募金する方法は?

 
地震発生から1年以上が過ぎた今、Yahoo募金などの多くの募金活動が終了しました。
 
そのため、検索して探したとしても「終了しました」という文字が出てきて、募金先がなくなってしまったのか、と思われるかもしれません。
 
それでも、今現在確実に募金ができるところは、まだあります。
 

イタリア大使館が募金を受け付けている

 
東京にあるイタリア大使館が、募金活動を行っているというので、さっそくお問い合わせをしました。
 
その返答としては、「いまでも行っている」との事だったので、安心して振り込むことができます。
 
 
 
こちらのページに詳細が記載されています。
 

皆様のご協力をお願いします!

 
募金活動というものは、個人の力で多額を振り込むことは、よほど高収入の仕事についていないと難しいです。
 
それでも、皆さんが少額ずつでも募金を行えば、それは必ず被災地の誰かの役に立ちます。
 
手元に情報が入り次第、募金先を追記します。
 
 
 
これは昨年10月の余震の際に書かれたものですが、募金活動の大切さが変わるものではありません。

 

 

 

悲しい出来事や

目を背けたくなる事実や

そのようなものから逃げるのは簡単なことで


もちろん、逃げるからこそ生まれる何かもあって

逃げるからこそ得られる何かもあるけれど



「逃げる」ことで失うものが

そこには確かにあって



知らないふりをしていても

その悲しい出来事は

心のどこかに在るから


私たちは逃げられない

私たちは逃げきれない


それでも、逃げられるだろうと

思い込んでいる何かがある



それは、「ひとが死ぬ」ということ

誰の生命にも「終わりが来る」ということ



生きているということが

 

だんだんと当たり前になって


まるで、眠りについて目が覚めたら

 

新しい日が来るかのように

 

 

「おやすみなさい」といった日の次の朝には

 

必ず「おはよう」と

 

言えることが当たり前になって

 

 

それが、日常になっていて

 

 

普段は疑うこともないけれど

 

それは「当たり前」ではない

 

それは「日常」ではない

 

 

いつ途絶えてもおかしくないから

 

 

「人生」という道がもしあるなら

 

その道はどこまでも続くのではなくて

 

 

自分の手で

 

誰かの手で

 

誰でもない何かの手によって

 

 

あっという間に

 

簡単に

 

 

途絶えてしまうもので



テレビの中で数字だけを報じて

何かの災害で、戦争で、貧困で

原因は様々だけれど




「何人が亡くなった」と



数字だけが報じられるけれど


その誰かは、誰かなりに

与えられた一度きりの「生」を

もがきながら、苦しみながら

生きていたのであって

 

 

その「誰か」は

 

今日のその瞬間までは

 

一生懸命、生きていたのであって

 

 

もちろん、人間だから

 

「死にたい」とか

 

「消えたい」とか

 

そう思ったこともあるだろう

 

 

もちろん、人間だから

 

生きていることが

 

嫌になることも

 

辛くなることも

 

苦しくなることも

 

彼らにも、あっただろう

 

 

彼らは、その場所で

 

その瞬間まで

 

最後の最後まで

 

一生懸命

 

生きていたのであって

 

 

 

その瞬間に、彼らは

 

何を思っただろう

 

 

失望?

 

後悔?

 

感謝?

 

充足?

 

 

それは、彼らにしか

 

わからないもので

 

 

その「彼ら」なりの答えは

 

絶対に聴けないものであって

 

 

どんなに望んでも

 

どんなに後悔しても

 

彼らの失われた生は戻らない

 

戻りはしない

 

 

その場所で彼らは生きていて

 

その場所で彼らは

 

私たちの知らないところで

 

笑ったり泣いたりして

 

「かけがえのない日常」を

 

過ごしていた

 

 

その場所で彼らは

 

確かに生きていて

 

 

その場所とこの空は

 

繋がっている

 

 

この空の先には

 

確かにその街があって

 

 

この空の先には

 

確かに彼らの「生の証」があって

 

 

私が見上げる夜空も

 

その場所で澄み渡る青空も

 

 

全部、途絶えることなく

 

セパレートされることもなく

 

 

確かに、繋がっている

 

 

この空は、繋がっている

 

 

 

 

 

 

 

まるでTwitterのタイムラインのように

 

日々新しい情報が流れ込んでいく

 

 

新聞、テレビ、インターネット

 

いろいろなところから、いろいろなことが

 

耳をふさいでいても聞こえてくる

 

 

 

