新サロン日記改め「死にトリ日記」

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つながりの力

本当に毎日が早く過ぎます。

 

もう少しこまめにお届けしたいと思っているブログですが、恥ずかしながら日々に追われるのが通常となっています…

 

今週は金曜日に仙台にてリアル居場所東北開催、翌日から土日で東京でリアル居場所と死にトリの事業も佳境を前にしています。

 

東京居場所は関係事業との連携もあり、また、サイトからつながった人たちからもそれなりの反応があり、今のところ申し込みが確認されている人だけで60名ほどになりました。

 

借りていた会場がパンクしてしまう!と焦り、慌てて追加の会場を借りる計画を立て、無事に確保することができました。

 

ただ、当日の会場は地元ユーザー優先の施設らしく、申し込みの一切は登録している団体のネット申し込みか、それ以外は現地に出向いての申し込みしかできない仕組みとなっていて、電話で確認したときは「空いています」と言われたものの、実際の申し込みは現地…ということで、もちろん、北海道からすぐに行けるわけではないですので、現地近くの仲間にすぐに連絡をしました。

 

すると、連係プレーで動いてくれて数時間後に無事、申し込み完了との知らせを受けたところです。

 

また、今日は明日からの研修2日間のため北海道北見市にやってきたのですが、今日の夕方に予定していた事前打ち合わせの会場を実は確保していないことが予定時間の3時間ほど前に発覚。

 

慌てて、研修でファシリテーターとして協力してくれる地元の関係者に電話をして、大きな施設の会議室を貸してもらうことになり、その日集まる予定の他のファシリテーター陣へ変更の連絡をするのに、これまた他の仲間に連絡すると「いいよ」と快諾してくれ、おそらく10分程度で「全員に連絡終了」と連絡を受けました。

 

どちらにしても、フッ軽の仲間たちのおかげで困難な局面を乗り越えることができました。

 

人の力というのは実に不思議なものです。

 

自分ができなくても、できる人とつながっていると結果としてできることが増えます。

 

実は、一人の人間の出来ることなんてどんなに能力の違いがってもそれほど違いがあるわけではないと思っています。

 

無人島に放り出された場合に生き抜けるかと言うと、誰もが苦労しそうだし、もっと言うと、海に放り出されたら誰もが死んでしまうような非力な存在です。

 

それが、勝手に私たちが決めた基準や枠組み、価値観のなかで優劣がある気になってしまい、それに深く悩んだり、傷ついたり、傷つけあったりしてしまいます。

 

そこにエネルギーを使ったり、悩むのならば、どうやってできないことを補い合えばよいか、できないことを認めて、つながることでできるようになる可能性を広げたいと思います。

 

また、できるできない、稼げる稼げない、評価される評価されないということじゃないところで、みんなが自然に感じる喜びとか、わくわくすることとか、逆に悩んでしまうこととか、困りごとを出し合って、そこを一緒に考えることで生み出される社会性や協働性の産物について共有したいと思います。

 

どうやったら、私たちはもっと協力し合ったり、認め合ったりできるのか。

 

ずっと、考えています。

 

困った場面で助けてもらえたことで、嬉しい半面、逆のこともたくさんある現実について考えてしまいました…

 

週末に向けて、東京居場所が意義ある機会になるように運営側も何とか頑張りますが、同時にたくさんの方の力を借りようと思います。

相談の出口を創る

ここ数日、複数の締め切りのある仕事に追われまくっていて、本当に時間に止まってもらいたかったです。

 

まだ、残っていますが、少しだけ落ち着きました。

 

大きな山だったのは、今やっている死にトリの事業にも関連する次の事業について助成金のための申請書作成でした。

 

死にトリがやっているネットの居場所ポータルサイトができたのは、SNSによる相談が広がったことが背景にあります。

 

その前に、よりそいホットラインのように365日24時間の何でも相談が広がり、それまで相談や支援につながりにくい人たちが支援につながる機会が広がったこともあります。

 

こうした動きは、生活に困りごとがある人たちへの相談支援で考えると「入口」が広がったと言えます。

 

役所の窓口とか、専門的な○○センターとか、そういったところは敷居が高くて行きにくかったり、何をどうやって相談していいかわからなかったり、かつて言ってみたけど全然相手にしたもらえないとか、逆に説教されて帰ってくるとかそういう経験をした人も少なくありません。

