子どものための新制度2種
最近、週1で若者を車で1時間半ぐらいの地域の支援学校に連れて行っているのですが、付き添い同行の若者と道中のドライブ時間を有効活用、いろいろと語っています。
そこで、2週連続、新たな社会資源のアイディアが浮かんでいたのを改めて思い出し、とりあえず書いておこうと思い立ちました。
先週思いついたのが「ダイバーシティ推進員制度」です。
これは、学校教育の現場にどうやったら多様性を学ぶ機会を持ち込めるかというテーマで議論していて、思いつきました。
簡単に言うと、学校の先生にはほぼいないような独特の個性を持った人が学校のフリールームにいて、自分の好きなことをして(勉強でも仕事でも、寝ていても、遊んでいても、ぼーっとしていても、趣味の活動をしていてもなどなど)過ごしていればよいというものです。
そして、そこに子どもたちがもしも来たとしたら、必要があれば話したり、遊んだり、何かを一緒にしたりするというものです。
子どもたちの相手を無理してする必要はなく、そこにいることが最大に目的です。
存在によって機会を提供し、それによって対価を得るというものです。
つまり、何らかのマイノリティで生きづらく、その個性を開示してもいいという人の雇用先としても活用されます。
また、何かと閉鎖的な学校現場にダイバーシティの風を吹き込み、新しい教育づくりに向けて改革をも推進することができます。
この制度の難しさは、学校にそうした人材を受け止める人材がおそらくいないであろうことで、そうなると推進員は孤立し、排除の対象になってしまう懸念があることです。
そのために、先生への教育が必須となります。
先生たちに対してもマイノリティやサバイバーについて基礎教育をすることができるわけです。
それも、一つのポイントです。
子どもの健全な発達を促し、社会的排除にある人たちの雇用機会の創出にもなり、教育現場の改革も促し、教育人材の養成もできるなんて、悪いことが全くないようにさえ思えてしまいます。
問題はその制度を運用する仕組みや人材育成の人材がどれだけいるかですが、それもそのためにいろいろな既存の団体やネットワークを駆使すれば何とかなるのではないかと思ったりしています。
学校に臨時雇用の「〇〇支援員」みたいな人は配置されているので、それの一種として位置付けたら制度化もそれほど難しくはないだろうと思うのですが、発想としてイメージできる人や自らを開示して学校組織に飛び込む人がどれだけいるかと言う問題もあるのかもしれません。
フォローアップ体制の確保はとても大切だと思いますが、地域ごとに推進員が集まれたり、つながったりする仕組みやSVのような人がいれば何とかならないかなぁとか考えています。
そして、今週思いついたのが「認定少年自立学院」です。
これは、児童福祉施設である児童自立支援施設と矯正教育の施設である少年院をミックスした施設です。
最近、自立援助ホームをやっていて、少年鑑別所、保護観察所、家庭裁判所、少年院と法務関係の方たちとの連携がめっぽう増えました。
その中で痛感したのが、少年院の矯正教育や鑑別所の支援の充実ぶりとそのノウハウを地域活用ができないかという思いです。
つまり、非行や犯罪がないとそこを活用できないことが本当にもったいなくて、地域で若者たちを支援しているとその行動が地域社会の中があまりにも誘惑が多すぎ、自由すぎ、刺激が多すぎるがゆえに、安定した生活と必要なことを学ぶ機会を提供できなくて苦労するということが多く起こります。
その課題に対して、少年鑑別所や少年院の条件の一部分はとても有効だと思うのですが、福祉施設のように活用ができません。
それは、おかしいぞと。
だったら、福祉と矯正教育を併設にしたらよいではないか!とかねてから思っていました。
そこで、思いついたのが「認定こども園」の存在です。
厚生労働省の管轄である保育園と文部科学省の管轄である幼稚園を合体して、今では全国どこにでもあるじゃないか!と思ったら、そのロジックを応用できないかと思いつきました。
それが、「認定少年自立学院」です。
実際におそらく、昔から少年院に行く子どもたちは非行少年や加害者と言う立場で対象になりますが、それ以前に子どもとして権利を守られなかった利、保護を求めていたり、被害を受けた側面があるのです。
