先月東京に行った際、大学時代の旧友Y元君に久しぶりに会って飲みました。18年ぶり。彼は、年は1つ下で現役で入学し、まあ、大学はお互い5年かけて一緒に卒業しましたが。

彼は、鹿児島県出身で、高校は鹿児島市内中心部にある県立鹿児島中央高出身。

(昔、書いたことありますが、戦後、伝統校鶴丸に、新設校鹿児島中央が、新築校舎と校地をそのまま乗っ取られて!? 新設校ながら、鶴丸が使っていた古い校舎をお下がりのように使うハメになった物語を面白おかしく教えてくれた男です。)


九州の某地方国立大で同じ時期、青春を過ごしました。同じ工学部でしたが、私は建設、土木系。Y君は、機械系学科でした。


Y君とは、2年間バイト先が一緒で仲良くなりました。同じ大学の同じ学部だったのでキャンパスの同じでしたし。


Y元君は、某超大手建設会社であるスーパーゼネコンを定年退職し、そしてその大企業の関連子会社で役員になっています。


彼の会社が東京京橋にあり、その近くで会議があった私は、久しぶりに連絡するとちょうど時間が取れるということなので、お昼にお蕎麦さんで少し飲みながら再会を楽しみ、話が弾みました。かれも建設業界、私も土木系技術職として長年官庁公務員生活後、今の会社も業界ですから共通の話題も仕事の面でも多いのです。


しかし、大学で土木系、そのまま建設業界一筋の私と違い、Y君が今の会社に辿り着くまでは、波乱万丈。


私は大学卒業で就職しましたが、彼は大学卒業後九大工学部大学院に進みました。

当時(1980年代)国立大の工学部は卒業生の5割が大学院に進んでいたと思います。

そして、九州の国立大工学部、理学部は、戦前の旧工専の歴史がある九工大や熊本大を除けば、どの大学も教授陣のほとんどが九大出身で、まるで九大の植民地のようなー? (医学系も同じのようです)。


九州の地方国立大理系から九大院進は、よくあることでした。


 九大院を卒業した彼は、バブルの真っ只中に機械と造船、プラントをしている超巨大メーカーに就職しました。


1980年代中頃、あの当時、日本の造船のシェアは世界一でした。また造船メーカーは造船のみならず、製鉄やプラント、大型機械なども手がけていた巨大メーカーばかりでした。


今は会社名も形態も変わってしまった企業ばかりでしたが、 日立造船、三井造船、三菱重工、日本鋼管、石川島播磨工業、佐世保重工などなど。


機械工学科だったY君もその中の超巨大企業に技術系社員として院卒で入社しました。彼はそこで、ゴミ清掃工場に使う大規模焼却施設や水浄化施設、ダムの発電施設などのプラントや機械類を扱う部署にいました。

2003年に日本の造船量は、韓国に抜かれ世界二位へ。さらに中国にも抜かれて、日本の造船業の世界シェアは、どんどん落ちていきました。

そして、各社の業績は傾き、リストラや事業縮小、工場閉鎖などが次々とやってきました。グローバルな変化についていけない日本の大企業の典型業種。

40才を超えたY君は、年齢による線引きで先輩技術者が退職に追い込まれること悲観、愕然とし、会社というか、業界に見切りをつけて転職しました。

仕事でお付き合いのあった某中規模の施設専門の建設会社(サブコン)へ。

そこに数年いましたが、さらに転職でスーパーゼネコンと言われる年商1兆超えの企業へ。


ゼネコンの技術職は、建築系や土木系が多数ですが、それだけではありません。

機電系と呼ばれる機械系や電気系の技術者もいます。

例えばトンネル掘削で必要なシールドマシンという掘削マシーンは、トンネル工事を受注した企業が製造させて現場に持ってきます。高速道路などには、電気通信施設やトンネルの排気施設など大規模な機械、電気通信施設が附属してます。

