはできた。

>六時に発車。八方を過ぎると道も細くなり、エンジンをうならせながら坂道を上がって行く。途中、タクシーとのすれ違いで何度も停まる。一瞬、車窓から不帰のキレットが見えた。見上げると空には晴れ間が広がってきた。

 いつの間にかウトウトして寝入ってしまった。「間もなく猿倉に到着いたします」という車掌のアナウンスではっと目が覚める。

 猿倉山荘の前には、もうたくさんの人が集まっていて登山の準備をしていた。山荘のスタッフが拡声器で登山届の提出を呼び掛けている。じきにラジオ体操が始まった。ラジオの調子が悪いのが第一体操は音声が途切れ途切れだったが、第二体操では持ち直した。

 ジュースなどを買い、短パンに履き替えて7:05に出発。

 白馬尻までの前半は林道で、後半は登山道となり傾斜もきつくなるが、コースタイム一時間のところを四十五分で歩く。

 やや雲行きが怪しくなる。しばらく歩いて雪渓出合となり、そこでアイゼンを装着した。

 そのとき初めて大雪渓を目にした。ずっと先の方を歩いている登山者が蟻の行列のよう見えた。 

>アイゼンを着けるのは初めてで、具合が良くなく何度も外れてしまった。そのたびに、バンドを締め直したため時間をかなりロスする。それでもそのうち慣れててきて外れなくなった。
 雪渓登りは初めてだった。このときのために十本爪のアイゼンを買ったと思う。すでに十二本爪のは持っていたが、プラスチックブーツ用のバインディングタイプなので夏靴には使えなかった。
 紐で固定するタイプなので、締め方が悪いと外れてしまう。要領を得ていなかったから、途中で何度か締め直して時間をロスした。
 山馴れた人ならアイゼンを使わずにスプーンカットのへりに足を乗せて歩けるということだったが、実際に列の脇をゴム長靴でスイスイ登っていく人がいて感心した。

 登っていくとガスってきたので改めて落石に注意するようにした。

>今年は雪渓が小さかったため一時間も歩かずに終わってしまった。
 そこからが長かった。生憎、天候は良くなかった。上空も曇ってあたりもガスが立ち込めていたが、むしろ自分にとっては涼しくてありがたかった。
 傾斜がきつくなってくるにつれ、登山道が渋滞してきてのろのろとしたペースになった。脇道にそれて先回りしようとしたが、ザレて足元が悪く思ったように進めないので諦めて元の列に戻った。
 それでも休憩を取らずに歩き続けたせいか、ローペースの割には行程は捗っているようだった。高度を増すに従い気温が下がってきて、立ち止まっているだけで体温を奪われ消耗してしまうので、あまり休む気にもなれなかった。

 途中から夏道を歩くが、あまり景色を楽しんだ記憶が無い。ずっとガスの中で視界が効かなかったかもしれない。小雨にも降られて肌寒かったような記憶がある。

 葱平あたりで結構バテていたように思う。自分の悪い癖でついついオーバーペースになりがちだった。いくら前に歩いている登山者を追い越しても、その先でバテて長く休んでしまうので、結局、追いつかれるか抜き返されることが多かった。
 このときはノロノロと歩かざるを得なかったので、そうした無駄バテ休憩でロスすることも無かったようだ。

>そのローペースで長い急登を進んでいくと、視界の上方に村営の頂上山荘の三角屋根が見えてきた。
 天候もいくぶん回復して晴れ間も出て来るとともに、山麓の平地
(安曇野盆地のことか)も眺めることができるようになった。
 あと十分ちょっとで山小屋に着けると思うが、疲れてきたこともあってニ十分ほどかかった。 

 このときは小屋泊まりにしている。前週に折立から新穂高温泉までテント泊で縦走していたが、余計な物を詰め込み過ぎたためザックが非常に重くて山中で腰を痛めてしまった。その骨休めもあり小屋泊まりにしたように思う。