必要なのは保護であり、教育なのだと痛感しています。
本人がわかるように物事を学び、大人との信頼を少しずつでも積み重ねる経験はある程度、刺激のコントロールできる環境でなくては本当に難しいのです。
自立援助ホームにも「就労自立型」と「保護教育型」という二つのタイプを作ってもらいたい…と思っている今日この頃です。
どう考えても、現状の自立援助ホームは「就労自立」を前提にしています。
もう少し、本人の保護と教育を基礎から安心してできる保障がほしいと思うのでした。
妄想話ではありますが、とりあえず公言しておきます。
私はこれまでもいろいろな社会資源を作ってきたのですが、いつも「人間は、想像したこと以上のことはできない」「実現のための言いふらし作戦」という2つの行動をして、実現してきたという経験があるので、想像したことを言葉にして、多くの人に知ってもらう意味で書いてみました。
正しい税金の使い方をして、一人でも多くの子どもたち(本当はすべての子どもたち)が自分らしく、生活できる社会にしたいと願っているのでした。
再開と開発
経験談の募集が再開されました。
生きづらさに関する経験談募集のお知らせ (shinitori.net)
書いてみたい方はぜひ、応募してください。
先日、死にトリの運営会議でこれまで経験談を書いてくれた人からフィードバックをもらって、今後の事業運営の参考にしようと、簡単なアンケート調査を行いました。
これまで書いてくれた人300名弱の方にアンケートフォームを送ったところ、98名の方から回答をいただきました。
本当にありがとうございます。
貴重な意見をたくさん見ることができ、今日の運営会議でもオブザーバーの先生から「貴重な意見だし、事業評価の材料になります」とコメントをいただきました。
どんな思いで経験談を書いたのか、書くことでどのような効果があったのかなど、経験談を読んだだけではわからない気持ちやいきさつなどがわかりました。
そういったストーリーに心を動かされ、学び、気付き、今後のことをまた考えるようになります。
また、今後予定しているスタッフとの情報交換の場をどのように設けるのかも検討されました。
さらに貴重な意見が聞けるのではないかと思って、どのような方法や手順で進めたらさかしやすく、効果的な時間になるのか検討しながら準備をしています。
また、アプリの開発についても、段々、本格的になってきました。
今日はアプリの名前、オープニングの画面の構図イメージやリード文、アプリの展開、デザイン、機能や仕組みについて具体的に決める作業を進めていきました。
年度末ですが(年度末ならでは?)、慌ただしく、濃いスケジュールで詰め込んでいます(苦笑)。
そんな慌ただしい雰囲気ですが、今日はアプリのリード文を作っていてそのアイディアをめぐってかなり熱い議論がされました。
死にたいほどつらい気持ちを気兼ねなく記してもらう機会としての機能が主のアプリですが、オープニングで画面を開いた時に、なんという説明があればよいのか、どんな雰囲気だったら、使ってもらえるだろうかと協議した際に、支援してあげるという上から目線でもなく、一方的に利用してもらうというものでもなく、深刻すぎず、何かしら固定した価値観やトーンを固定化してしまわないように…と頭を悩ませました。
話を吐き出してもらうアプリなので、「言いたいことは吐き出してね」とラフに言ってしまえばそういうことなのですが、吐き出すという表演にはある種の強さがあり、逆に気軽さが薄らいでしまいそうとか
「言いたいことは、言ってもいいよ」と表現すると、何だか許可を求められるような印象になるよねとか
一つひとつの表現の持つニュアンスを吟味しながら、完成を目指しています。
アプリは5種類のトリさんたちが登場し、周囲にはなかなか言えない話をいつでもどこでも気軽に書き込めて、それにはトリさんからのコメントが返ってくる(つまり、リアルタイムでリアクションがある)というものです。
他にも困っていることをチェックすると支援先や関係機関などの情報を入手することができる機能もつける予定です。
