新サロン日記改め「死にトリ日記」

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心の育ちの土台

昨日、オンラインの研修に参加しました。

 

タイトルは「発達障害と愛着障害」~複雑性PTSDの理解と支援~ということで、今自分が現実で深く関わり、悩み悶えているテーマです。

 

昨年の10月に若者たちと取り組んでいるプロジェクトの講師として釧路に招いたえじそんくらぶの高山恵子さんがタイムリーに紹介してくれました。

 

講師は今から28年前に私を救ってくれた(と当時の私はそう思った)児童精神科医の田中哲先生です。

27年前の手紙 | 新サロン日記改め「死にトリ日記」 (ameblo.jp)

 

当時1歳半健診で発達の遅れを指摘された長女について、保健師さんに促されて受けた療育相談の場で、専門医から、自分なりの子育てを否定されるという出来事に呆然と途方に暮れていたときに、自分を取り戻させてもらいました。

 

前回のナラティブ理論でいくと、ナラティブを聞いてもらえず、受け入れてもらえず、否定されて自分を見失っていたところから、ナラティブを受け入れてもらい、自分に戻れたという経験だと思います。

 

昔は北海道にいた先生ですが、随分と前に本州へ行ってからは、会う機会もなく、リモート越しですが、おそらく10年以上ぶりでした。

 

でも、変わらず子どもの味方、親の味方、そして、どんな人のナラティブも受け入れるという意味では変わらない信念とたくさんの臨床経験から積み上げた話は今の自分にとってはタイムリーでした。

 

人の心の育ちには3つの骨組みがあること

 

① ⾃分に気がついてくれる⼈は必ずそばに『いてくれる』こと
(養育者の being への信頼)  ➡ 社会性と対⼈⾏動 


② ⾃分は『良い存在』として扱われていること
(⾃分の being への信頼)➡ ⾃尊感情と⾃⼰受容 


③ ⾃分と⼤切な⼈との間に肯定的な相互性があること
(相互性の気づき)➡ ⾃⼰抑制と⼼理的な安定

 

うんうん、わかるわかる…

 

そして、それぞれ幼児期、学童期、思春期、青年期、成人期に具体的にどのような力が身に付いていくのか、説明されて、ますます「うんうん、わかるわかる」という納得感

 

そして、そうした骨組みを持った成人が親になって子育てをするので、心の育ちの骨組みが連続的な存在になり、影響を与えることも今の社会のいろいろな課題に触れるにつけ、痛感することです。

 

子育てのためには①コミュニティの中で子どもを育てる社会性と②子どもの要求に安定して対処できる自己統制と③養育者として自分を子どもに提供する自尊感情が必要とされ、それらが子どもの養育者への信頼、相互性への気付き、自分への信頼へとつながっていく。

 

これだけを伝えると、「やっぱり、親の問題じゃないか」と誤解を受けそうですが、そうではないのです。

 

①で言うと、子育てをコミュニティで行うという制度も仕組みも、思想もなく、どちらかというと「親が育てるもの」という丸投げが前提になっているという問題が潜在化しています。

 

親ガチャなんて言葉がありますが、それが言われる社会は児童福祉が機能していない国だという証拠なのですが、そこへの手立てはなかななか進みません。

 

また、②の自己統制や③の自尊感情においては、どこの地域のどの家庭から生まれた子どもであっても、安心して大人になっていく多様な環境が整っていないし、教育でも大切なことを教えてくれない、社会制度や社会保障の問題が大きくあります。

 

それはつまり、今日の講演のテーマである発達障害や愛着障害の問題に対する問題意識や対応や支援が不十分なので、まずは正しい理解をしたうえで、何が必要で何ができそうか考えようというものでした。

 

社会性、自己統制、自尊感情の困難は生まれつきの発達特性によるものもあるし、育つ環境によっても起こります。

 

それらは、どちらがどちらというよりもむしろ複雑に絡み合いながら影響を及ぼすというのが私自身の経験からもわかります。

 