 そのまま先の白馬山荘まで行くことも考えたが、手前の頂上宿舎の方が混んでいないだろうと思い、そこで泊まっていくことにした。

 宿泊の手続きを済ませた後だったか、小屋の前で登ってきた道筋を見下ろしながら生ビールを飲んだ。当時、ビールサーバーを置いている山小屋は珍しかった。
 食事は自炊にした。前の週先の縦走では荷物を軽くするために食事はフリーズドライの食品などで済ませることが多く実に味気なかった。高天原山荘に一緒に泊まった二人組の楽しそうな食事の様子が羨ましかったこともあり、今回は野菜や肉をもって行き自炊を楽しむことにした。

 スーパーで買ってきたステーキ肉をアルミ箔に包んで冷凍して持ってきたが、生なのでここまで持つか少し不安があった。かなり時間が経っていたが、開けてみるとさすがに解凍していたものの中はまだ冷たく痛んではいなかった。
 けれど、焼き網に載せて火にかけるともうもうと煙が上がり始め、あっという間に自炊部屋が煙だらけになる。他の登山者にいったい何を作っているのかとのぞき込まれた。「豪勢ですね」などとと言われるが、煙のことが気になって味わってるどころではなかった。

 泊った部屋は蚕棚式の寝床だった。夏山シーズンだったので小屋がそれなりに混むことは覚悟していたが、その日は一人布団一枚ずつの割り当てでほっとした。

 この記事をアップしている時点でこの山行のアルバムが行方不明のため、以降のことは思い出せることも以下のことくらい。
 山小屋に着いた日には山頂に向かわなかった気がする。あたりがガスっていて視界が効かなかったか。

 翌朝、白馬山荘の中を通って山頂に行った記憶があるが、肝心の山頂でのことがまるで思い出せない。そのときも天気が良くなくて眺望に恵まれなかったのかもしれない。

 雪渓の下山は、前週の山行で痛めた膝や腰には負担が少なく楽だったように思う。

 ただし、空は曇っていて景色もぱっとしなかったような印象が残っている。大雪渓を半分くらい下ったところにカモシカが死んでいた。崖から転落したのか、病気で弱っていたのか・・・。
 白馬駅に下りてからミミズクの湯に行ったが、休みで入れなかったのはこのときだったか。
 帰りは大糸線で松本まで行き、そこからいつものように篠ノ井線に乗って長野を経由し、信越線に乗り継いでいったと思う。

(1)のつづき

[8/10] 
 翌朝、二人はまだ外が薄暗いうちに発ってしまった。自分も6:50頃に山荘を出た。小屋から程遠くない朝靄のかかった湿原の向こうに朝日を浴びたニセ薬師が望めた。
 初めのうちは樹林の中の道を歩いていく。しばらく上って行ったところで水晶池に通じる分岐があり、そこにザックを置いて池の方に入ってみる。この日も朝から天気は良く、池には日が差していた。多くの登山者が立ち寄っていたが、ここも蚊が多く落ち着いて眺めてもいられずさっさと戻ってくる。
 そこからの岩苔小谷の上りは長かった。比較的傾斜は緩やかだが荷物が重いのが堪えた。次第にダケカンバがまばらになって視界は開けてきたが、上れど上れど岩苔乗越にはいったいいつたどり着けるのかという感じだ。
 酷暑の夏だったので沢沿いの花はほとんど終わっていて味気なかった。
 上っていくにしたがい、最初は下の方を流れていた沢がだんだん近づいてきて、道のすぐ脇を流れるところではまだ少しだけ花が咲いていた。
 心を和ませたのも束の間で、それを過ぎて沢の水がなくなったあたりから傾斜がきつくなる。
 いつの間にか空に雲が広がり、乗越の手前のザレた斜面では吹き下りてくる風がとても冷たく、急速に体温を奪われた。ヘロヘロになって、正午過ぎにやっとのこと乗越に辿り着いた。 
 そこから見た感じでは尾根通しに鷲羽岳を越えていけそうに思えた。ザレた斜面を登ってワリモ岳の山頂に着くと、なにやらテントか張られていたような形跡があった。黒部川源流の上部には三日月形の雪渓が残っているのが見下ろせた。