 

また物理的に言うと、9時から17時までしかやっていないところが多いし、土日はお休みが多いので、働いている人が行こうと思っても都合が付きにくいです。

 

そして、場所の問題もあります。

 

近くにあればよいですが、遠ければ行きづらいです。

 

日本は広いですし、私たちのいる北海度はさらに広域な地域なので相談できるところまで行くのに数時間もかかるなんてことも珍しくありません。

 

さらに、今死にトリに来てくれる人たちの多くのように子どもだったり、若年だったり、自分で自由になるお金や時間や行動がとれない時にそうした場所へ相談に行くのはものすご~く心理的にも物理的にもハードルが高いことは想像に難くありません。

 

そんな時に、フリーダイヤルの24時間365日のいつでもかけられる電話相談は格段にハードルが下がります。

 

夜中でも土日でも、かけることができますし、かけてみて嫌だったら切ったらよいのです。

 

さすがに対面相談で言ってみて嫌だから帰ってくるのは勇気やエネルギーが必要となりますが、電話なら切ることもできるし、ちょっと気を悪くしたり、文句を言うことも対面よりは言いやすいかもしれません。

 

しかし、SNSの相談に関わってみて電話をかけることにもハードルがあることがわかってきました。

 

一つは話すことが難しい人。

 

いくつかの例がありますが、「声を出すことに何らかの支障がある人」です。

 

よくあるのは、声に出して相談すると周囲の人に聞かれてしまうので、危険や悪いことが自分に降りかかってくる場合です。

 

家庭で暴力を受けていたり、行動制約を受けていたりする場合に、声を出さずに誰にも気づかれずにひっそりと相談できるSNSはものすごく有効です。

 

あと、何らかの事情で話すことが苦手な人がいます。

 

言語の障がいがある方、緘黙の方、自閉症などの発達障がいでしゃべることで表現することが難しく、文字でのやりとりの方が断然得意な人、それに不安や緊張が強い人とか、刺激に弱い人とか、いろいろな事情があります。

 

そんなこんなの事情があっても、手軽に使えるのがSNSを活用した文字による相談だと思います。

 

私は昭和のアナログ人間なので、頑なに「スマホにはしない!」とガラケーを使い続け、スマホにしても、「LINEのイヌになんてなりたくない」と言って、やっていなかったのですが、諸々の事情により1年ぐらい前から使い始めましたが、使ってみるとそれなりに便利だし、SNSによる相談について知れば知るほど、メリットはあるなぁと思っています。

 

さて、前置きが長くなりました。

 

そうやって相談=「入口」が広がったことはとてもいいことですし、歓迎されるべきことです。

 

でも、相談支援にとっては「入口」と同時に「出口」がないと、支援としては成立しないという宿命があります。

 

もう少し厳しく言うと、「入口」ができるほど、それに伴った「出口」がないと、単に絶望が広がるだけ…ともいえるわけです。

 

助けてもらえると思ったのに、助ける方法がありません… とか

 

期待をしたけど、話を聴いてもらっただけで終わり…  とか

 

誰もわかってくれないという思いが強くなったり…  とか

 

次の道や希望が少しでも見えなければ、何のために相談をやっているか、相談のために相談をやっても意味がないのです。

 

そして、残念ながら今の日本社会においては、出口についてはまだまだ不十分であり、なおかつSNSに相談を寄せてくれるような人たちの役に立ちそうなものが本当にないのが実情です。

 

その代表的な存在は「安心して家出ができるところ」

 

若者たちと活動をし始めてからず~っとこの希望が出ていて、あちこちで言いふらしているのですが、まだまだ注目を浴びたり、制度化や増えるような動きになる気配がない…

 

ということで、私たちは釧路で試行錯誤で他の制度をうまく組み合わせたり、補助事業や助成金などを駆使して、あれこれ取り組んできて、実際にそこでつながった若者たちが死にトリの運営にも関わっているいうわけです。

 

なんだかんだとやれる範囲でやってみると、意外としっかりとした「制度」があるよりも、お金もあまりなくて、知恵を絞る必要があって、しかも人手なんていないし、専門職ももちろんいないし、ノウハウもないから、そこにいる人なら誰でも使うしかないのす。

 

かくいう私は相当にひと使いが荒く、私の周りにいる人はもれなく何かをやらざるを得ない状況になります。

 