どちらが先か、どちらがどうと言うことはあまり関係なくて、現実に困っていることについて理解して、できることは何か考え、やってみることが大切だと思っています。

 

そのためにはまずは正しい理解が必要なのは必然です。

 

ところが、現実的には正しい理解がされていないのです。

 

発達障がいも愛着障がいも正しい理解がされていないのですが、暴力や抑圧状態にいた人たちに起こる症状である「複雑性PTSD」と生まれつきと環境が絡んで起こる「発達性トラウマ障害」の理解についてもまだまだ知られていません。(複雑性PTSDと発達性トラウマ障害はほぼ重なる状況を少し切り口を変えて表現しているものだと私は理解しています)

 

今日の研修ではこの辺りを詳しく説明してくれたので、私としてもすっきりしたと同時に、多くの人たちに理解してもらいたいなぁと思っています。

 

DSM-5の診断基準においてPTSDの症状は以下の5点です

 

①   ⾼度に外傷的な状況を体験・⽬撃・直⾯
②  反復性・侵⼊的で苦痛を伴う再体験の感覚・錯覚・幻覚・解離性フラッシュバック
③ 外傷と関連した刺激の持続的な回避(想起不能・孤⽴感)
④ 覚醒亢進状態(睡眠障害・焦燥・集中困難・過度の警戒・過剰な驚愕)
⑤ ②~④の持続期間が 1 ヶ⽉以上で社会的な機能障害が起きている

 

PTSDについては、これまでもハーマンの「心的外傷と回復」の本で若者たちとたくさん学んできました。

 

こうした症状についてはフロイトが女性のヒステリー(当時はそう呼ばれていた)の臨床において性暴力の存在に気付いたのに、当時の権力に封じられたと言われています。

 

その後、本格的に世の中に認められたのはベトナム戦争の帰還兵が同じような症状があることがわかり、アメリカで国家的な研究や支援体制への政策が進められました。

 

性被害の女性の問題は封じられ、戦争から戻った男性の課題になると社会制度になる歴史にジェンダーや性差別の根深さを感じながらも、今もあまり変わっていない実態を繰り返し見聞きするので、どうにかしたい気持ちとどうにもならずに見えないところで深刻化する実態を目の当たりして、ジレンマは年々強くなります。

 

そして、子どもの虐待や長年のDVなど長期にわたり、反復的に受ける暴力から来るPTSDを複雑性PTSDと言います。

 

ハーマンが理論を整理しました。

 

先ほどの5項目に加えて以下の3点の特徴があります。

 

・感情のコントロールに関する重度で広汎な問題。ささいなストレス因への情動的反応性の亢進、 
情動・⾏動の暴発、⾃⼰破壊⾏動、ストレス下での解離、情動⿇痺など


・⾃分は取るに⾜らず価値がないという思い込み。ストレス因に関する恥辱感・罪責感・挫折感


・⼈間関係を維持し、他者と親密な関係を結ぶことの困難。⼈との関わりや対⼈交流の場に対する 
回避、軽蔑、無関⼼

 

そして、私自身もちょっと前から注目していてまだあまり出回っていない概念が「発達性トラウマ障害」で、今日はその説明もありました。

 

これは、心の育ちが発展途上にある子どもが心に受けた外傷を受けて、それを取り込みながら、心が発達していく中で調節機能に障害が起こるというものです。

 

1)   1 年以上、暴⼒場⾯や養育者の不在に晒される
2)   情緒や⾝体の調節障害(dysregulation):感情の切り替え困難、感覚の過敏・鈍⿇etc.
3)   注意⼒や⾏動の調節障害:危険察知ができない、衝動的・⾃⼰刺激的⾏動 etc.
4)   ⾃我と関係性の調節障害:低い⾃⼰評価と極端な対⼈関係⾏動

 

複雑性PTSDも発達性トラウマ障害も、どちらの症状も日常生活、対人、社会生活を困難にさせ、自立を阻害するものばかりです。

 