 そこから先を見ると、さきほど鷲羽岳だと思ったのは別のピークで、本物の鷲羽岳までは思った以上にアップダウンがきつく、重い荷物を背負っていくのは大変そうだ。腰を痛めていたこともあり無理はしないで乗越に引き返して黒部川の源流部を下った。しばらく下りたあたりで水がちょろちょろ流れ出しているのを見つけた。これがあの黒部川の始まりである。
 なおも下っていくと雪渓があって、二十メートルほど雪の上を歩いてから左岸の斜面を巻いていった。
 雲ノ平からの合流部に降りて三俣山荘に登り返した。なにしろ荷物が重くて、なかなか山荘に辿り着かないことにじれた。
 くたくたになって三俣のキャンプ場につくと、例によって二人が先にテントを張っていた。
 あの酷暑の夏でもテン場の裏の残雪はしっかりとあったので水場は涸れていなかった。当地は山の上にしては水に恵まれていると思った。
[8/11]
 翌朝も朝から良い天気だった。テントの外に出ると三俣蓮華岳に朝日が当たっている。
 また二人が先に発って行った。今日は鏡平まで下るそうだ。

 自分は午前中に鷲羽を軽装でピストンしてくることにした。
 前年は雲に遮られ視界が効かなかったが、今回は天気が良くて山頂では三百六十度のパノラマの眺望を楽しめた。 

 まず東の方を見れば、西鎌尾根に続く槍ヶ岳、そのすぐ背後には穂高の峰々が連なる。北鎌尾根の向こうには大天井岳や常念岳、そこから表銀座に続く燕岳、餓鬼岳や唐沢岳の山並み。そのやや北寄り手前には野口五郎岳ののへっぺりとした山塊が鎮座して、裏銀座の稜線が手前に向かってくると、赤くザレたところで水晶岳から続く尾根と合流し、目の前のワリモ岳を中継して稜線が足下に繋がる。水晶岳から少し離れた背景から薬師岳が現れるとその手前に雲ノ平が広がっている。その奥には太郎平から北ノ俣岳にかけてのんびりとした穏やかなカーブを描き、その左には前年、雲に隠れてほとんど姿を現さなかった黒部五郎岳をしっかり拝むことができた。なおも南を向けば、目の前にはこれから歩く三俣蓮華岳から双六岳のルートが見下ろせ、その奥には笠ヶ岳がとぼけたように頭を出している。ぐるっとひと回りして戻ってきた西鎌尾根のへこんだところには焼岳が覗いている。これだけの山々を一望できるチャンスはそうあるものではないか。

 眺望を満喫した後、下山してから三俣山荘の食堂で昼食にした。腹が空いていたのでカレーとピラフを食べてしまい食後にコーヒーも飲んだ。
 ふと目の前のテーブルに見覚えのある男性がいるのに気づいた。二月に開聞岳に登ったときに山頂で一緒になったOさんではないかと思い、声をかけたてみたらそうだった。
 自分と同じく双六経由で新穂高に下山するということで、その日はキャップ場に泊まる予定だと言う。自分は食料も残り少なくなっていたので小屋泊まりにしようかと思っていたが、Oさんが「余っている食べ物を分けるからテント泊にしないか」と誘われ、それでは後ほどテン場でお会いしましょうということなった。 
 腰も痛めていたし荷物の重さにも辟易としていたが、三俣蓮華岳に登って尾根通しのルートを歩くことにした。当時は体力があったのでなんとか歩けた。前年は山肌に残雪が多かったが、そのときはところどころに小さくしか残っていなかった。
 短パンで歩いたので、三俣蓮華から先のハイマツが道を覆っているところでは、日焼けした脚に葉が当たってチクチク痛くてしかたなかった。
 ところで、敢えて大変な稜線のルートを選んだのには理由があった。
 雲ノ平周辺は更新準平原とされ高地の割には平坦でのっぺりした地形が多い。特に双六の山頂部は数百メートルにわたって平坦地が続く不思議な風景が広がっていて、是非この目で見ていこうと思っていた。