地球の反対側で起きた突然の災害のこと

 

この国で起きた政治の不祥事や揉め事

 

芸能人の祝福すべき結婚の報道

 

理不尽な理由による痛ましい殺人事件

 

 

 

優先順位も人によってばらばらで

 

たわいもない情報から身近な話題まで

 

 

 

真剣に向き合わなければならないことや

 

聞き流しても構わないこと

 

 

そして、忘れてもいいことや忘れてはいけないこと

 

その他いろいろな嫌なニュースが

 

ごちゃごちゃになって

 

 

私たちはただそれを傍観しているだけで

 

大切なものとそうでないものが

 

だんだん区別できなくなってくる

 

 

 

テレビで無機質に報じられる

 

情報の洪水の中で

 

 

見失ってはならない何かが

 

忘れ去ってはいけない何かが

 

きっとあるはずなのに

 

 

それさえも忘れ去られ

 

どうでもいいような情報に流され

 

たいせつなものを見失っていく

 

 

 

深く考えることもせずに

 

ただ、ひたすら新しいことを追い求めていく

 

 

その末路にあるのは

 

「そうだったんだ」と割り切れる

 

冷たくて単調な心だけ

 

 

 

そして、人は悲しいことに

 

「逃げている」ということさえ

 

 

だんだんとわからなくなって

 

やがて自覚しなくなっていく

 

 

目の前にある楽しいこと笑えることに

 

目をそらしてしまうもので

 

 

それを全力で楽しんでいるうちに

 

都会の雑踏に紛れ込んでいるうちに

 

友人と楽しく談笑しているうちに

 

 

 

だんだんと、忘れてくる

 

 

 

忘れてはいけないたいせつな何かが

 

そこにあったとしても

 

 

 

それを忘れ、「当たり前」の日常に

 

人々は帰っていく

 

 

 

 

まるで、そんなことなどなかったかのように

 

 

 

 

それでも、「当たり前」は当たり前なんかではなくて

 

「日常」は日常なんかではなくて

 

いつか、あっという間に

 

気づかないうちに崩れ去ってしまうもので

 

 

 

他人事にできる冷たい心

 

「どうでもいい」と割り切れる心

 

 

その「誰か」も人間で

 

あなたと同じように

 

「今日」という日まで生きていたのに

 

確かに生きていたのに

 

 

そうやって「誰か」の存在が忘れ去られ

 

「誰か」の生命が忘れ去られ

 

時代の波に消えていく

 

 

 

 

「遠い世界のことなんて」

 

 

 

 

そう、言わないために何ができるだろう

 

そう、言ってしまう私たちだから

 

 

その誰かも自分なんだ

 

自分と同じように、私と同じように、あなたと同じように

 

 

生きてきたんだ、今日まで

 

 

忘れてはいけない

 

そういう人がいることを

 

そういう痛ましい事件や、事故

 

そういうものがあったということを

 

 

忘れてはいけない

 

そこに「誰か」が生きていたことを

 

 

忘れてはいけない

 

その「誰か」の生命の鼓動を

 

 

 