また、建築も高層ビルは、給排水、電気通信、空調など設備系も複雑かつ大規模でこれまた、機電系技術者の分野。45歳で2回の転職をしたY君は定年数年前までそのゼネコンで過ごしそこの子会社へ役員へ出向ひ、60歳過ぎても役員で、多分あと5.6年はいるでしょう。


高度成長期から日本経済を支えた造船、機械、鉄鋼、家電。どの企業も我々が大学を卒業することは世界的メーカーがズラリと並び、理工系学生の就職人気先上位に名前を連ねてましたが、今では一部を除き、そんなランキングで見ることもなくなりました。


社会情勢の大変化はあったものの、Y君が、ぽつりと、「人をコストとしか見ない企業、人を大切にしない企業は、みな消えて行ったんだと、、、」

そして、世の中からは、未だに間違った見方をされるが、建設業界は人を大事にしてきた。機械を出た俺だか、この業界にきて良かったと。そして、仕事の成果が、国民の安心、安全や地域経済の基盤となるというやり甲斐もあったと。


ずーと大学卒業以来、建設業界にいる私も大いに同感、話が盛り上がりました。


昼飯が終わり、そぞろ歩き。首都高宝町インターのすく近くに、その名前も"鹿児島ビル"というビルがあります。

 鹿児島県出身の彼、「なんとなくいたもここを通りかかると同じ鹿児島、俺も東京で一生懸命生きて行かねば、、、と心に思うと」


ふとテナントを見ると、鹿児島銀行と南日本銀行という鹿児島県の2つの銀行の東京支店が同居。それ以外のテナントも鹿児島県に本社がある企業でした。



 






横浜桜木町駅の構内のお蕎麦屋さん。川村屋。数年前一度閉店するも復活。

今年で創業125年目,

 

その川村屋さんで多分20年ぶりぐらいに蕎麦を食べました。キス天そば。

私は蕎麦は関東の醤油の効いた濃い出汁が大好きです。九州のお蕎麦屋さんは、醤油自体がかなり、甘いので出汁も甘めのところが多いのですよね。


桜木町といえば、20代後半、通勤で4年間使ってました。当時東横線の始発駅で途中はものすごいラッシュの東横線でしたが、朝始発なので座って渋谷まで通勤できるのが何よりでした。そしてさらに渋谷からこれまた始発の銀座線で虎ノ門まで。

横浜桜木町に住む前は、千葉の習志野で、東京駅まであと35分ある総武線快速なのに、すでにぎゅうぎゅう出したから。


すでに東横線乗り入れはなくなり線路も撤去されJRのみ。そして、みなとみらいは、私が桜木町付近に住んでいた時は、横浜博覧会の後、広大な更地でした。

2回目の横浜住みは、平成10年から15年まだでして、その頃はランドマークタワーなどもありましたが、さらにその頃とも打って変わって高層ビル群に。

子供をよく連れて行ったコスモワールドの遊園地は健在でしね。


肝心のお蕎麦も昔のままでした。



コロナ禍以来、我が家もネットショッピングで色んなものを頼みます。

Amazonだけだなく、Yahooや楽天も、PayPayなどの還元ポイントも高くしていますので。

でもこれは日本全体がそうなのでしょう。

そろそろ新築から20年が経つ我がマンション。マンション内ネット環境が弱いのと(新居時は日本最新でしたが!) 宅配ボックスの数が当時の標準だと足りない。


ここ1年くらい、通販で、ボックス預かりを指定しても(運転手に負担かけないだろうし) 宅配ボックスが空きがなく持ち帰りましたということが頻発しています。


NHKで取り上げられてことと同じことがうちのマンションでも起こっているですね。

中に何も入ってないボックスが空のままロックされ軒並み占有されているからです。

最新の宅配ボックスは、QRコードやバーコードを読ませて預かりができるようですが、うちのマンションは20年前の方式。荷物を預ける人はボックスナンバーと、4桁の自分の設定する4桁の暗証番号を入力すれば中に荷物を預けてロックされ、さらに預かり証が出てきます。