 双六岳山頂の来ると、目の前には荒涼とした平原のなかに道が続いていた。うまくするとその緩やかに湾曲した平原の上に槍ヶ岳が乗っかって面白く見えると人から聞いていた。

 山頂に着いたときは上空に雲は多かったものの槍ヶ岳は見えていた。けれど、残念ながらその後は雲がかかってしまい平原の上の槍ヶ岳を目にすることはできなかった。けれど、平原の道は人も少なくのんびりと歩け、なかなか乙な趣があった。

 山頂部からの巻道の合流まではザレたところが多くやや足元が悪い。スリップしやすく足腰に負担がかかるので慎重に下っていく。
 十六時少し前に双六のキャンプ場に到着。このときも売店のおでんを食べたように思う。
 キャンプ場でOさんに再開する。夜、酒を飲みながら積もる話に花が咲いた。
[8/12]
 翌朝はOさんと行動を共にした。朝から天気が良くて日が当たると暑い。道が日陰に入るほっとした。弓折の稜線にはまだ花が咲いていて、朝日を浴びてシナノキンバイが黄色く輝いていた。
 前年は鏡平に下る分岐の手前に途中に大きな雪田があったが、そのときはすっかり干上がっていて殺風景な砂地が広がっていた。ここで早速小休止した。
 自分はOさんのペースにはついていけなくなり分岐のあたりで先に行ってもらった。鏡平までの尾根道は重い荷物を辛抱しながら下る。

 鏡平小屋で休憩してかき氷を食べていく。鏡池の逆さ槍はこのときも水面が波立っていて見られなかった。
 小屋を出発して大ノマ乗越の分岐に下ってくる。ここからワサビ平の方を見下ろすと、一時間ほどで登山口まで下れそうな感じがするが、実際は全くそうではない。それにしてもここの下りが長いのにはうんざりする。標高が下がるのに従い気温も上がるし日も高くなって暑い。
 ザックの肩のベルトは出発前に長さを固定するように紐で縫い付けておいたが、それでも肩にザックが食い込むのが苦痛でしかたがなかった。左手に左俣沢を見下ろすあたりに来ると、にわか雨が降った後だったのか足元の岩畳が濡れていた。滑りそうで嫌だなと思っていたら案の定スリップしてひっくり返りそうになる。どうにか持ちこたえたが、そのとき肩のあたりでブツリと音がした。何だろうと思ったら、肩ベルトを縫ってあった紐が切れてしまっていた。
 そうしたときのために紐や縫い針も持って来ていたが、今さら縫い直すのも面倒になり新穂高温泉に下るまでそのままにした。そのため、それでなくでも重いザックがさらに重く感じる。

 ワサビ平小屋に着いたのは、十五時ちょっと過ぎ。コーヒーを飲んで一息ついていく。

 ここまで来れば新穂高温泉まではもうひと頑張りである。今回の山行は荷物が重くて大変だったが、小屋の前からブナ林の中に続く林道を歩き始めると、山とお別れするのがなんとも名残惜しい。
 新穂高温泉のキャンプ場に着いたのはに十六時半くらいだったのではないか。アルプス浴場は閉まっている時間なので、中尾温泉口にある新穂高の湯(無料の露天風呂)に入りに行くことにした。

 現地に着いてみると、夏休みシーズンで近くのオートキャンプ場から多くの家族連れが来ていた。見ると皆水着着用で入っていて温泉プール状態になっていた。これではさすがに入る気になれず、深山荘へ移動することにした。
 深山荘の露天風呂からキャンプ場に戻り晩飯の支度をしているときに例の二人に再開した。彼らはすでにアルプス浴場で汗を流してきていたが、深山荘の露天風呂もなかなか良いから行ってみてはどうかとお勧めしたが、さすがに二度風呂に行くのは面倒だったらしく遠慮していた。
[8/13]

