金融政策をサイエンス化する日銀法改正が必要だ(高橋洋一氏)
秘書です。
制御不能にならないようにするにはインフレ目標という枠をはめればよいだけだ
→たしかに「際限ない国債買い入れは制御不能なインフレを招く」って、定量的にはどれだけのことを意味しているのでしょうね?
金融政策をサイエンス化する日銀法改正が必要だ
→検証可能な世界に金融政策を戻しましょう。
結果責任を負わない人の総合判断に任せてはいけません。総合判断とは白紙委任であり、結果責任追求のための検証からの免責を意味しています。
日銀総裁「金融政策はアート」の噴飯
2012.04.26 ZAKZAK 高橋洋一氏
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20120426/plt1204260724001-n1.htm
白川方明日銀総裁は米ワシントンで開かれた20カ国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議などに出席したが、訪問先でいろいろ講演を行った。
2月14日に日銀が行った金融緩和の「本気度」が疑われているので、金融緩和の姿勢を強調して市場の期待を維持したいようだ。しかし、言葉の端々には、どこか金融緩和に全面的には賛成しないという本音がうかがえる。
18日のニューヨークでの講演では、「金融政策はアート」とも言っている。この言葉は、先日亡くなった三重野康元日銀総裁が好んでいた言葉だ。その真意は「適時適切、総合判断」というもので、アートを「芸術」や「職人芸」ととらえている。それでも結果がよければ問題ないが、24日の本コラムで明らかにしたように、判断に誤りがあった。
金融政策はアートかサイエンスかというと問いかけは欧米でもしばしば見られる。その場合、アートは人文科学、サイエンスは自然科学と定義されている。ブランシャールIMF(国際通貨基金)チーフエコノミストが「インフレ目標による金融政策は前に比べればサイエンスに近づいている」と指摘するように、世界中でアートからサイエンスへの流れがある。
しかし、あえて白川総裁は、「サイエンスというよりアートであり続けるだろう」と述べた。これはかなり違和感のある言葉だろう。グリーンスパン前FRB(米連邦準備制度理事会)議長はアートの政策が強かったが、バーナンキ現FRB議長はインフレ目標を唱えるなどサイエンス化に努力している。
そして、その結果も、リーマン・ショック後の米国を大恐慌に陥る危機から救った。一方、日本はリーマン・ショック後も東日本大震災後も適切な金融政策を行わず、デフレからまだ脱していない。そこでアートといわれると、やはりと思ってしまう。
19日のワシントンの講演では、日本の問題として、潜在成長率の低下傾向をあげ、その要因は高齢化、人口動態としている。つまり、日銀ではどうにもできないと言いたいわけだ。
白川総裁は2月14日、「日本の場合、潜在的な成長率と長期的な予想インフレ率との間に非常に高い相関関係があります」と言っているが、これを取り消したいのだろう。
というのは、マネタリーベースの増減とインフレ予想の変動には相関がある。マネタリーベースは日銀が動かせるので、潜在成長率も日銀が左右できることになってしまう。それは責任回避の日銀として不都合なのだ。
4月21日には、「際限ない国債買い入れは制御不能なインフレを招く」とも言った。金融政策をサイエンスとして理解していれば、どの程度国債買入をすればインフレがどうなるかは、精密科学レベルではないがある程度説明できる。制御不能にならないようにするにはインフレ目標という枠をはめればよいだけだ。
やはり白川総裁にとって金融政策はアートなのだ。アートは凡人にはできないが、サイエンスだから凡人でも何とかやっていける。金融政策をサイエンス化する日銀法改正が必要だ。(元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一)
制御不能にならないようにするにはインフレ目標という枠をはめればよいだけだ
→たしかに「際限ない国債買い入れは制御不能なインフレを招く」って、定量的にはどれだけのことを意味しているのでしょうね?
金融政策をサイエンス化する日銀法改正が必要だ
→検証可能な世界に金融政策を戻しましょう。
結果責任を負わない人の総合判断に任せてはいけません。総合判断とは白紙委任であり、結果責任追求のための検証からの免責を意味しています。
日銀総裁「金融政策はアート」の噴飯
2012.04.26 ZAKZAK 高橋洋一氏
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20120426/plt1204260724001-n1.htm
白川方明日銀総裁は米ワシントンで開かれた20カ国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議などに出席したが、訪問先でいろいろ講演を行った。
2月14日に日銀が行った金融緩和の「本気度」が疑われているので、金融緩和の姿勢を強調して市場の期待を維持したいようだ。しかし、言葉の端々には、どこか金融緩和に全面的には賛成しないという本音がうかがえる。
18日のニューヨークでの講演では、「金融政策はアート」とも言っている。この言葉は、先日亡くなった三重野康元日銀総裁が好んでいた言葉だ。その真意は「適時適切、総合判断」というもので、アートを「芸術」や「職人芸」ととらえている。それでも結果がよければ問題ないが、24日の本コラムで明らかにしたように、判断に誤りがあった。
金融政策はアートかサイエンスかというと問いかけは欧米でもしばしば見られる。その場合、アートは人文科学、サイエンスは自然科学と定義されている。ブランシャールIMF(国際通貨基金)チーフエコノミストが「インフレ目標による金融政策は前に比べればサイエンスに近づいている」と指摘するように、世界中でアートからサイエンスへの流れがある。
しかし、あえて白川総裁は、「サイエンスというよりアートであり続けるだろう」と述べた。これはかなり違和感のある言葉だろう。グリーンスパン前FRB(米連邦準備制度理事会)議長はアートの政策が強かったが、バーナンキ現FRB議長はインフレ目標を唱えるなどサイエンス化に努力している。
そして、その結果も、リーマン・ショック後の米国を大恐慌に陥る危機から救った。一方、日本はリーマン・ショック後も東日本大震災後も適切な金融政策を行わず、デフレからまだ脱していない。そこでアートといわれると、やはりと思ってしまう。
19日のワシントンの講演では、日本の問題として、潜在成長率の低下傾向をあげ、その要因は高齢化、人口動態としている。つまり、日銀ではどうにもできないと言いたいわけだ。
白川総裁は2月14日、「日本の場合、潜在的な成長率と長期的な予想インフレ率との間に非常に高い相関関係があります」と言っているが、これを取り消したいのだろう。
というのは、マネタリーベースの増減とインフレ予想の変動には相関がある。マネタリーベースは日銀が動かせるので、潜在成長率も日銀が左右できることになってしまう。それは責任回避の日銀として不都合なのだ。
4月21日には、「際限ない国債買い入れは制御不能なインフレを招く」とも言った。金融政策をサイエンスとして理解していれば、どの程度国債買入をすればインフレがどうなるかは、精密科学レベルではないがある程度説明できる。制御不能にならないようにするにはインフレ目標という枠をはめればよいだけだ。
やはり白川総裁にとって金融政策はアートなのだ。アートは凡人にはできないが、サイエンスだから凡人でも何とかやっていける。金融政策をサイエンス化する日銀法改正が必要だ。(元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一)