そのことによって、自立がうまくいかないのは当然と言えば当然です。

 

なかには、「私もひどい目に合ったけど、それを克服して頑張っている」という人がいたり、「特に私は暴力を受けたわけでもないし…」「そんなに過酷な経験はしていない」という人もいますが、何でどれだけダメージを受けるのかは人によって違いますし、その経験からの回復や自立のための要素もとても複雑多様です。

 

また、持っている気質や特性によっては、通常に生活するだけで十分に暴力を受けている状態になることもあります。

 

発達障がいにより、苦手なことや苦痛なことが多いのに、みんなができているという理由で無理やり集団適応を迫られたり、セクシュアリティが他の人と違う中で、マジョリティから否定的なメッセージを浴び続けるとか、自分は直接経験していなくても、目の前で暴力が繰り返されたりしても発達途上の子どもにとっては想像以上のダメージになることもあります。

 

つまり、大切なのは自立が困難な人がいるとしたら、その背景は千差万別だし、そこ困難からの回復や自立のための手立てもまた、千差万別で比較はできないということ、そして、もっとも大切なのは一人ひとりの困難さにはそれ相応の理由があるということです。

 

自立が困難という状態だけ見ると、さぼっているとか、その人の努力不足だとか、自己責任だとか言われそうですが、それだけの背景があり、それをどれだけ理解し念頭に置いて、そこから自立に向けて進むだけの環境づくりや条件整備などの支援策を準備する必要があるのです。

 

少なくとも子ども時代に受けたダメージや保障されなかった機会は大人になってからも保障されるべきだし、それが社会保障の役割だと思います。

 

それなのに、現実としては自立のためには過酷な労働市場に出ることを強いられたり、さらなる我慢や忍耐や自己犠牲を強います。

 

それができる人こそ一人前だと、言わんばかり。

 

そんな馬鹿なことはあるか!と叫びたくなりますが、それは社会的地位を持っていて、決定権や権限を持つ立場の人たちの多くがたまたまラッキーな状況にいる人だったり、苦労や努力をしたとしても、苦労や努力ができる育ちの土台があったからだということに気付いていないからです。

 

気持ちとしては、気付いていない人の首根っこ捕まえて「ほら、ちゃんと見ろ、分かれ!」と命令したくなりますが、強制と押し付けの悪循環になってしまいます。そこから生じる反感は望んでいることと逆の方向にしか働いてくれません。

 

ここはシンプルに、私が講座で学んだ内容つまりは「人の心の育ち」というものについて、誰もが無関係ではないと、幼少期から学校や地域や家庭の中で学んだり気付いたりする機会が自然にあるとよいのにと思います。

 

そして、子どもたちに関わる仕事をする人、また支援に携わる人たちが、人の育ちや今の子どもたちが育って行く環境の危機について、そして自分たちにできることがあることを考える機会があることが大切だと思います。

 

講座のまとめで、ハイリスク状況にある養育者と子どもへの支援で3つのことが話されていました。

 

1つは、当事者が「自分たちが置かれている状況の振り返りをすること」があげられていました。

 

経験談の募集や公開はこれと重なります。

 

また、私が実際に出会う若者たちと繰り返し行ってきた自分のヒストリーを語ることもそれにあたります。

潜在能力に働きかける対話 | 新サロン日記改め「死にトリ日記」 (ameblo.jp)

 

もう1つが『自分であること』(being)への気づき、つまり自分という存在に気付き、それを引き受けることというふうにとらえました。

 

その中には「doing(行動)には必ずbeing(存在)の背景(自分の歴史・自分らしさ)がある」とされていて、それに深く共感し、そのことだけでもいいから理解する人が増えていくことが大切だと思いました。

 

支援者向けの研修でも最近では繰り返し「暴力抑圧被害の理解と対応」について伝えるようにしています。

 

そして、もう一つが「育つ/育てる生活のサポート」はまさに今、その生活のサポートを何とかしようともがいています。

 