 山行中に行動を共にすることの多かった二人とは、キャンプ場ではゆっくり話をしている暇もなくあっけなく別れたように思う。彼らは「帰りのバスの発車時刻なので」と言って慌ただしくキャンプ場を後にしていった。

 その後、Oさんとも再開したのだが、その辺の記憶がはっきりしない。

 十二時頃の松本行のバスに乗ったが、道が渋滞して定刻よりも二時間半遅れで松本に着いたときは夕方になっていた。

 東京に帰るOさんとはそこで別れた。

 その後は篠ノ井線で特急「しなの」に乗って長野に行き、信越本線で「あさま」を乗り継いで高崎に到着しているようである。

 松本で買った特急券に16:54の販売時刻が印字されているので、それからだと前橋に着いたのは二十一時頃になったのではないか。

 今回の山行では腰を痛めてしまったが、これ以降、膝の痛みに加え腰痛にも悩まされることが多くなった。

 

 なお、この縦走のときからだったか、それまで写真は使い捨てカメラで撮っていたが、二眼レフのカメラを買って持っていくようになった。おかげで、写真に日付を入れられるようになり記録が残るようになった。ただ、その時々の事情により使い捨てカメラも併用している。

(出発日:1994年8月6日、入山日:1994年8月7日、下山日:1994年8月11日、帰宅日:1994年8月13日)

 平成六年の夏も一週間の休暇で前年同様に折立から新穂高まで縦走している。
 一週間近くの縦走なのでいろんな装備を持って行くことになるが、前年の縦走のときはすし詰めザックの中から必要な物を取り出すに手間取ることが多かったことから、もう少しうまい具合にパッキングできないものかと思っていた。
 ある時、タッパーを利用することを思いついた。透明で中に入っている物がわかりやすいのでこれはいいだろうと思った。
 いくつか買ってきたタッパーにカテゴリ分けして詰めてからザックにパッキングしてみた。けれど、タッパーの容器にピッタリ入るものばかりではないので中に隙間が多くなるし、タッパー自体もザックにピタリと収まるわけでもない。そこに「いざという時にあったら便利だろう」と、大して用もないものを詰め込んだものだからどんどん荷物が大きくなってしまった。
 当時使っていたIBS石井のザックは細長い形状で百リットル以上入ったが、上に伸ばして容量を増やしたので結構な高さになった。背負うと雨蓋が自分の頭の上の三十センチくらいのところにあった。
 ザックの中にデッドスペースが多かったため詰め切れないものも多かったが、整理する時間も無くなりとりあえず手提げ袋に詰め込んで見切り出発した。

[8/6] 
 その時は高崎を午前〇時半頃発車する寝台特急「北陸」に乗り富山に向かうことにしていた。
 当時は前橋の寮に住んでいたが、そこからどうやって高崎に移動しただろうか。終電は二十三時過ぎなので一時間くらい高崎で待ったか、寮の近くでタクシーを拾っていったかのどちらかだろう。
 夜でも気温があまり下がらず、蒸し暑いホームで列車の到着を待っていたことを覚えている。夜半を過ぎてもときおり上野からの普通列車が到着していた。

[8/7]
 そのときはB個室寝台『ソロ』を利用した。この列車はシャワールームのある車両を連結していた。前日は出発間際まで準備していて風呂に入っていられなかった。朝、車掌からカードを購入して利用した。五分で五百円だったと思う。
 富山には翌朝五時半頃に到着。前年の縦走のときは駅前で折立行のバス乗り場がわからず右往左往したが、このときはすぐにたどり着けた。切符はバスに乗り込んでからバイトの男子学生から買った。六時頃、富山駅前を発車した。

