今でこそ写真はスマホで撮るのが当たり前で、カメラを持ち歩く人をあまり見かけなくなってしまったが、一昔前までは行楽やイベントにカメラを持っていくというのはごく普通のことだった。
 三十年以上前、社会人になりたての頃の自分はまだカメラを持っていなかった。因みに、ここでいう「カメラ」とはデジタルカメラではなくフィルムカメラのことである。
 当時は写真を撮ることにそれほど興味が無かったし、どこかに出かけたときもカメラを持っている人に撮ってもらって済ませていた。
 しかし、その後始めた山歩きはもっぱら単独行だったので、写真を撮ろうと思ったら自分でカメラを用意する必要がある。
 ただ、そのためにカメラを買おうとは思わず、さしあたっては、当時普及していた「写ルンです」などの使い捨てカメラで済ませることにした。
 使い捨てカメラ(なんでも「レンズ付きフィルム」というのが正式名称だそうであるが、ここでは使い捨てカメラで統一する)は、基本的にレンズとシャッターとフィルムでだけの簡易な構造である。
 それに、だいたいはストロボが付いていたように思う。一部ストロボのないものもあったかもしれないが、山に行くときはもっぱらストロボ付きのものを買っていた。
 そんな単純なものでも、日中に風景や人物を撮影したものをL判にプリントするくらいなら、そこそこの出来栄えにはなった。
 横長のパノラマ写真を撮ることのできるタイプもあって、当初は物珍しさからよくパノラマで撮影した。天候に恵まれたときには山頂からの三百六十度の眺望をぐるっとひと回りして撮ったりすることもあった。
 けれど、パノラマのときは一コマのフィルムの上下を狭めて横長に使用することになり、プリントする際にはそれをL判を横に二枚並べたくらいのサイズに引き伸ばすので画質の甘さが非常に目立ってしまった。
 それでも最初のうちは手軽さを優先していたので大して気にはしていなかったが、山歩きで何度か使用するうち、次第にその出来栄えに満足できなくなってくる。

(2)に続く

(出発日:1995年11月2日、入山日:1995年11月3日、下山日:1995年11月4日、帰宅日:1995年11月5日)

 前月に前穂高岳に登って吊尾根に連なる奥穂高岳を眺めたとき、今度はここに登ってみたいと思ったのかもしれない。

 ただ、週末に前夜発・山中一泊で登るのは日程的にキツキツで、余裕を見て三連休は欲しかった。上高地の秋のシーズンが終わる十一月の文化の日が三連休になることもあり、そこで奥穂高岳に登ってみようと涸沢に入ることにした。
 前月と同様に新宿廻りで松本に移動していると思う。
 松本電鉄の新島々で行き、そこからバスに乗っていると思われる。

 この山行についてはメモ帳に入山してからのコースタイムも記録されていたが、前橋から沢渡上までの記載は無かった。(以下、青字はメモ帳からの引用、左は到着時刻、右は出発時刻)
>11/3

 沢渡上~タクシー~中の湯
 中の湯 6:00

 メモ帳に書かれていないしその時の状況も覚えていないが、バスが沢渡上止まりとなっていて、そこからタクシーに乗って中ノ湯で降りている。釜トンネルから先には車両は進入できなくなっていたようである。(積雪や路面の凍結が原因か?)中ノ湯から歩いて上高地に入ることになるが旧釜トンネルを歩いたことなどは記憶にない。この時のアルバムが見当たらず、以下はメモ帳の記載をたよりに書いている。
>上高地バスターミナル  7:50  8:55
 バスターミナルに併設されていた売店のあたりで朝食を食べていったか。
 歩き始めの樹林の中の道には薄っすら雪が積もっていたような記憶がある。
>明神館  9:45  9:55
>徳澤園 10:45 11:05
>横尾   12:00 13:10
>本谷橋  14:20 14:25

 本谷橋まで歩いてきたことについてはほとんど思い出せない。
 橋のあたりは積雪がかなりあったよう思う。この時刻にしては暗かった記憶があり、雪も降っていたかもしれない。
>休憩  15:15 15:25
>休憩  16:10 16:15
>涸沢ヒュッテ 16:25 16:30
  
