(出発~帰宅日:1994年11月頃)

 荒船山とはよく言ったものである。
 遠くから眺めると、荒海の中に浮かぶ巨大なタンカーを思わせるような山容である。
 実家のある桐生からだと距離的にちょっと離れているが、それでも西の遠くの山並みの中に平坦な山頂部の特異なシルエットを認めることができる。
 西上州の山々は標高もそれほど高いわけでもなく、荒々し岩峰の連なる妙義山を除けば地味な山が多いが、一方ではこの山域を愛好する登山者も少なくないという。
 前橋に住んでいた時は比較的アクセスもよかったのに、北アルプスや南アルプスなどの三千メートル級の高山にばかり目が向いていたので後回しにしていた。
 当時は営業車で外回りをしていたが、車窓からこの山を目にすることも多く、いずれ登ってみたいと思っていた。
 ある時、思い立って登りに行くことにした。前橋にいた平成六年か七年の十一月頃だったのではないかと思うが、そのときのアルバムなどが見つかっていないのでいつのことか確定できない。平成七年は翌年一月の演奏会に急に参加することになって、その練習で山歩きどころではなかったはずなので、おそらく平成六年だったのではないか。
 高崎から初めて上信電鉄に乗った。子供の頃は、同じ県内とはいえ西毛地域には全く用が無かったので乗る機会も無かった。
 終点の下仁田で下車してバスに乗った。記憶では相沢という集落に登山口があったが、ネットで検索するとそこにはバス停は無さげである。最寄りのバス停で降りてから相沢まで車道を歩いていったのだろうが、そうしたことはまるで覚えていない。
 土曜日に登りに行ったように思うが、そのときは周りに登山者らしき姿は見かけなかった気がする。
 天気は悪くは無かったが、日差しが頼りなく寒かった。
 登山口のあたりに来ると荒船山の切り立った崖が望めた。

  車道の脇から登山道に入る。最初のうちは畑のあぜ道のようだったと思う。そのうち樹林の中に入る。次第に勾配がきつくなり、艫岩の直下はかなり急な斜面の道だった。まだこのあたりには雪はなかったように思う。
 艫岩の展望台にたどり着く。薄雲がかかっていてスッキリ晴れてはいなかった。
 柵の向こうは崖ですっぱり垂直に切れ落ちている。この数年後にクレヨンしんちゃんの作者がこの付近で転落死している。持っていたカメラには崖の真下を撮った写真があったという。撮影の際に身を乗り出し過ぎたのか。
 そこから山頂のあるピークまではほぼ平坦な道が続くが、このあたりには積雪があった。
 山頂をピストンしたが木立の中で展望はあまり良くなかった気がする。そこから星尾峠を通って荒船不動に下った。
 その先の集落に下りてきてさらに進むと目の前に内山大橋が現れた。橋をくぐってしばらく歩いていった先にバス停があった。
 なんというバス停だったろう。初谷温泉の入口あたりだったかもしれない。他にもバスを待っているひとがいたように思う。日が暮れてあたりはうす暗くなり始めていた。
 中込駅行きのバスに乗る。駅の近くまで来た時、建物の間から群青色の夕空をバックにぼんやりと白い山が見えた。おそらく浅間山だったのではないか。
 駅に着く頃には辺りはかなり暗くなっていた。
 そこから小諸に出て信越線に乗って帰った。

(出発~帰宅日:1994年11月12日)