しかも、最近は使える人は誰でも使うぞ精神(単に人手がないからやってもらうしかないのですが)が増している気がします。

 

でも、そういった無茶ぶりがけっこう、みんなを元気にしたり、力をつけたりする結果にも結び付いたところもあり、一定の効果もありそうなので、今回の助成金では、入口のハードルが下がったことによって必要度が増してきた「出口」をどう作るのか、そのモデル事業と制度化に向けてのプランを書いていたのでした。

 

私としてはかなりの本気モードです。

 

申請書を書きながら、この10年間は同じようなことを考えて、必死にとりあえずあるもので何とかやってきましたが、無理をして何とかやってきたことにより、失ったものや犠牲にしたこともたくさんあったし、何より制度にはない隙間の事業は存続が難しく、必要だと思っても存続できずに来たことに敗北感があります。

 

それは、自分ができなかったことへの敗北感というよりも、多くの人たちに理解してもらうとか、力や知恵を貸してもらうには力不足だったというのか、当事者のしんどい思いがまだまだ伝わっていないことへのもどかしさみたいなものです。

 

だから、今回の助成金は当初は若者たち中心に任せようと思っていたのですが、若者たちにはまだまだ太刀打ちできない仕事だったこともありますが、短期間で申請書作成の役割が回ってきて、必死に書いていると、いろいろな思いやこれまでの取り組みを振り返ったり、いろいろな若者たちの存在が思い出されて、改めて必要性を再確認する貴重な機会になりました。

 

この思いが通じて支援をしてもらえることになればいいのですが、もしも、助成金をもらえないとしても、自分の立ち位置とか、必要なビジョンややるべきことを理解確認するいい機会になったので無駄にはなりません。

 

もしも、思いが届いて支援を受けることができるようになった時にはここからもいろいろと発信していこうと思っています。

 

あ、ちなみに相談は「入口」と「出口」があればよいというものではありません。

 

「入口」と「出口」の間にたくさんの「たまり場」「居場所」が必要です。

 

死にトリも居場所の役割を意識していますが、そのあたりについてはおいおい、また語りたいと思います。

チャット機能をリニューアル中

昨日からチャットの利用について、変更しました。

 

今、新しいシステムへの移行の準備をしていますが、関係機関や専門家の助言、指導もあり、これまでのスタイルでのフリールームの開放は終了しました。

 

https://shinitori.net/docs/?p=446

 

また、交流のためにコミュニティのようなスタイルで情報交換できるページを作る予定です。

 

管理と機会保障の間で大いに議論や考えさせられることがありましたが、新しいスタイルが決まりましたら、またお知らせします。

 

管理体制を強めて、不適切な利用を取り締まるのではなく、できるだけ自主的な学びあいや配慮で成り立つような方法はないかと模索してきたのですが、力不足です。

 

そもそも、サイト上のつながりでの学びあいや配慮には限界があることを痛感します。

 

サイト内を本来の事業の趣旨に合うように、リニューアル中なので、今後ともよろしくお願いします。

 

 

怒られるのはイヤです

死にトリのスタッフブログが少しずつ、アップされつつあるので、紹介します。

 

シマリスの自己紹介が超面白かった(と言ったら怒られますよね。本人大真面目に書いているのですから、ごめんなさい)ので、リブログします。

 

かれこれ1年近く、シマリスさんと仕事をしていますが、「そんなに怒られてたんだ…」としみじみしました。

 

確かに忘れっぽくて、しばしば考えられないような見逃しや抜け方をしますが、それで結構みんなの雰囲気がよくなったり、笑いをもたらしたりします。

 

私はどんな失敗しても「許し合い、カバーし合えばいいじゃん」と思っています。

 

自分も全然完璧に仕事ができなくて、いつも忘れたり、抜けたり、期日を守れなかったり、間違ったりしています(そのほとんどが多くの仕事を抱え過ぎていることが原因ですが)。

 

それで、何かあってもとにかく謝って切り抜けてきました。

 

そして、たいていは結構許してもらえました。

 

でも、最近はだんだん勝手が違ってきていることに苦しくなります。

 

不当に責められたり、陰口を言われたり、批判されたり、けっこう、真面目に一生懸命やっていることなのに、それを理解してもいない人に言われるのは本当に悲しくなります。

 