 夕方、あたりがうす暗くなった頃に涸沢に着いた。カールにはだいぶ積雪があった。
 涸沢ヒュッテに立ち寄ってみると、玄関のあたりにこれから中に入ろうとしている登山者が何人もいて混んでそうだった。それで少し先にあった涸沢小屋の方に泊まることにした。
>涸沢小屋 16:45~50 
 到着は遅かったが、こちらはそんなに混んではいなかった。小屋の若いスタッフが寝る場所を案内してくれて布団を準備している光景をなんとなく覚えている。小屋の夕食を食べた記憶が無いので自炊したかもしれない。
>11/4 
 涸沢小屋  8:10 11:10

 翌日、雪は小降りか止んでいたか。奥穂に登ろうかどうか迷っていると、小屋の人に「積雪も多いし無理はしない方がいい、山は逃げないからまたにしなさい」と諭された。心残りだったが今回は諦めることにした。
 ただ、雪質がどんなものか今後の参考にカールの中を途中まで歩いてきた。
>涸沢小屋 12:00(?) 時刻は後から記憶で書いたもののよう
 小屋に戻って昼飯を食べてから下山を開始したようである。
>涸沢ヒュッテ 12:10 12:20(?) アイゼン
 ここでアイゼンを付けていったか。
>本谷橋 13:25 13:35
 本谷橋を渡った先の樹林の中をしばらく下ったところでは日が差していたように思う。
>徳澤園 15:35 15:50
 横尾から先は再び曇って肌寒かったように思う。ここまでくればいいだろうと徳澤園で缶ビールを買って飲んだ。ほろ酔い気味で気分がよくなった。シューマンのオケ伴奏つき歌曲(「王子と小姓」など)のCDを聴きながら歩いたことを思い出す。
>明神館 16:35 16:45
>小梨平 17:25

 夕方、小梨平に着く。管理事務所に行って手続きをする。キャンプ場内に風呂があって、時間制で男女交代で利用できた。お湯はちょっと熱めだったが冷えた身体がよく温まった。
>11/5 
 起床   7:00

 このときは珍しく下山から高崎に移動するまでの記録も残っていた。ただ、その時の記憶はまるで無いのだが。
>小梨平  -:-  9:10
>上高地バスターミナル  9:25  9:30→バス→10:40

 帰りはバスが運行されていたようである。
>新島々 10:40 11:03
>松本  11:35(?) 11:37

 篠ノ井線の列車との接続時間が短く、急いでホームを移動したようである。
>長野  12:40 13:11

 長野から特急「あさま」に乗っているはずである。
>高崎  14:57 

 

 この山行以降、翌年の演奏会に参加することになったり、職場のことなどいろいろあって半年ほど山に行っていない。

(出発日:1995年10月6日、入山日:1995年10月7日、下山~帰宅日:1995年10月8日)

 上高地を登山口にして何度か登りに行っていたが、そういえば穂高も西穂にしか登っていなかった。奥穂はアプローチが長いのでなかなか登る機会が無いし・・・。ある時、地図を見ながら岳沢から前穂だったら一泊二日で登れるだろうと思い行くことにしたように思う。
 この山行については、後日出て来たメモ帳に以下の記述があった。(以下、青字はメモ帳の引用箇所)
>前夜までほとんど何の支度もせず、今日帰ってからばたばたとパッキングを始めた。当初の予定では前橋から二十時半の列車に乗って、新宿には二十二時半頃に着くつもりが、出発が遅れて二十三時半になる。「アルプス」はすでに入線しており、登山客を中心に列車はもう満席。比較的空いていた指定席(車両)のデッキに腰をおろす。
 とうことは、わざわざ前橋から新宿に移動して急行「アルプス」に乗ったことになる。
 その年の三月には地下鉄サリン事件があり、松本で駅カンができなくなっていた。(五月にそのことを知らずに行ってしまい駅を閉め出されている)当時の職場は仕事が終わるのが比較的早かったので、帰宅してから準備をして新宿を経由していくことも可能だったようだ。
 信越線と篠ノ井線を乗り継いで松本で駅カンするよりも、新宿から電車に乗っていく方が一時間ほど長く車内で休むことはできる。けれど、座席ではよく眠れないことが多いし、ときには新宿で座れないということもあるので、駅カンして横になる方が短時間でも身体は休まるかもしれない。

 このときは途中の甲府あたりで降車があり、どうにか座れたのではないか。
 その後の上高地までの記憶は無いが、いつものとおり松本電鉄の四時台の初電に乗り、新島々からバスで上高地には六時過ぎに着くパターンだったと思う。
 また、メモ帳にはその日のコースタイムが記録されていた。(以下の青字が引用箇所 左:到着時刻、右:出発時刻)
>上高地  6:25 7:30
 ?    8:10 8:15
(途中で小休止)
 ガレ場  8:45 9:00
 弁当休憩 9:30 9:50
 いねむり 10:? ?