これを悪用に、朝、あるいは夜中にマンションの全ボックスを空のままロックし、預かり証はそのまま持って帰ります。要は、場所を、キープしているのです。

そして、自社の物流センターあるいは自分、ましくは配達仲間だけ、その情報を絶えずLINEでやりとりし、自分が預け荷物を持って行った時は空振りなく確実にそのマンションのボックスに預けるわけです。

その他の業者さんは、常に宅配ボックス指定でとお客さんが在宅していないと持ち帰りになってしまいます。

宅配の末端は、請負や委託で、雇われでなく、個人事業主としてやっている人も多くこの人たちは一個配達して、なんぼ の収入だからできるだけ効率的にたくさん配達したいのです。もちろん、運送会社傘下のドライバーも残業したくない。


マンションでもボックス変える話は出てますが、故障していないものに数百万以上の設備なので、なかなか意見が一致しない。

 最近、軽いものなら、地下鉄の駅に置いてある預かりボックス指定にすることも増えました。

たぶん5年ぶりくらい。中央区舞鶴にある讃岐うどんの名店。大木戸うどんに行きました。以前、赤坂駅近くが職場の時はよく行ってました。店主のご実家は、うどん県香川県高松市の大木戸うどん。

お兄さんがその後を継がれ、弟である店主が福岡に支店を出していました。

なんと、今のビルは3月末で出て、新しいところを探しているけど見つからないのだとか。

そういえば、この周辺のあちこちビルが新築中なのですが。

家賃と広さと立地が合致しないと、なんでもいいわけじゃないし。

名店がちゃんと残りますように。







昨日、九州の寒波。あちこちで積雪がありました。

仕事で、大分市、別府市へ行きました。

大分市、別府市から見える標高1000mを超す、由布岳、鶴見岳は中腹まだ雪を纏い真っ白と神々しく輝いてました。




昭和45年、46年、父の転勤でこの大分に住んでました。当時は1月から3月の初めまで、由布岳や鶴見岳は雪を山頂に被ってました。たっぷり雪があったあの頃、同級生から雪の鶴見岳の山頂までお父さんと行くからと一緒にどう?って誘われて冬山の鶴見岳山頂に行ったことあります。と言っても、当時から鶴見岳には、近鉄がふもとからロープウェイをかけていたので、それに乗って行ったのですが。

雪が降った次の日でした。冬晴れで、遠くまで視界が良かったことをおぼえてます。子供の胸ぐらいまであった積雪,それと鶴見岳から豊後水道を越して、愛媛県、四国の山々がよく見えていた記憶があります。

あの頃、1970年大阪万博が子供達の話題でした。当時、大分や別府からサンフラワーという大型フェリーが、神戸や大阪南港に毎日運航されており、夜7時にフェリーに乗ったら朝6時に関西につけたのです。

大分の子達は家族でフェリーで大阪万博へ。そして

関西からは特に別府は新婚旅行や家族旅行でフェリーでわんさかきてました。

そして、鶴見岳のロープウェイは近鉄、デパートの近鉄、湯布院水分峠の大型ドライブインも近鉄、タクシーも近鉄と関西資本が早くから進出していた。

あれから50年、まもなく2度目の大阪万博が2025年。でもあの当時の盛り上がりは、世間にないように思います。

博多駅近くで忘年会がありました。

12月そして週末金曜日。地下街も商業施設もビルのテナントもとにかくあらゆる飲食店は大賑わい。

⚪︎I KIITEの9階はどのお店も20時半でも、店の外に長い列でした。

コロナ禍明けで我々も4年ぶりの大学同窓会でした。



上越新幹線に乗りました。ほんと久々に。

出発時の東京はどんよりしていましたか、段々の晴れてきて大宮あたりで青空が見えてきました。初冬(それにしては暖かいしまだ、紅葉が残っている)、の関東、大宮すぎるあたりから筑波山が遠くに見えました。そしてそれからしばらくすると車窓左手に、日光男体山など遠目に見えますが、まだ雪をかぶってません。そして高崎近くになると、どんとおおきな赤城山が見えてきました。よく見えました。冬の関東平野、晴れると、名にしおう名山があちこちみえるのですよね。