 平成六年の十一月に日帰りで谷川岳に登りに行っている。
 朝、前橋を出て上越線で水上に行き、そこからバスで谷川岳ロープウェイの土合口へ移動しゴンドラで天神平に上がって十時くらいには歩き始めているのではないか。
 すっきり晴れ上がり風の穏やかな小春日和だった。紅葉はとっくに終わっていて、ゲレンデの下草は枯れて山肌の木々の葉もだいたい散っていた。
 熊穴沢避難小屋を過ぎると急な登りが続く。途中で一息ついて振り返ると、目の前に上越国境の山並みが連なっている。入り組んだ尾根に日が差し込んで、山肌の陰影が面白いコントラストを作り出していた。ことに、真横から見る俎嵓の鋭角の稜線とそこからオジカ沢の頭に続くゆったりとしたカーブが印象的だった。
 肩ノ小屋を過ぎてトマの耳に上がるところで、日陰の斜面にところどころ雪が付いていた。登山道にはまだ積雪は無かったが、山の上には一足早く冬が近づいていることを感じた。
 トマの耳に着いたのは十三時過ぎくらいだったろうか。天気が良かったので山頂には登山者が何人もいた。
 記念写真を撮ってもらっていたが、それを見ると冬靴を履いていた。十一月なので雪があるかもしれないと考えたのだろう。
 アイゼンやピッケルも持って行っていたのだろうか。積雪期は日帰りでもテント泊の荷物を担いでいったが、このときはさすがにそこまでしてなかったと思う。
 十六時でゴンドラの運転が終了するので、そんなにのんびりはしていられなかったように思う。オキの耳に寄って行く時間も無かったようだ。
 山頂から下る途中で肩ノ小屋の中を覗いていく。意外にきれいだった。その日も泊っていく登山者がいて、奥の方にシュラフや自炊道具などを広げていた。
 この頃はまだ無人小屋だったが、これなら十分泊まれそうだと思った。
 その後、ニ〇〇三年に管理人が入るようになって、五月から十一月の間は通常の山小屋として営業しているようである。
 自分が谷川岳に登っていた頃は避難小屋(四角錐の屋根の建物)しかなかったが、ネットで現在の建物を確認すると、有人管理化にともない増築されているようだ。
 この山行の後も谷川谷には登っているが、結局肩ノ小屋には泊まっていない。
 遭難者の多い山なので、怪談めいた噂を山小屋で一緒になった登山者から聞いたりすることがあった。それで二の足を踏んていたというのもあった。来てみたら泊まるのは自分一人だったというのはやっぱり避けたい。あとは水場が近くに無いのも大きなネックだったか。
 下山をしていると西日が正面から当たって眩しかった。肩ノ小屋から少し下った急斜面の道では両脇のササ原が日の光を反射して白く輝いていた。
 山並みの向こうに日が沈むと、あたりが薄く暗くなってくる。ゴンドラの終了時刻を気にしながら足早に登山道を下った。
 ゴンドラで土合口に下りてから、そこでバスには乗らずに上越線の土合駅まで歩いて電車で帰っている。元々本数が少ないのでなかなか乗る機会が無かったが、このときはちょうど発車時刻のタイミングで駅に行けたようだ。
 土合の下り線ホームは地下にある「もぐら駅」だが、上り線のホームは地上にあるので改札を出ると通路を歩いてすぐホームに出られる。無人駅なので乗車してから車内精算することになる。
 また、上り線は「ループで名高い清水トンネル」(と上毛カルタで詠われる)を電車が通っていくことになる。(後記の補足1)

 どんなもんだろうと期待したが、外から見ればループしていても、電車に乗っているとトンネルを通過するだけのことで、外も暗くなっていたので景色も見えずそれほど面白いわけでも無かった。 
 この頃買ったばかりのレーガーの無伴奏ヴァイオリンソナタ集のCDを持っていって、山行中にも聴いていた。以前はカセットテープにダビングして音楽を聴いていたが、この頃はCDプレーヤーを持って行くようになっていた。難渋な響きが多いこの作曲家の作品の中にあって 調性感が明瞭で簡潔な構成なため比較的聴きやすい作品だと思う。
 特にイ長調のソナタの響きが秋の空によくマッチしていて、この曲を聴くとこの山行のことが思い浮かぶ。

 

(補足1)

 今さら地形図を見て知ったが、かの清水トンネルは実はループしていない。

 また、この名称のトンネルは土合の新潟方面側にある。なので谷川岳の帰りに通ることもなかった。

 群馬側には第一から第四までの湯檜曽トンネルがあり、そのうちの第一と第二がループ状になっている。新潟側も清水トンネルを一旦出て土樽を過ぎた先の松川トンネルがループトンネルとなっている。(カルタの裏面に説明があったかもしれないが、子供の頃はいちいち読んでいなかった)

 正しくは「ループで名高い」のは(第一・二)湯檜曽トンネル(と松川トンネル)だったのだろうが、前後のトンネルをひっくるめて清水トンネルと呼ぶのが慣習化していたのだろう。

 

(補足2)