忘れかけた震災の記憶

震災から1年が経ち、昨年夏に流れた報道のことを忘れ去ってしまった人も多いことでしょう。
 
日本で起きたことなら「**から何年」という報道もありますが、海外のことになると、そういう報道さえされない(または、されにくい)という現状があります。
 
それでも、忘れ去ってはいけない記憶があります。
 

震災の一番怖いところは、日常が奪われること

 
あの日、多くの人の命が奪われ、また、その何倍もの人の日常が、日常でなくなってしまいました。
 
有名な話ですが、一人の人が他界すると、最低5人程度は、強いショックを受けると平均して言われています。
 
彼らの心の傷がいえるまでが、本当の「復興」という定義だといってもいいかもしれません。
 

報道がないということと、復興が進んだということはイコールではない

 
あの恐ろしい震災から8か月がたったころ、私が資料を調べていると、とあるサイトに、こう書いてありました。
 
 
「震災の復興なんてあらかた終わったのでは?」
 
 
私はこれにショックを受けました。
 
こんなことを言えるのは、震災を他人事にしているからか、それともただ単に情報が足りないのか……
 
どちらにせよ、返すべき言葉が見つかりませんでした。
 
言いたかったことは、自分で調べて想像してから言って!ということだけでした。
 

現地メディアが伝える、悲しい事実

 
日本のメディアではほとんどと言っていいほど続報がないので、現地のメディアを調べてみました。
 
当たり前といえば当たり前のことなのでしょうが、日本のメディアは日本のことを優先的に伝え、現地メディアは現地からの最新情報を届けてくれます。
 
そこで調べていると、私たちの予想を裏切るほど、震災の復興が進んでいませんでした。
 

9割近くの瓦礫が被災地に

今年6月のデータから。
 
 
イタリア語です。
 
SOLO L'8 PER CENTO DI DETRITI RACCOLTI - Come fanno a tornare, se per strada hanno i frantumi delle case crollate? Secondo una stima per difetto ci sono 2,3 milioni di tonnellate di macerie da rimuovere: da quel 24 agosto, quando il primo terremoto distrusse Amatrice e Accumoli, la macchina dell'emergenza è stata in grado di portarne via 176mila e 700, meno dell'8 per cento. Nel Lazio hanno cominciato a novembre: rimosse 98mila su un milione; in Umbria 3.700 su 100mila; in Abruzzo 10mila su 100mila. Nelle Marche sono partiti solo ad aprile. Ad oggi hanno raccolto appena 65mila tonnellate su un milione. Il 6,5 per cento del totale.
出典は同じ
 
230万トンの瓦礫が現在被災地にはあり、昨年の8月から、17万6000トンを撤去したが、これは率にしてわずか6,5パーセントに過ぎない。
見やすいように日本語に翻訳し、要約しました。
 
最新の情報によると90パーセント程度になったそうですが、それでも依然被災地の復興が進んでいないことには変わりありません。
 

こんな状態では、心のケアなど難しい

 
実際、被災者の方が言っていました。
 
「私たちがここにいると、毎日この悲惨な光景を見なくてはならない。それは耐えがたい苦痛である」と。
 
原爆ドームを取り壊すか負の遺産とするか、日本でも戦後揺れたようですが、取り壊してほしいという意見で最も多かったのは「これを見ると辛い記憶を思い出してしまう」というものでした。
 
 
想像してみてください。
 
被災者の方が、懸命に復興させようと、失われた日常を取り戻そうとしているときに、毎日嫌でもこのような光景を見なければいけないことを。
 
そして、そのような光景を見ると、誰でも嫌でも思い出してしまいます。
 
震災の恐怖、不安、それは相当なものです。
それなのに、それが再びよみがえってしまい、体験してしまうのです。
 

「政府に積極的に働きかける」

アマトリーチェのピロッツィ町長さんは、毎日新聞のインタビューにこう応じていました。
その際、「日本の防災に関することを見習おうと思う」とコメントされていました。
 

思考停止に陥らないように

 
Twitterのタイムラインに象徴される「情報の洪水」。
世界中の出来事が手元に受け取れる時代になったからこそ、大切になることがあります。
 
それは「自分で考える」ということ。
 
ニュースを読むだけではなく、被災者のことを、忘れてはなりません。
 
世界中で自然災害は相次いでいます。
 
明日、もしかしたら今日、自分のもとに起きてもおかしくはありません
 
 
また、被災者の心痛は計り知れません
 
直接会ったこともない、話したこともない、名前も知らない。
 
それでも、その誰かが、この世界で苦しんでいます
 
 
知り合いでないから。
 
現地に家族や親族がいないから。
 
だから、インターネットに「復興は終わった」という無責任極まりないコメントがあるのです。
 
 
もし被災者の方が自分の友人だったら?家族だったら?
 
そう考えると他人事にできることではありませんし、そう簡単に忘れ去ることもできないでしょう。
 

「感受性が強い」ことで生じる不利益は、確かにたくさんある

 

私は感受性が人一倍強く敏感に
反応してしまいとても苦しいです。
悪いことばかり反応してしまいます。

治したいのですがもう治せなくて
苦しんでいます。

 

出典:Yahoo!知恵袋

私は感受性が人一倍強く……

 

 

感受性が強いということで、私がいままで困ったことを参考程度に列記しておきます。

 

  1. 虐待死やいじめによる自殺、震災の話など、悲しいニュースをいつまでも忘れられない
  2. 「自分だったら」と考えると怖くなり、そこから抜け出せなくなる
  3. ニュースで報じられていた情報をもとに、報じられていない部分まで想像で補って考えてしまう

 

それが続くとどうなるか?