赤城山、かつて国家公務員に採用された時、私たち地域ブロック単位の出先機関採用組(当時の国家2種採用)も大卒は全国から一斉に集まって研修でした。自分の地方局だけだなく、全国の同じ省庁の下にあるあちこちの組織の新規採用組が一同にあつまるのです。

最初の10日間は、東京の高田馬場の研修所。初めて出会う全国の同期とすぐに打ち解け、新宿や髙田馬場に毎日研修後にアフター繰り出す日々。多分前半の講師の多くが本省の課長補佐官だったので東京だったのでしょう。

そこが終わるといきなり、赤城山の山腹にある国立赤城山青年の家に10日。青年の家はタバコの吸えないし、アルコールもダメという打って変わった環境。


その中で印象にのこってのが、赤城山登山。グループに分けての登山、あの頃のかめらは使い捨てのうつるんですのカメラでしてが、みんな採用先に帰った後交換したら、研修所からも送ってきました。


あの時とった沢山の写真はまだ持ってます。あの時集まってまた全国に散った同期達は、その後本省時代がかさなり香霞ヶ関で勤務したら、寮が一緒だったり、あるいは20年後に仕事の調整先になったりと振り返ると有意義な研修でした。全国のいろいろな機関に自分と違う職種も含め同期という顔見知りがいたのは助かりました。

官庁というのは、キャリアと呼ばれてる一種は本省採用なので、研修なども、昔も今も全省庁合同、そして、自分の省庁で合同でやってます。しかし我々の今の後輩達は、省庁再編で、とにかく所帯が大きくなってので、九州とか中国てまとまって研修していますが、みんな同じ地方局のみ、同じような仕事をする他地方の地方局や全く違う畑の組織との繋がりがもつ機会が無くなってます。


話は赤城山登山に戻しますが、たしか8人で班で登り下山にみんな疲れながら撮っていた写真。みんな今何したいるかなあ?

1人は、私と同じ地方局のさらに同じ土木系採用。同期のトップを走ってましたが、数年前癌で現役で亡くなりました。また

同じ九州を所管していた他局から来ていた事務官だったT君。かれは、九州大法学部出身でした。私のいた組織は、ノンキャリアは九州大は絶対に採用しないところだったので(九大生は、一種職今でいう総合職にも受かりますがそれと二種今の一般職にも沢山実は合格します。ただ私のいたところは九州大生はキャリアで先輩が沢山いるから、地方局受けに来てもみんな落とすと撤退してましたから。

このT君、6年後くらい、28歳で心筋梗塞で突然亡くなりました。


今日新幹線で、赤城山を見えている時、あつかしくも、そして残念ながら現役で先立ってしまった彼らも思い出してました。



門司港に仕事で行きました。駅やレトロ地区は平日だけど観光客そして、外国人観光客が多いですね。


久しぶりに門司港の街の中に行きました。お昼食べに。

7年前には勤務地だった門司港。

あの頃はまだかつての国際貿易港だった面影で、都市銀行や他県の地銀の支店が門司港にありました。山口銀行は、北九州銀行としてまだありますが(もっとも山口銀行の本店はすぐ対岸の下関市ですから元々圏域のようなもの)


でも、最後まで残っていた三井住友銀行門司港支店は、小倉に集約して撤退、そしてみずほ銀行の支店も小倉に集約し、こちらはまだATMは残してました。


転勤族で、九州だけだなく、東京や大阪にも赴任したので、どこにでもあるみずほ銀行も三井住友銀行もいまだに使っていて通帳持っている銀行ですが。


銀行は、お金を貸して金利を取って利益を出すのが本業だし、個人客相手の支店開設は厳しそうですね。門外漢ながら。

ネット銀行も普通に回りで使ってますし。



日本の鉄道発祥の駅、桜木町。

その中に123年前、明治初期から続いた駅そば 川村屋さん。

3月にオーナー高齢化で閉店がニュースになっていましたが、

なんと、今度は奇跡の復活がニュースに。

 