 前夜も睡眠が十分というわけではなかったので、登山に備えてバスの中で少しでも休んでおこうと思ったがまるで眠れなかった。途中のドライブインで休憩したことを覚えている。朝から天気は良かった。
 八時頃に折立に着く。バス停の脇に置いてあった上皿計り(重量計)で荷物の重さを計ってみた。ザックが二十八キロで手荷物が五キロの合計三十三キロもあった。前年よりさらに重くなっている。
 前述のとおり容量が無駄に大きくなって、元々縦長のザックがさらに上に伸びてまるで摩天楼のようだと思った。
 そんなわけで取りつきの上りでは前年以上に足がふらついて、これはさすがにまずいと不安になる。それでも昨夏一度歩き通した経験から、まずは歩いてみてから考えることにしようと思った。
 序盤の急坂の先の薬師岳が良く見える休憩ポイントで一服していると後から男性二人組がやって来た。九州から夜行バスで富山に着いたと言う。折立からは自分よりも後から入山したようだが、こちらが荷物が重すぎでのろのろ歩いていたため追い抜かれた。
 昨年同様、有峰湖を見下ろせる坂道の途中で昼飯にした。前回は冷えたおにぎりで寒い思いをしたのでパンにしたはずだ。
 尾根に上がると道は平坦になり、上空に雲が広がって日差しが遮られたので少しは楽になった。
 どうにか一日目の登りをこなして太郎平に着き、さきほどの二人に再開した。二人(IさんとKさん)は福岡に住んでいると言っていた。自分も彼らのテントのそばに設営した。
 この山行の間は全般に天候が良くて、夜中にテントから顔を出すと満点の星空が広がっていることもあったのではないかと思う。

[8/8]
 二日目の朝は六時頃に目が覚めた。天気は良かった。
 隣の二人はもうとっくに起きていて朝食と撤収を済ませると自分より一足先に出発していった。
 自分は相変わらずのスロースターターで、小屋の前を出発したのは八時頃になっていたと思う。薬師沢小屋に下ったが、荷物が重くてなかなかペースが上がらない。
 昼頃に薬師沢小屋に着いたとき、先に行っていた二人はすでに昼飯を済ませていて高天原に向けて出発するところだった。
 前年はそこから高天原温泉に行こうとしたものの、黒部川の水量が多くて高巻が多いと聞いて雲ノ平に上がることにした。この年は冷夏だった前年とは打って変わって猛暑と大渇水の夏だった。特に西日本では水不足が深刻で連日ニュースで四国の早明浦ダムの貯水率のことを報じていた。黒部川の水量も少な目で高巻も無いとのことだったので、二人の後から高天原温泉に向かった。この時はずっと河原沿いに歩けた。しかし、実際にはただの河原で道らしくなってないところも多く、大きな岩がごろごろしていてそんなに歩きやすいわけではなかった。
 途中で岩の間を渡していた丸太のところに大便がしてあったのには閉口した。よりによってこんなところでと思う。獣(クマ?)の仕業なのだろうが人糞のようにも見えなくもない。まさか普通の神経の人間には何が何でもあんなところではできないと思うが。
 最初は晴れていた空が次第に曇ってきた。沢沿いから高天原峠の方に上がる急な登りにあえいでいるとあたりが薄暗くなって小雨がちらちら降ってきた。そのうち本降りになり雷の音が近づいてきて不安になる。