情報提供の機能で私がこだわっているのは、単に社会資源を伝えるのならインターネット上にもいろいろあるので、相談する上でのワンポイントアドバイスと言うのか、知恵みたいなものを伝えたいなぁと思っていることです。
相談というのは、言うのは簡単ですが、実はけっこう難しく、相談することにより、さらに絶望したり、嫌な思いをすることも珍しくありません。
自分自身も思い当たる経験がいくつもあります。(よく思い返してみると、私がそこにこだわるのは、自分の相談したら嫌な思いをした経験の影響か?と今さら気付いてしまいました…)
でも、相談はかみ合うと可能性はたくさんありますし、人の力を引き出すので、相談をうまく使ってもらいたいという願いもあります。
さらには、相談は相談してくれる人とそれを受ける支援者側の協働によってどんどん効果が高くなり、共に成長するためのチャンスにもなるので、そういう意味で相談という場の力を発揮できるために何かできることがないかとあれこれ考えています。
年度末も徐々に迫り、追い込みのシーズンです。
自己意識のバランス
昨日は相談員研修の振り返りをしていて、「相手や周囲の反応が気になる」と言うことがテーマになりました。
若手の相談員さんが、相談の途中で相手に何を伝えたらよいかわからなくなって、考え込んでしまい、黙ってしまうことがあり、それがどうして起こるのか私はとても興味を持ちました。
相談員の研修でなくても、普段から周囲の反応が気になって、自己表現が素直にできないという様子はよく見ていました。
特に若い人たちにはそれがとてもスタンダードな反応だと感じていたので、自分の中で少し整理したくなりました。
何かをとても恐れているような、心配しているような感じがあったのですが、その対象が何なのか聞いていってもわかりません。
私は思わず「お化けみたいだね」とコメントしてしまいました。
実際にはそんなに怖がるもとなんかないのに、いるんじゃないかと恐れてしまう感覚です。
それって、自意識の問題か?と思って、自意識を調べてみると自意識というより学術的には「自己意識」(ひょっとしたら、自意識と自己意識は微妙に違うのかもしれないと思いますが)という概念があり、自己意識には公的自己意識と私的自己意識の2つがあることがわかりました。
公的自己意識は周りから自分がどう思われているか気にする意識。
それに対して、私的自己意識は自分自身が自分をどう思うかという意識。
そうなると、前述の相談員や若者たちは公的自己意識が強いってことになります。
私も公的自己意識はありますが、圧倒的に私的自己意識が高いように思います。
でも、どっちも薄いと言えばどうともいえるかなぁと。
そう考えるとSNSの世界は公的自己意識の世界だろうと思います。
公的自己意識は昔よりも今の方がずっと高いのではないかと思います。
おそらく、生活様式の変化が背景にあると感じています。
インターネットやSNSの普及で周囲から見られたり、評価する機会がものすごく増えました。
しかも、評価されるのはほんの一部の表面的なことであることが多く、その評価を得るためにものすごく労力を割く人たちも少なくありません。
死にたい気持ちにも、こうした自己意識の問題は関係しているのではないかと思っています。
人と深く関わることによって、自己意識が自己理解につながり、人への理解や社会への理解に発展して、社会的な成長につながるような気がして自分の中でぼんやりと仮説を立てています。
おそらく、自意識は人の成長には欠かせないものなのですが、それに見合った人との出会いや関わりが伴わないと誤作動を起こしたり、副作用を起こしたリしそう。
そういう意味ではバランスが崩れているのだろうと思います。
人が社会的な存在として成長、発達し、能力の協働性を信じて、平和に生きられる社会であるために、崩れたバランスを調整する取り組みが必要だと思っています。
そのためには、教育の在り方が変わる必要があるのですが、そこがいつまでも旧態依然していることに歯がゆさを感じています。
あまりこれからの夢も希望もないのですが、できるものなら学校をつくりたいとは思います。