創業123年の老舗駅そば店を復活へ 31歳娘の奮闘 大手企業を決意の退職

 
いかにも関東、東京の駅そばらしいお店です。
九州生まれ、九州育ちで、九州で就職しましたが、転勤で東京へ。
昭和の終わりから4年間、横浜桜木町駅のすぐ近くの寮へ。
ここから、東急東横線で渋谷。渋谷から虎ノ門まで営団地下鉄で朝は通い
夜は、新橋からJR東海道線で横浜駅さらに京浜東北線で1駅で桜木町
という通勤をしていました。
JR駅にあった、川村屋さん、なんども夜、ソバをいただきました。
九州の甘い醤油でなく、関東らしい醤油がそばによく合います。
 
懐かしい。
ここと、今も桜木町ピオシティ地下2階(横浜地下鉄桜木町駅への通路)
にある、1970年代、ビルのオープンからずっと続く街町中華の
横濱飯店。いつまでも続いてほしいですね。
 
 
 

先週、親の故郷である大分県国東半島。13年前に父、10年前に母は亡くなっており、二人とも父親の元実家のある集落のお墓に眠ってます。福岡市7に住む我々兄弟3人でお墓参りとまだ健在であれこれといつも野菜や果物、お米を送ってくれる叔母さんのお顔を伺うためと日ごろのお礼もこめて。

 

例年、お盆の頃に行っていましたが、ことしのあまりもの猛暑と弟の子供が2人東京に出ており、お盆に実家に戻って状況となったため、お彼岸の9月に行くことにしました。

父親の実家は、代々農家でしたが、20年前に取り壊し、更地にしておりそこで、叔母夫婦が畑と果樹をしてもらってます。8人兄弟だった父ですが、女2人と実家の農家を相続した叔父(単身で0才台でなくなった)3人が地元に残り、5人は福岡や小倉、1人は東京に出ています。

 

以前に書いたことありますが、国東半島は火山だった両子山が真ん中にそびえた丸い半島で、そこから四方八方に瀬戸内海へ流れ出した幾筋もの小川沿いに集落があります。

 

神仏習合と修験道、宇佐神宮が結びついた六郷満山という山岳宗教文化が中世に栄え、古い集落、寺院ほど標高の高いところにあり、山の上の方は天台宗の小寺院、山の中腹は、元々川沿いや尾根筋の間に広がった貴重な平らな地を田畑にした元荘園だつたところが多くそこは禅宗系のお寺と集落。

そして父親達の故郷でもある一番海に近いエリアは、瀬戸内海の干拓が江戸から戦後すぐまで進められて大きな集落が多く、お寺もほとんど浄土真宗です。

 

集落の菩提寺の周辺には舗装したお寺の駐車場がいくつもあります。

これは、実家を相続した子が、すでにこの地を離れており、管理のできず持て余した土地を、更地にして舗装すればお寺は寄進として引き受けたためお寺の周辺のみそのような空き地がいくつもあります。

 

ちなみに、わが父も叔父がなくなった後に引き継いだ実家を役場に土地の寄付する相談したことがあるそうですが、当然行政機関は、民有地の寄付を受けることは国の含めありません。(使う予定のない土地の管理費はかかる、民有地は相続や境界で争いがあることも多い。そして何より固定資産税が入ってこなくなる)

 

叔母の家や親の元実家周りを歩いてみましたが、3軒のうち2軒は空き家か更地。そして住んでいる人も、叔母の話はみな80才を超え、単身が多いとか。

あたり、みな放棄地のような感じ。集落の周辺、昔は畑やみかん、クリなどの果樹園がたくさんありましたが、今や6羽い以上は、耕作放棄されています。

 イノシシやシカが集落や残った畑、田んぼに入ってくるので侵入防止柵があちこち。まるで人間が檻の中暮らしのようです。

 