さかのぼると2003年ぐらいから児童相談所から施設退所後の児童施設退所後で行き場のない若者たちへの生活の場の提供から始まり、その後にSSWで出会った中高生を釧路に連れてきて暮らす場所と食事、生活支援を提供し、いろいろな人たちの力を借りながら進めてきた取り組みから、約4年前からスタートした自立援助ホーム、グループホーム、下宿と地域支援を組み合わせたコミュニティホームの取り組みにつながってます。

 

コミュニティホームでは昨年から新たな生活のサポートとして小学生二人が一緒に暮らし、お母さんへの自立支援もいろいろな人たちの力を借りながら模索しています。

 

そして、昨年の秋からは自ら育ち直そうとする若者たちとの共同生活を始めました。

 

そうは言っても、私自身、若者たちとの共同生活を始めてから苦悩や現実の壁にぶつかる連続で、つい先日も自分自身でどこまで何をやったらよいのかわからなくなり、ちょっと立ち止まっています。

 

やるべきことはわかるから、何とか全力で環境調整や本人のエンパワーメントをしようと働きかけるのですが、つらい歴史や強い個性の若者たちの行動はその影響を受けて、トラブルや課題として表面化します。

 

できないことはできないよと言う方がいいし(実際にできないことはできないということはよくある)、できる範囲で長く続けることを考えることが大切だと思うのですが、これまで若者たちが受けてきた社会からの仕打ちを想像すると、できるだけ理解しよう、それを補うための機会保障をしなければと思うのですが、物理的な限界はあります。

 

限界を知り、少し力を抜き、距離を置き、他の人たちの助けを借り、相談しながら、この先どうするかのか考る今は、自分のbeingへの気づきでもあり、おそらくここからまた若者たちと相互関係の振り返りをして、次をどうするか一緒に考える局面なのだろうと思いました。

 

行き詰った自分にとってとてもタイムリーな研修の機会でとてもありがたく思いました。

 

今取り組んでいる生活支援については、現場と当事者ニーズから必要だと思うことをオーダーメイドで組み立てているので、それらのほとんどは制度としてはないスタイルや取り組みです。

 

ないからと言って、「ないから、できません」「やれません」と言ってしまうと、ニーズがないことになるのが嫌だし、ある制度に当事者をはめてしまうことは本来の福祉の趣旨に反する(先日のナラティブ尊重にも反する)ので、とにかくニーズからスタートするスタイルは変えるつもりはありません。

 

とりあえず無謀だと言われても、大丈夫かと心配されても、やってみて証明するしかないのです。

 

幸いなことに、そうしたチャレンジを理解して、いろいろと聞いてくれたり、助けてくれる人たちも増えているので、諦めずに取り組もうと思っています。

 

若者たちとの活動については別サイトを設けて、紹介していますので、興味があったら見てください。

 

FFP | フレームフリープロジェクト (ffp946.com)

生きづらさを抱える若者たちと学びあう活動の可能性 - FFP (ffp946.com)

 

ナラティブ(語り)の尊重

最近、たびたび「ナラティブ」について議論しています。

 

ナラティブとはあまり聞きなれない言葉ですが、日本語でいうと「語り」です。

 

最近の議論の中で自分なりに整理したのは「自分が世界と自分をどう認識しているか」ともいえるかと思います。

 

つまり、自分が理解している自分の世界、そして自分の生きてきた道です。

 

そして、人権についても、よく考えているのですが、人権の尊重とは実はナラティブを受け入れることなのではないか説。

 

誰に何が起こって、そして、どう感じたりどう思ったか、自分にとってそれはどんな意味があったのか?ということは人それぞれで、仮に同じ経験をしたとしても、それぞれどう感じたのか、どう思ったのか、自分にとっての意味は異なるわけです。

 

アサーティブ(自他尊重)のコミュニケーションの基本が「私は、○○だと思います。」「私はこう感じました」という私を主語にしたIメッセージであることも、ナラティブ尊重の基本と合致し、納得がいきます。