今の世の中に絶望している人たちと、必要な学校について考えてみたいと思ってしまいました。
現実を見るために
私たちは釧路で若者たちの生活支援もやっています。
最近は新たに生活支援を活用する若者たちが、パタパタと増えています。
数日前はかつて援助ホームを利用していた若者が、少しのインターバルを空けてグループホームの利用者として帰ってきました。
援助ホームで暮らしていた時はお互いに何とかうまくやっていきたいと思っていながらも、お互いに力不足で疲弊してしまいましたが、間を空けて戻ってきたら、本人の成長が一番大きいと思いますが、前とは違って穏やかな気持ちで向き合うことができて、自分でも少しびっくりしています。
昨日は、マインドフルネスを教えてもらって一緒にやりました。
私自身、マインドフルネスが何たるかはちゃんと理解していませんが、自分の呼吸を利用し、心身をリラックスさせるための瞑想のような感じです。
最初にYouTubeで説明を聞きましたが、「途中で眠くなってしまったら、マインドフルネスをやるよりも先に寝て体を休めましょう」と言っていて、『これは、絶対に寝そうだ』と思っていたのですが、案の定10分ほどの瞑想の途中から意識が怪しくなり、最後には舟をこいでいました…
我ながら、寝る能力の高さを再認識して、笑ってしまいました。
今、このブログを書いていて、気づいたのですが、一緒にいて、お互いに嫌いじゃないし、頑張っているのにうまくいかず、煮詰まってしまった関係性は少し距離を置いて回復する…と言う話は、若者たちと家族の関係でよく聞く話で、同じことなんだろうと思いました。
お互いに憎しみあっているわけでもなく、それぞれにそれなりの努力をしても、うまくいかない時はうまくいかないし、そういう時にうまくいかないことを周囲から責められたり、自分自身でも責めたり、相手を責めたりしても何も起こらないし、余計にしんどくなるだけです。
そこに必要なのは距離や時間だったりするんだなぁと身をもって実感しました。
自分自身がいつもは外側から、煮詰まった家族関係から離れがたかったり、罪の意識を持ったり、後ろめたかったり、必要以上に後悔して苦しんでいる人たちに、今は距離や時間が必要だよと伝えることが多かったのですが、この体験でさらに実感が増しました。
だから、世の中の家族がもっともっと、気楽に距離をとったり、時間を空けたり、あるいは解散したりしてもいいのに、それを許してくれない、悪いことだとする空気がとても私は不自然だと思います。
解散したらとても不利益なことがあったり、後ろ指さされることが多くあるので、簡単ではないのですが、それができないがゆえに生じている不幸や悲劇はあまり注目されません。
むしろ、注目してしまったら権力や権威のある人たちの不利益につながるために、隠蔽されているかのように思うことすらあります。
今日は、福岡の大学の先生でかつて釧路にいた知り合いから依頼を受けて、子どもの貧困をテーマとした講座の講師を若者たちとしたのですが、そこでも当事者のリアルと多くの人たちに理解されているリアルのギャップを強く感じました。
どこか、理想の子どもや親子、本来そうであってもらいたい、こうあるべきであるという考えが現実を見る目を惑わせるのではないかと。
理想は大切で、時には原動力にもなりますが、理想が現実を見る目を曇らせ、現実が現実として浮上することを抑制し、結果的に無意識的に都合の悪いことは隠蔽することに繋がってしまっているように思います。
それだけ、私たちの中にある「べき」や「だろう」や「だといいな」は諸刃の剣であることを自覚し、悪い側面が出た時には注意することが大切だろうと思います。
そう言う意味では、一緒に活動している若者たちは、悪い面が出た時に気付く感度は鋭すぎて、今日も講座に参加人たちが「何度も、グサッ、グサッと刺される気持ちで聴きました」という趣旨のコメントされたのは、その点についてきれいに指摘を受けていたからだと思います。
私自身にとって、そうした言葉や指摘は戒めでもあり、リアルでもあり、自分の方向性を確認させてくれます。
一人ではなし得ない気づきと学びをいつももらっているからこそ、自分にも何ができるか考えることができていると思っています。
