1242)冬の山崎(2)ー雪雲が流れ込み 小雪舞う朝ー昭和55年1月18日 | 千葉の鉄道、そして Now & Then

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 日本列島の日本海側に海を渡ってきた寒気団や ときにはJPCZ(日本海寒帯気団収束帯?)が襲来し、北陸や山陰地方に大雪をもたらします。

 ときには 山々の低い部分、関ケ原や近畿北部を乗り越えて、濃尾平野や関西圏、福岡県などにも雪を降らせることがあります。東海道新幹線の弱点-関ケ原も雪でしょう。この数日間はそんな気象が予想されています。名神高速道路の関ケ原付近の上下線では とうとう長時間の立ち往生が発生してしまいました。現在封じ込められている方々はたいへんでしょう。状況が悪化、拡大しないことを願うばかりです。

 

 昭和55年の1月に東海道本線山崎を訪れたときも まさにそんな気象状況でした。

 165)の記事

 

 

に端緒を記していましたので、今回はその続きとして(2)となります。あらためてまとめてみましたが、一部掲載済みの写真がありますことをご承知おきください。

 今日・明日の天候が、この時の思い出を掘り起こさせてくれました。

 

 S55(1980).1.18撮影、山崎の大カーブ サントリー下ですが、周囲はまだ田園地帯。高層マンションなぞ全く考えもしません。

 

 S55.1.18 7:01 回5D「まつかぜ1号」 キハ82系 

 前寄り1号車から 7+6の13両編成。

 向日町を出区して大阪へむかいます。

 山崎〜高槻で。

 

 ここに着いてすぐにやってきた記憶があります。まだ暗いのでとっさに流し撮りするしかありませんでした。

 関東圏から前夜発の夜行を使っても、この時間にここに立つのは無理です。舞子から初発くらいの103系で来たのですが ぎりぎりでした。

 

 5D:大阪 8:00→12:10鳥取12:13→19:43下関19:45→20:55博多

 長門市~下関も山陰本線を経由する唯一の特急。ちなみにその区間には、他に夜行客車急行「さんべ5・6号」の1往復を含めて3往復の急行もありました。

 1号車キハ82 67他 大ムコの7+6連です。キシ80が3号車に、キロが2両(2・9号車)に組成。

 「まつかぜ1・4号」は博多発着(4号は博多→新大阪)ですが、鳥取で下りは後部6両解放、上りは前に6両増結していて、13両編成なのは鳥取以東のみ。その鳥取回転車6両を使って「まつかぜ3・2号」が運転されていました。いずれも区間は 大阪~鳥取で、折り返し整備は宮原。

 

 ↑キハ82系が通過する外側線の、さらに外側に側線があり、黄緑色のコンテナ車の列が キハ82系の後部の奥の方にわずかに見えています。これはここの側線に一時的に留置されていたようで、下り貨物列車がここで待避しているわけではありません。機関車は両方向とも連結されてはいませんでした。

 

 

 7:10 3482レ EH10 16(稲沢二区 か 吹田二区) 

 雪雲で暗く、たしか シャッタースピードは 1/60~1/30 だったと思います。なので正面がちのアングルからしか撮れません。超長い編成で、ゆるやかなこのカーブでも末尾が見えない!

 長いですが、EH10 なのでゆっくりです。この時間帯はたまたま EH10牽引が続き、この5分後にも3174レでEH10が上ります。当時住んでいた神戸ではよく見かけるので、すぐにまた撮ろうとは思いませんでした。

 おそらく通勤時間帯になる前に、ダイヤが混む関西圏を通過させてしまおう、という意図でこの時間帯に EH10が多かったのかもしれません。

 それよりも、長大な普通貨物がゆっくりと通過するので、向こう側の3線を長い間視界から遮断してしまいます。そのあいだに撮りたい列車が向こう側を過ぎて行ってしまわないかと、それが心配なのでした。

 

 7:12 731M 米原5:47→8:39西明石 

 113系モノクラスの7または11連 

 湖東にも雪が降っていたようで、雪まみれ。

 この列車は、通勤前の内側線を通るほぼ最後で、このあとの通勤時間帯には 快速も外側線を通るようになります。通勤時間が終わると 日中はまた快速、さらに新快速もが内側線に移ります。

 当時は、内側線のダイヤ編成の管轄は地元大阪でしたが、外側線の管轄は 長距離列車に使うので国鉄本社が担っていたためなのでした。

 

 7:28 4011M雷鳥1号 大阪 7:05→11:05 富山 

 富山方先頭車が クハ481-253(大ムコ=向日町運転所)

 サロ481が2両(4・5号車)・サシ481(6号車)入りの6M6T 12連です。

 TcM'MTsTsTdM'MTM'MTc→富山方(関西系統一編成は11→12連 となりました)

 非常に底冷えのする朝でした。

 