 この山行に関しては下山時はゴンドラに乗らずに谷川温泉へ歩いて下ったようにずっと思い込んでいた。 

 ところが、アルバムはゴンドラの中から下の沢を撮っている写真で終わっていた。ということは、谷川温泉に下ったのはこの時ではない。
 では、いつのことだったか?
 たしか、天神平から下って行く途中でシカの鳴き声を聞いた記憶がある。あたりは草木が枯れかけていたので、同じ頃にもう一度行っているのかもしれない。
 もしかすると、もともと谷川岳に登った後で寄って行くつもりが、時間が遅くなってしまったので、後日改めてゴンドラで天神平まで上ってから、温泉に歩いて下ったのかもしれない。
 そんなわけで記憶が定かではないが、保登野沢沿いに下っていきペンションのような建物の脇の草地に出たことは覚えている。
 改めて地図を確認するとそこはスキー場のゲレンデになっていた。
 温泉に入ったことはあまり覚えていない。水上駅までは路線バスも無かったのでタクシーを呼んで帰っている。

(出発~帰宅日:1994年11月上旬頃?)

 前橋に住んでいた頃は八ヶ岳へのアクセスが良くなかったので、そっち方面には行っていないと思い込んでいたが、実はそうではないようである。    
 先日久しぶりに取り出したアルバムを見たら、行者小屋に新しく買ったテントで泊ったときのもので、後ろの方に乗車券などが挟んであった。
 茅野から長野経由の高崎までの帰りの切符で、日付も前橋にいた時期だった。

(と、ここまで書いておいて、後日改めてアルバムを確認しようとすると見当たらない。いったいどこに置いてしまったのか。切符の日付も覚えていなかったので、とりあえず不明のままアップしている)

 いつも単独行だったが、使っていたテント(一~二人用)が手狭に感じていたのと、そのうち誰かと一緒に登りに行くこともあるだろうとひと回り大きいのを買うことにした。
 それまで使っていたのと同じICI石井のゴアライトで、一回り大きい二~三人用のスタードームテントを新調した。
 早速使ってみることにしたが、さてどこに行って張ろうかということになり、結局、以前利用したことのある行者小屋のテン場にしたのだろう。
 茅野にはJRの長野廻りか新宿廻りのいずれかで移動することにいなるが、前者は一度も使った記憶が無いのでおそらく後者だったはずだ。
 往きの切符が残っていないが、このときは美濃戸口を午後に歩き始めていたように記憶しているので、早朝に前橋を出発して新宿から午前中の特急「あずさ」か「かいじ」に乗ったのではなないかと思う。
 テントがやや大きくなったが六十五リットルのザックで済ませていた。アイゼンやピッケルは詰め込めただろうか。雪山の装備を持って行くには微妙な時期だったし、そのときは美濃戸口から行者小屋までの間にまだ雪はほとんど無かった。

 行者小屋に着いたときには風は無かったが日差しも無く寒かったことを覚えている。

 テン場に雪は全く積もっておらず、おニューのテントを泥で汚したくなかったので、ブルーシートを敷いた上に設営することにしたように思う。店で教わったように組み立ててみる。テントに通す支柱のポールが一本増えた分、やや手間が増えたが問題無く設営できた。
 テント内の空間が広がったため居住性は良くなった。なにより頭がつかえるストレスが無いのがよかった。前室もあるので雨や雪に降られても靴の着脱もしやすいしコンロを置いて使うこともできる。 
 設営したテントの前で写真を撮ってもらったが、それ見ると二足目の冬靴を履いていた。それまで履いていたプラスチックブーツについては破損事故の報告もあり、本格的な雪山シーズンになる前に買い替えることにしたようである。
 この靴は池袋にあった秀山荘までわざわざ買いに行っている。夏靴よりは重いが、プラスチックブーツに比べたら思いのほか歩きやすくなった。
 翌朝赤岳に登れたらいいなとは思っていたが、結局、早起きできずに行者小屋から引き返している。
 帰りは前述のとおり長野廻りにしている。松本に出てから特急「しなの」で篠ノ井か長野で行き、そこから特急「あさま」で高崎に帰ってきたようだ。

 新しいテントはいろいろ使い勝手も良かったが、なにぶん荷物としては大きく重くなったこともあり、単独行の山行では敢えて持っていく必要も無かったので、その後も出番は限られた。