タレント養成
最近、一緒に仕事をしている若者たちと活動を振り返っていて、思いついたことがあります。
自分たちのやっていることは、一般的には支援の仕事で、周囲からは困っている人を助ける類のことをやっているように思われるけど、当の自分たちは、あまりにもしっくりこないのです。
むしろ、違和感しかなく、でも、実際には面倒を見たり、応援はしている、でも、人助けじゃない…
何なんだ!と言う素朴な疑問があったのですが、話していて分かったのは、「これは、タレント養成だ!」という理解でした。
まさに、そうなんですよ。
ちょっと前に、これまでの若者支援(といっても、若くない人も含めて)人生に行き詰ったり、他のところで馴染めなかったりする人たちの支援をしてきて、どんな人たちがどれくらいたのかを整理してみた時にも、同じことを感じました。
顔ぶれを並べて、何のサポートしたのかというのを書きだしていくと、暮らす場所を用意したり、相談にのったり、手続きに同行したり、いろいろするのですが、それ以上に「活躍する場」と言えば聞こえはよいですが、どうにかして手伝ってもらおうと思っていることに気付きました。
つまり、社会資源になってもらうためにはどうしたらよいかを常に考えているのです。
私の脳内は、これまでの活動や仕事から見つけてしまっている社会の中の課題をどうやって対応しようかといつもくるくるしていて、とりあえず、目につくニーズに対して、どうしたら、そのニーズに応えられるのか?ということを、シミュレーションしています。
そこには必ず人的資源が必要になるわけで、そうしたことをどうにかやってくれる人はいないかと考えているのです。
そんな中で、相談や支援の場で出会う人は支援する相手としてみる間もなく、知らないうちにすぐに「この人はどこで使えるのか?」と思い始めてしまいます。
既存の現場でできそうなことがあれば、すぐにやってもらいますし、すぐに活躍できそうなところがない場合は、何とかしてどこかに創り出せないかと思って、創り出します。
そしてまた、相談でやってくる人たちは他の人たちにはない素質や個性をたくさん持っていて、貴重な人材になることが多いのです。
そのマッチングがうまくいくと、今までできなかったことや諦めていたことができたりするので、くせになります。
そうした動きはまさに、個性的な才能の原石を持ったタレント候補をスカウトして、そのタレントが才能を発揮できるように生活の面倒を見て、育てて、輝く舞台を用意して…人材のプロデュースしてるってことじゃないか!と気づいたというわけです。
そう思いついたら、普段やっていることの意味や意図が面白いほど理解できてきて、すっきりしました。
死にトリスタッフのまさにタレント揃い…みんながそれぞれの個性を発揮しているなぁといつも思います。
つらチェックでも、しばしば「一緒に活動しませんか?」というコメントがあるのは実は冗談でなく、結構本気でスカウトをしていたりします(笑)
経験談の感想でも、「話をしてみたいです」とか「会ってみたいです」とか書いている人は多いですが、それも書いている人は違えど死にトリスタッフのマインドとしては「タレントになりませんか?」という思いだったりします。
学校に相談に行っているときは本気で、「今の社会で学校に行きたくないと思う人は、だいぶまっとうな人だ」と思っていましたし、死にトリを始めて、「今の社会で死にたくなる人は、だいぶまっとうな人だ」という気持ちが強くなるばかりです。
そういえば、話は変わりますが、昨日は若者たちと継続して取り組んでいる通信セミナーの勉強会で「感情とは」というテーマで本質観取をしました。
感情は、ある種の生理現象と言えるのではないか、そしてしばしば扱いにくく、行動や思考や人間関係に大きく影響を与えるものだとの話がありました。
話しているうちに、感情は排泄する必要があるという話題で盛り上がり、感情のトイレをどのように持つか?と言う比喩で議論が整理されました。
先日からこえサーチが第8弾「泣ける映画」が募集スタートしてます
が、昨日の議論を整理して、次は「感情」をテーマにこえサーチができないかと考えたりしていました。