 上高地から岳沢に上がるところは紅葉で樹々が色づいていてきれいだった。
 「いねむり」については、夜行列車の移動で睡眠不足のため歩いているうちに眠くなってしまい、登山道脇の石に腰を下ろしてひと眠りしたことを思い出す。
>岳沢ヒュッテ 11:00
 岳沢には昼前には着いてテン場で設営して昼飯を食べた。
 その時は雲行きが怪しく、そのうち雨も降り出してきたので様子見のつもりでテントで昼寝していた。
>テン場 -:- 13:05
 予想外の悪天候に「今日は登らずじまいか」と諦めかけていたが、目を覚ますと外がやけに明るい。いつも間にか晴れていた。すでに昼過ぎだったので慌ててテントを出て重太郎新道を登り始めた。
 ここも地図上の水平距離こそ長くはないが、前穂高岳の山頂までの標高差九百メートルを一気に登るキツいルートだ。しかもほとんど岩場の連続である。時間が遅かったので登っているのは自分だけだったが、前に人がいればその靴裏を見ながら登るような感じだ。それでも軽装だったので、ぐんぐんと高度を上げていった。
 紀美子平から先はさらに険しい岩場となり、鎖場が何か所か現れて緊張する。
 山頂に着いたのは十六時頃だった。そんな時刻だったがたまたま居合わせた人がいて写真を撮ってもらっている。その人は吊尾根から奥穂に行くと言っていた。 
 日も暮れてきたのでのんびりしていられない。周囲の眺望をゆっくり楽しんでいるわけにはいかず、慌ただしく登って来た道を戻る。

 紀美子平で下から丸刈りの青年が登ってきた。これから山頂に向かうらしい。岳沢でテントを張っているというので下山してきたら再開できるかなと思う。
 やや急ぎ足で下るが、だんだんあたりが暗くなってくる。奥穂の方に目をやると、山のシルエットの向こうの雲がピンク色に染まっているのが印象的だった。
 足元もだいぶ暗くなってくる。よりによってヘッドランプを持ち合わせていなかった。慌てて出て来たのでテントに置いてきてしまっていた。
 真っ暗になる前にテントに着かなければと気持ちは焦るが、険しい岩場なのでそんなに急ぐこともできない。
 そのときは月明りもなかった。これはやばいことになったと思うが、そのうち暗さに目が慣れてきて足元もどうにか確認できた。敷詰められている石が暗がりの中でなぜか白っぽく見えて形がよくわかったので足が進めやすかった。

 それに、なにより石がぜんぜんぐらつかないのでそんなに怖くないのだ。登山道がしっかり整備されていることを本当にありがたく思った。これならヘッドランプが無くても大丈夫かも・・・。
 結局、こんな状況にもかかわらず躓いたり転倒することもなく無事下山できた。
>テン場 18:30
 テントに戻ってきたときにはあたりは真っ暗だったが、山の向こうから満月近い月が昇ってきたように思う。
 晩飯の作って食べる。食後だったか岳沢小屋の中を覗く。ランプの灯りが小屋の中をオレンジ色に照らしていて宿泊者がたくさんいた。
 翌朝起きると空は曇っていた。近くに赤いテントがあって入り口は閉まっていた。
 前日登り始める時には無かった気がするので、もしかしたら昨日紀美子平で会った青年のものかもしれない。けれど自分が撤収を終わっても中から人が出てくる様子は無かった。下山が遅かったのでまた寝ているのか、別の登山者のものか。丸刈りの青年と再会することはなかった。
 下山を始めるが、途中で雨に降られた。上高地の近くまで下りてくると見覚えがあるグループが前を歩いていた。前月に鏡平で同宿だった写真を撮りにきていたグループだった。あのときと同じようにわいわいがやがや楽しそうに歩いていた。その雰囲気に入り込めそうになかったので声はかけずに追い抜いていく。
 昼前には上高地に着いていたと思う。その頃には雨は上がっていたかもしれない。