だから、自分は責められたり、怒られたりするのが嫌なので、できるだけ一生懸命、誠実にやっている人に対して一方的に怒ったりしないようにしています。

 

でも、時々、怒られます。それはとても悲しいことです。

 

だから、やっぱり怒らないで、理由について話し合ったり、次にどうしたらよいかを考えたいと思っています。

生きた人権のはなし

今年は雪が少ない北海道です。

 

とはいっても、ここ釧路はもともと雪が少ないです。

 

北海道以外の方は知らない人も多いのですが、北海道だから雪が降るというわけではないのです。

 

釧路を含む東側の特に南の方(つまり北海道の南東部)はあまり雪が降りません。

 

単に寒いだけで、雪と言うより冬は「しばれる」「凍る」という感覚です。

 

でも、今年は札幌の方も雪が少なくて、雪まつりを前に雪不足でハラハラしたり、スキーやスノボが好きな人たちにとってはちょっと困った冬になっているのではないかと思います。

 

さて、数日前から死にトリの若手スタッフがブログをはじめました。

 

https://ameblo.jp/shinitori2020/

 

始めたいきさつや理由については、サイトで紹介されています。

 

https://shinitori.net/docs/?p=440

 

私のこのブログは10年近く続けていたのを復活させたのですが、前はわりと気楽に緩く日常について発信していたのですが、今回は死にトリの活動を正しく伝える趣旨があるので、実はいつも緊張しながら書いています。

 

文章表現は文字で残りますし、伝えた内容が誰かのことを傷つけるかもしれないとか、誤解されたらどうしようとか、あれこれ考えてしまうからです。

 

もう10年以上たってしまいましたが、2009年に本を書いた時にはそれはそれは緊張して、書くと決めて、本格的に書き始めてすぐに本気で病むのではないかと不安になりました。

 

もっとも、私という人間がちょっとぐらい偉そうなことや間違ったことを言ったところで、誰もそんなに思っちゃいないよ、自意識過剰だろうと言われてしまえばそれまでなのですが、自分の中では社会的な役割として自分でみたこと、体験した「リアリティ」をできるだけ有効に伝えたいという意識があるので、自分勝手に気にしています。

 

最近、哲学系の本を読んで勉強する機会が増えていますが、最近読み始めた本の中にいわゆる「リアリティ」という感覚に近いものを見つけましたので、引用して、紹介します。

 

(「人権は二つの顔をもつ」 金泰明著 第1章人権の視点を変更せよ 16~17ページ)~~~~~~~~~~~~~~

 

 人権を奪われている人びとや社会的弱者たちの人権こそが、真っ先に回復されねばならないという主張には、一理あることも確かだ。

しかし、それはまずは法や社会制度によって保障すべきものであり、政策のありようの問題であって、他者の人権の優先を個人の道徳的行為の原理とすべしというのは、いささか無理があって現実的ではない。

よほど殊勝な心がけの人ならともかく、世間一般の人間、つまり私やあなたが、いつでもそのようにできるわけではない。

こうした道徳的な説教を前にして、今日、多くの人びとは、違和感を抱いてたじろぎ、次第に人権を建前と本音にわけてとらえるようになっている。

 

 私が思うには、人権を道徳や義務として考えること、すなわち、自分よりも他者(弱者)を先に考え、ひたすら他者の声を聴けというのは、いわば「死んだ思想」である。

もし、いつでも自分より相手のことを優先すべきなら、あるいははじめから他者の言葉の中に真実や判断の根拠が優先的にあるならば、人はそのような「はじめに結論ありき」の事柄に対して、自分が考えたり判断したりする動機や理由を見いだせない。

つまり、そこでは自分の感じ方や考え方が後回しになり、自分の生活や人生に深く関係する事柄として「生き生き」と考えることができなくなるのである。

もはや、それは「死んだ思想」というべきであろう。

 

 人権が社会や個人に根づくためには、こうした道徳的な観点にもとづく主張とは違ったアプローチが必要だ、と私は考える。

それは私流にいうなら、人権を哲学としてとらえることである。

いわば、道徳から哲学への、人権の視点の変更である。

それは、人権をよそよそしいものから親しいものへと立て直すことだ。

すなわち、人権を「死んだ思想」から「生きた思想」へと、本来あるべき場所へ取り戻すことである。

「死んだ思想」とは、さまざまな事柄を、自分自身の生活や人生に関わる「生きた問題」とは考えずに、避けてやり過ごすことだ。

「生きた思想」とは、諸々の出来事を自分自身の「生きた経験」として感じ、考え、判断できることである。

 

