悲しい出来事や

目を背けたくなる事実や

そのようなものから逃げるのは簡単なことで


もちろん、逃げるからこそ生まれる何かもあって

逃げるからこそ得られる何かもあるけれど



「逃げる」ことで失うものが

そこには確かにあって



知らないふりをしていても

その悲しい出来事は

心のどこかに在るから


私たちは逃げられない

私たちは逃げきれない


それでも、逃げられるだろうと

思い込んでいる何かがある



それは、「ひとが死ぬ」ということ

誰の生命にも「終わりが来る」ということ



生きているということが

 

だんだんと当たり前になって


まるで、眠りについて目が覚めたら

 

新しい日が来るかのように

 

 

「おやすみなさい」といった日の次の朝には

 

必ず「おはよう」と

 

言えることが当たり前になって

 

 

それが、日常になっていて

 

 

普段は疑うこともないけれど

 

それは「当たり前」ではない

 

それは「日常」ではない

 

 

いつ途絶えてもおかしくないから

 

 

「人生」という道がもしあるなら

 

その道はどこまでも続くのではなくて

 

 

自分の手で

 

誰かの手で

 

誰でもない何かの手によって

 

 

あっという間に

 

簡単に

 

 

途絶えてしまうもので



テレビの中で数字だけを報じて

何かの災害で、戦争で、貧困で

原因は様々だけれど




「何人が亡くなった」と



数字だけが報じられるけれど


その誰かは、誰かなりに

与えられた一度きりの「生」を

もがきながら、苦しみながら

生きていたのであって

 

 

その「誰か」は

 

今日のその瞬間までは

 

一生懸命、生きていたのであって

 

 

もちろん、人間だから

 

「死にたい」とか

 

「消えたい」とか

 

そう思ったこともあるだろう

 

 

もちろん、人間だから

 

生きていることが

 

嫌になることも

 

辛くなることも

 

苦しくなることも

 

彼らにも、あっただろう

 

 

彼らは、その場所で

 

その瞬間まで

 

最後の最後まで

 

一生懸命

 

生きていたのであって

 

 

 

その瞬間に、彼らは

 

何を思っただろう

 

 

失望?

 

後悔?

 

感謝?

 

充足?

 

 

それは、彼らにしか

 

わからないもので

 

 

その「彼ら」なりの答えは

 

絶対に聴けないものであって

 

 

どんなに望んでも

 

どんなに後悔しても

 

彼らの失われた生は戻らない

 

戻りはしない

 

 

その場所で彼らは生きていて

 

その場所で彼らは

 

私たちの知らないところで

 

笑ったり泣いたりして

 

「かけがえのない日常」を

 

過ごしていた

 

 

その場所で彼らは

 

確かに生きていて

 

 

その場所とこの空は

 

繋がっている

 

 

この空の先には

 

確かにその街があって

 

 

この空の先には

 

確かに彼らの「生の証」があって

 

 

私が見上げる夜空も

 

その場所で澄み渡る青空も

 

 

全部、途絶えることなく

 

セパレートされることもなく

 

 

確かに、繋がっている

 

 

この空は、繋がっている