 レインウェアは蒸れて暑いので上半身だけ着ることにした。雨は一時土砂降りになったが、さいわい雷はそれほど近づいてこなかった。
 すでに十六時くらいになっていたか。そのうち小降りになったが、途中で三か所ほど渡った沢はどれも増水していて、水の中をジャボジャボ歩くようだった。一つ目か二つ目の沢の先であの二人が歩いているのが見えた。やっと追いついたと思ったが、最後の沢は対岸を上がったすぐのところを大きな倒木が塞いでいた。ザックを担いだままではとても乗り越えられそうになく、これはどうしたものかと思った。
 そのため、先にザックだけ倒木の上に押し上げて、その後からよじ登ってなんとか乗り越えたが、それだけで時間をロスした。
 その先の樹林の中には蚊が多かった。こちらにたかったてくるが、なぜか動きがスローモーで大抵は手で叩き潰せた。いつもなら忌々しい存在だが、ここの蚊は「そんなことでどうするんだ」とこちらが心配するようなのんびりさだった。
 雨は上がったが、もう夕暮れ時であたりがだんだん薄暗くなってきた。峠の最後の登りで足を踏ん張ったら腰に鋭い痛みが走った。ギックリ腰のようだった。下半身はレインウェアを穿かずにいたのでびしょ濡れで、気温も下がって冷やした腰に負担がかかっていたのが良くなかった。
 こんなところで身動きできなくなるわけにはいかない。幸い歩けないほどはひどくはなかったので、痛みが出ないようにおっかなびっくりで歩いた。
 峠のピークに着いたのは十八時過ぎだった。樹林の中でかなり暗かった。その先も足元がかなりぬかるんでいるうえに暗くてよく見えない。足を滑らせて何度か転んだ。ついた手が泥だらけになり、なんてひどいことになったものだ惨めな気分になる。
 この分では高天原山荘に着くのは二十時頃になりそうだったので、小屋泊まりは諦めてビバークしようと思う。山荘の手前の沢まで下ればテントの張れそうな平坦地があったはずだと思い、そこまで頑張って行こうと真っ暗になった坂を必死で歩いた。ようやく沢のあたりまで下ってきたところで、暗がりの中に灯りが見えた。
 「なんだろう」と近づいていくと、沢にかかる木橋の先に誰かがいた。・・・例の二人だった。
 彼らも山荘に行くのを諦めて沢岸でビバークしていた。 
  これにはほっとしたし、一緒にビバークする人がいて本当に心強かった。

[8/9]

 翌朝、目が覚めてテントから顔を出すと、空は晴れていた。

 一緒にビバークした二人と河原で朝食をとった。ときおり登山者が通りかかると、Iさんがやむなくビバークとなったことの言い訳をしている。
 その後でテントを撤収して山荘に向かう。途中の沢ではイワナを釣っている登山者がいた。前年はニッコウキスゲの咲いていた湿原には花は見られなかった。

 朝のうちに高天原山荘に着いた。その日は彼らと一緒に山荘に泊まることにしてのんびり過ごした。

 午前中に露天風呂に行ってみるが、山荘の管理人がなにやら作業をしている。昨日の雨で源泉に土砂が流れ込んだのを取り除いているので今は入れないと言われ、仕方なく山荘に引き返した。

 昨日、雨で濡れたレインウェアやザックカバーなどをベランダに干した。

 お昼時になり自炊の支度を始める。IさんとKさんはスパゲッティにして、用意してきた食材をいろいろ出してどの具にしようか楽しそうに選んでいた。それに引き替え自分は、余計な装備ばかり詰め込み食料は簡素化したため、毎度の食事はフリーズドライの食材が中心で味気ないものだった。
 「この次に山に行くときにはもう少し楽しく自炊できるようにいろいろ食べ物を持っていこう」としみじみ思った。
 午後、二人は再び露天風呂に行ったが、自分は眠かったので昼寝していた。

 十六時頃に起きて露天風呂に向かうと、途中で風呂からの帰りの二人とすれ違った。露天風呂にはすでに七、八人ほど入っていたが、雨が降り出し遠雷もしてきたので皆風呂を上がってしまった。

 雨は大した降りにならずにすぐに止んでしまった。風呂上がりに龍晶池のある夢ノ平に行ってみた。ガイドブックには美しい湿原のように書かれていたが、例年に比べ気温が高めだったため、花はほとんど終わってしまっていて期待外れだった。
 それと、やたら蚊が多いのには閉口した。なのに、そんなところに一つテントが張られていた。幕営はできないはずだが、それよりこんな蚊だらけのところによく泊まる気になるものだと呆れた。
 山荘に帰って来て水晶の稜線を見上げると雲がかかっていた。夕方か夜になって雷が光っていたような気もする。
 晩飯のあと山荘の談話室で他の登山者たちとおしゃべりをしていた。まだ消灯前だったが管理人にうるさいと注意されすごすごと寝床に引き上げた。

(2)につづく