 

そのようなことが続くと、またそれが重症化すると、日常生活に支障が出ます。

 

特に、上記のような「悲しいニュースのことをいつまでも考えてしまう」ことについて。

 

  1. 悲しいニュースに対し無力感を覚える
  2. 何もできない自分に怒りや失望を覚える
  3. 「何も変わらない」と投げやりになる

 

このような症状が続くと……

 

  1. 指先、あるいは全身の震え
  2. 脱力感、あるいは倦怠感
  3. 軽いうつ状態(何もしたくなくなる)

※あくまでもこれは管理人の場合です。

 

それでも、感受性が強い人は自分を誇りに思っていい

 

つまり、先ほどのリストを要約するなら、「自分があたかもその場所にいたように/その状況に置かれたように」考える癖がある、ということでしょう。

 

言い換えると「自分のこととして考えている」ということです。

 

遠い世界で悲しいことつらいことがたくさんある中で、それを「私だったら」と正面から向き合っている、少なくとも、向き合おうとしているということです。

 

毎日毎日、悪いニュースばかりがたくさん流れてますね。
現代は情報が溢れすぎで、地球の裏側のことまで目にしてしまいますが、とてもじゃないけど、世界中の悲しみまでは受け止めきれません。

 

出典:発言小町

感受性が強くて辛い

 

中には、このような人もいます。

私は、これをものすごく理解できます。

 

しかし、私はこうしようとは思いません。

 

なぜなら、

「一度知ってしまった悲しいニュースや出来事を完全に忘れ去ることは難しい」

からです。

 

特に、感受性が強い人の場合。

 

感受性が強い人が悲しいニュースと向き合う方法は2つある

 

書くまでもないですが、

 

  1. なるべく早く忘れること、あるいは、意識的に「その後」を見ないようにすること
  2. 見てしまった以上、その記憶と向き合うこと

 

ここで、双方の利点/欠点を書いていこうと思います。

 

「早く忘れる」こと

 

利点は、それ以上つらい思いをしなくてすむ(人もいる)ということ。

(人もいる)とかっこで括ったのは、「忘れようとする努力」と「自然体でいること」でどちらがつらいかは人によって違うからです。

 

「忘れよう」と思って、楽になれたり、あるいは忘れられたりするのであれば、こちらの対処法は有効かと思われます。

 

また、そのような記憶と向き合うのがつらい、特に、冒頭で上げた精神症状が強くなった場合などです。

 

そのような場合は、もちろん、無理をする必要はありません

 

他人事にしなかっただけ、あなたは強い

 

世界には悲しいニュース、つらい出来事が溢れています。

 

それを目にしたこと、あるいは聞いたことで、あなたが辛くなったのなら、それは十分「他人事にしなかった」ということです。

 

「そんなことがあったんだ」と軽く流すことも、選択肢としてはありました。

 

それでもそこで一瞬立ち止まったこと

 

それは、自分で自分をほめていいと思います。

 

それでつらい思いをされたのなら、あなたは十分頑張りました。

 

もう、肩の力を抜いて、休んでもいいと思います。

 

 

しかし、それはある意味の「逃げ」であり、その記憶と正面から向き合うことを避けているようにもとれます。

 

あなたがもし、「逃げている」と思ってしまうのであれば、この先を参照してください。

 

逃げたほうがいいのか?

 

逃げたほうが楽になれる、そういう人もいます。

そういう方は、積極的に逃げましょう

 

つらい思いをすることをリピートさせる必要はありません。

 

それは「自分が弱いから」ではなく、「自分を楽にするため」「自分を解放するため」です。

 

しかし、逃げたことに罪悪感を覚えたり、逃げるよりも受け容れてしまったほうがいいと判断されたりした場合には、次の章を参考にしてください。

 

「正面から向き合う」こと

 

辛い出来事、悲しい出来事が、この世界には溢れています。

 

日々ニュースをつけていれば、いやでもそういう情報が入ってきます。

 

それから「逃げない」ということは、それにどのような効果をもたらすのか……?

 

 

「何かしたい」という気持ちを与える

 

これに尽きると思います。

 

「何かしたい」という気持ちは何を生み出す?

 

例えば震災の被災者のために、例えば虐待の被害を受けたこどもたちのために、例えば自殺により大切な人を失った自死遺族のために……

 

彼らの悲しい報道を聞いて、「何かしたい」という気持ちがうみだされたのなら、それは彼らに対してその時点で無力ではありません

 

「何かしたい」という気持ちは、「何かできないか」という積極的な行動への橋渡しをします。

 

その気持ちがあれば、自然と「何ができるか」ということも考えるようになり、支援や援助の道が開けます。

 

 

 

 

参考までにTwitterからいくつか拾ってきました。