もう一人の叔母も90才を超えて家は空き家にして近くの介護施設に入ってます。

 私たちのいとこ達もみな大学進学で大分県を離れ、福岡や岡山、横浜と様々なところで暮らしてます。

 日本の地方の中山間部や農村地はここだけでなく、ごく一部を除いてたぶんこのような状況でしょうね。

 

 大分県のこの辺りは、もともと、大分県内でなく外との結びつきが強い地域です。 海越しから臨む山々は、山口県の徳山や周防大島、半島をもう少しいけば、四国愛媛県も天気のいい日はよく見えます。

 

 テレビがアナログ放送時代は、大分県でありながらNHKを除いて大分のテレビ局は全く映ってませんでした。

 その代わり、福岡県の北九州からの放送局お電波、山口県の電波で福岡・山口のテレビを見ていました。

 

 明治から高度成長期の昭和の半ばまで、この国東半島あたりの人が出稼ぎあるいは就職で出ていくのは、東京とか関西でなく、今の北九州市周辺が一番多かった。父親、母親のいとこ達も小倉や八幡、下関あたりにたしかにたくさんいました。

 大規模な生産工場が立ち並び交通の結節点でかつ比較的距離が近く、テレビや新聞もすべて北九州で、小倉などの吸引力が強かったのでしょう。(今は福岡市ですが)

 

 さて、この国東半島の海沿いの地区は、実は比較的外から

人が入ってきていた地域なのです。

 瀬戸内海である周防灘に広がる干拓地は、江戸後期から戦後すぐの昭和20年代終わりまで干拓され、入植者が入ってきています。特に、愛媛県からの干拓地の入植者が多く、地元の姓も愛媛県に多い、河野や越智、村上といった苗字が愛媛ルーツ。あと、戦後ミカン栽培が盛んにされ、それも先進地である愛媛県からが多かったそうです。あと、海向こうである山口県からもきています。

 だから親戚関係も3代さかのぼれば愛媛県からやってきたという人が何人も昔はいました。

 

 山がちで農地が少なく少雨でもある愛媛県や山口県はハワイやブラジル移住者も多かった県で、こうやって積極的に外にでていたのでしょうね。

 そうやって国東半島にやってきて、酒や酢の醸造や新田開発で財を成した人が大分県や福岡県の瀬戸内海沿いにはたくさんいます。たしか、別府温泉観光開発の祖、油屋熊八も愛媛県出身です。

 

 さて、この親の集落の一角広大な敷地(千坪?)に大きな邸宅さらに洋館まである家がありました。

 よくぞ、こんな田舎の集落に洋館があったものだといつもみるたびに関心していました。

 

写真はネットからお借りしました。

 

 

 

 

 

 

 大正元年に建てられたこの洋館、取り壊されていました。そして、母屋のかつの大豪邸ももう住む人がなく、裏の方はあちこち、崩れた状態。

 それでも、近隣の小学校の社会科見学でまだ訪問されているらしく、庭や表側はある程度、維持されています。

 

 この家は、江戸から明治期、酢や醤油の醸造で富を得てさらに私費で干潟を干拓し、広大な新田開発に成功し、村一番の地主だったそうです。戦後の農地解放で没落した。

 

 さて、過疎化、少子化で、人が一方的にいなくなるばかりと思いがちですが、実はこの市は、移住したい市町村ランキングでいつも全国上位に入っているのです。

 そして、市がミカン山を切り開き、造成した土地を移住して家をたて3年住めば土地の無償提供といった策は大当たり。すでに完売。

 そして、既存集落でなく、ぽつんと中山間地にあるような

家屋はまだ移住する人たちが住んだりしています。

 

 車で1時間で行ける周辺には、ダイハツ、TOTOや自動車部品の大手なので工場がいくつも進出してきているので、ある程度雇用があるからでしょう。

 

 叔母が後、10年するとここは、だれもいなくなるといっているのが、実感をもって感じました