「人権を哲学する」ということに、私は特別の意味合いを込めている。

世間では久しく、哲学は真理探究の学とみなされてきた。

が、私の考えでは、哲学とは、心理と追究する学ではなく、〈私〉の生活と人生を豊かにするアート〈技法〉である。

多くの人びとにとって、哲学は世間や世事から遊離した別世界の学問に映る。

哲学は、一握りの学者や専門家たちが難解なことばを操りながら、「真理」や「善」や「理想」についての議論ばかりをしてきたからだ。

しかし本来、哲学は人間が生きる上で役立つものであり、人生を豊かにする技術であるはずだ。

人は誰しも、生きるための〈思・想〉の力を具えもっているのだ。

 

人は、自分がもつ〈思・想〉の力によって、哲学をアート〈=技法〉として、生活や人生で使うことができる。

〈思・想〉の力とは、思考力と想像力である。

〈思〉の語源は「田(あたま)+心(心臓)」で、自分の頭で考え、心で感じることだ。

もう一つの〈想〉の語源は「木+目+心」で、木という対象を目で見てとらえること、つまり、自分の外側の世界や他者を知ろうとすることだ。

〈思〉いは、自分を大切にすることであり、〈想〉いは、他者を理解しようとする心の働きのことである。

よって、〈思想〉とは、人と人とが共に生きていくための条件と可能性を探り出す営みである。

 

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私自身は若者たちとやってきたフィードバック研究会はやっぱり哲学だったんだなぁと納得しました。

 

しかも、それは生活や人生に役立つことだと信じていたし、実際に役立ちました。

 

死にトリのサイトは「死にたい」という言葉をあえて「死にたいのトリセツ」と表現していますが、死にたい気持ちを突き詰めて考えるということはつまり「自分らしく生きること」について考え抜くことだし、自分らしく生きたいけど生きられないからこそ、つらい思いや死にたい気持ちを感じてしまうのですから、それをみんなと一緒に考えたいと思っています。

 

結局は金さんも書いていますが、「人と人とが共に生きていくための条件」を考えたいのだろうと思っています。

 

この人権を哲学する本を読むのと同時に、人間が社会的に持っている「社会的優位性チェック」というものの開発をしています。

 

私たちはある一定の評価尺度の社会で生きているため、立っている位置に違いが生じ、それが格差となります。

 

つまり、社会的にどうしても生じてしまう格差や優位性を自覚したうえで、自分のふるまいや影響力を考えてみようというものです。

 

支援者が無自覚に立場を振りかざしてしまったり、自分の立っている場所からのスタンダードをあてはめてしまうことがあるので、そのリスクについて意識できるものとして作っているところです。

 

ちょっとおおざっぱな説明ですが、社会的な格差が生じる競争社会では「普通にしているだけで抑圧してしまう人」と「普通に生きているだけダメージを受けてしまう人」がいるのです。

 

それはみんなが想像するよりもはるかに、格差があります。

 

死にトリのサイトに来る人たちの多くは「普通に生きているだけでダメージを受けてしまう人」だろうと勝手に思っているので、そういった人たちがチェックするとたくさん点がもらえて(最高点が120点)なので、「生きてるだけで120点!」という言葉を送ろうということになりました。

 

それに対して、意識しないと「普通にしているだけで抑圧してしまうリスクがある人」はその無自覚に持っている要素でどんどんマイナスが累積していくものです。

 

ちなみに、私は-50点になりました。

 

女性であったり、負っている責任、マイノリティ要素も多少はあるものの、条件には恵まれている部分が多くあるので、その優位性にはいつも気を付けたいと思っています。

 

とはいっても、配慮が行き届かないこともあり、おそらく無意識にダメージを与えることもあるかと思います。

 

それでも、できるだけ意識したり、生きてるだけで○○点の人から話を聞いたり、関わり合いや話し合いを通じて共生するための道を探りたいと思っています。

 

社会的優位性がやっかいのなのは、持っている人は持っていることに気づかないことです。

 

それにできるだけ気づいてもらうようにチェックを試作しています。

 

サイトで紹介できるものになるかどうかわかりませんが、機会があればお伝えしたいと思います。

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