 7:36 34Mなは 西鹿児島 16:50→7:50 京都

 12号車はクハネ581-11 の6M6T

 Tc MM’ T MM’ Td Ts T MM’ Tc←西鹿児島方

 関西~九州を往き来する夜行列車のうち、この当時 新大阪から京都まで達するのは、この「なは」が唯一。京都まで行くので整備は向日町へは戻らずに、京都終着後は野洲へ回送されていました。(山科での撮影機会もあり)

 しかし、次の改正あたりで新大阪発着になってしまいました。

 

 このコマ、色褪せがはなはだしいので、なんとか修整してみましたが、↓が限界のようです。

 

 

 7:48 501M立山1号 先頭車クモハ475-48(金サワ)他10連 

 大阪 7:25→12:17 富山(ここから快速3421M、富山12:39発)→13:48 糸魚川

 

 この「立山1号」は、この日の2日前の、1月16日までの毎日は、富山地方鉄道宇奈月13:33着の6521M(名前は同じく「立山1号」)を併結していました。

 上の10連の、前の3両(TcM'Mc→)が地鉄へ乗り入れるもので、国鉄富山1番線の長いホームから、糸魚川行き快速3421Mの発車より10分も早い 12:30発車で、この地鉄乗り入れには長い伝統がありました。

 このころは、電車急行が全て特急になっても特急として乗り入れは継続し、国鉄~地鉄直通は何本かは残るのだろうな・・と思っていたのですが・・・。「サンダーバード」の附属3連を活用して復活というのは、JR富山駅の高架化で設備的にもう不可能。どころか、いまや「北陸新幹線」と「あいの風とやま鉄道」になってしまいました。

 

 なお、地鉄には、大阪からの「立山」2往復(うち下り1本は 北陸線内夜行の立山行 で、私も愛用していました)のほかにも、名古屋から「うなづき」「むろどう」(=下りのみは夜行) 各1往復と、名鉄神宮前から 名鉄のキハ8000系「北アルプス」1往復(後に特急化)の、計5往復もの乗り入れがありました。

 

 

 7:53 923M野洲7:04発→8:18大阪 

 最後部12号車クハ153-553、6連の新快速用153系を2本つないで12連にし、通勤輸送にあたっていました。 

 8・9号車に湘南色の モハ153-98+モハ152-98の MM'ユニットが見えます。昭和55年春の117系投入にあたって、一部が暫定編成となっていました。 

 外側線経由の快速としては、京都~大阪間で下り初列車 になります。その前の ここでは内側線経由の快速でも、高槻→大阪間で内側線に103系緩行が増える時間には、高槻から外側線に転線した便があったように思います。それらは大阪着が③か④番線で、大阪以降が六甲道・須磨・垂水通過でしたので。

 

 8:38 5852レ EH10 22+車運車クム

 お昼過ぎに神戸市内を下る、乗用車満載の長い編成のクム をよく見かけていましたが、その折返し回送のようです。横浜か中京地区で製造された自家用車を西の方まで運んでいたのでしょうか。

 前の記事を書く際にあたって、当時のEH10 の運用を調べたことがありました。

 EH10 最後の時代の運用である、S53.10.2改正、S54.10.1修正 によると、

 稲沢第二機関区配置は、EH10 19~EH10 42 までのうち、19・29・31・33・34・35・38・40・41・42の10両配置、使用9。

 運用範囲は、東は新鶴見操まで、西はほぼ米原操(ただし1往復のみ吹田操、もう1往復のみ彦根へ)まで

 

 吹田第二機関区には、EH10 5~EH10 61 までのうち、 5・6・7・8・9・10・11・12・13・14・16・18・20・22・23・24・26・27・36・43・44・48・53・59~61 の25両配置、使用23。

 運用範囲は、東は同じく新鶴見操まで、西はほぼ岡山操(ただし、1往復のみ宇野へ)までとなっていました。

 

 上記の1枚目、3482レ(EH10 16 吹二)は、吹田二のA15運用で、吹田操 3482レ→稲沢操 2871レ→ヨ 岡山操。

 その5分後に上った3174レも 吹田二の運用、A1で、吹田操 3174レ→東静岡 6468レ→新鶴見 ここでヨ。

 2枚目の8:38 5852レEH10 22 も吹二の運用、A8で、吹田操 5852レ→北野桝塚 5350レ→新鶴見。

とわかりました。クム車は北野桝塚発着なので、トヨタ車を運搬していたのかもしれません。

 

 貨物列車の後部の方に、複々線区間独特の形の信号柱が見えています。この信号を大きくねらった写真を当時撮ってあけばよかった。今ではまず見られません。

 下り外側線を行くのは、安土7:27発京都行き933M の後回送の113系 回933Mで、高槻か宮原へ入庫のようです。近江八幡・安土あたりは雪だったのでしょう、台車足元に雪を抱いています。

 

 (以下、続きます)