 

私の物語は、私のものであり、他の誰のものでもない。

 

そして、他の人たちの物語は誰かによって決められない。

 

死にトリの経験談はナラティブそのものであり、感想はあなたの物語を確かに受け止めましたと言うお返事とともに、受け止めた他の人の語りで返しています。

 

「否定された」と思う感情はナラティブを否定されたことを指すように思います。

 

勇気をもって、「死にたい」と言ったら「そんなことを言うな」と言われたい、ひどい目にあった話を恐るおそる話したら「そんなこと、あるわけない!」と言われたり、「つらいんだ」と言ったら「それぐらいで、何を甘えているの?我慢しなさい」と言われたり。

 

それはすべてナラティブの否定なのです。

 

泣きたいのに泣くなと言われ、嫌だったことも「それぐらい」と言われ、逆につらいと言っていないのに「それは、つらかったね」と言われたり、「かわいそうに」と言われたり、他の人が誰かのナラティブを先取りすることもできないのです。

 

アプリシニトリのトリさんメッセージは誰のナラティブも否定しないようにトリさんたちの語りを用意しています。

 

そして、その人それぞれの語りをすり合わせを行い、妥協点を見出す際に重要なのは「対等」という姿勢、感覚。

 

でも、世界の見え方が違う、語りが違うとそれはうまくいきません。

 

育ってきた環境、一人ひとりの特性や個性、そして身に付けてきた価値観や思想などで、世界の見え方、語り方は違いますが、他者と支えあって生きる私たちは誰のナラティブも否定はできません。

 

できるのは、交渉だけです。

 

往々にして、強い者は力でナラティブをつぶしたり、強制したりします。

 

そして、しばしば社会適応は個々のナラティブを埋もれさせます。

 

個々が尊重される社会はまだ見ぬ世界ですから、どのようなことになるのか、あまりピンときませんが、お互いのナラティブを認め合うと同時によく話し合って共通点を見つけ出したり、違いを認め合ったりすることができれば、もっともっと多くの人たちの力が発揮できて、誰にとっても生きやすい世の中になるのではないかと思っています。

 

抑制と主張をめぐる経験

昨年末から、死にトリでは夜のフリーチャットを毎日やっています。

 

チャットというツールをどのように効果的になおかつ安全に実施することができるのか、ものすご~く深く考えて、環境づくりをしています。

 

続けていくのは大変ではありますが、支え合い学びあいのコミュニティをつくるプロセスとして、想像以上に興味深く、奥深さを感じながら、取り組んでいます。

 

見ながら、安心して、しんどい気持ちやつらい悩みなどを話せる場として機能しているなぁ、こうして機能する場と、そうじゃない場の違いって何なんだろう?と考えつつ、ちょっと気になる発言やひやひやするやり取りもあり、それらをすべてひっくるめて、人と人との関わり合いのリアリティがあると思っています。

 

最近、私の中では人の育ちにとって必要な要素として、子どもの頃のきょうだいげんかの存在は侮れないという説が浮上しています。

 

子どもの頃のきょうだいげんかはつまり、自分が世界の中心にいる年代の感情や欲求のぶつかりあいで、駆け引きなしでぶつけ合って、そして、それを大人の力を借りたり、いろいろなケンカを経験しながら、他者と感情や欲求がお互いに折り合いの付く妥協点を探す作業というわけです。

 

子どもの頃に、自分の素直な感情や欲求をぶつけて、それを受け止められる経験と同時に、実際に要求が通るかどうかは別問題という経験を積むことが自己抑制と自己主張のほどよいバランス感覚を養うのではないかと思っています。

 

それは、日々の現場で自己抑制と自己主張が悲しいぐらいに不器用な若者たちにつき合い、そのやり直しのプロセスに立ち会い、それがとんでもなく簡単ではない現実を突きつけられているからこそ、実感する大切さです。

 

大変だけれど、手遅れはないと思うので、何とか学びなおせるようにと思うのですが、簡単ではない現実に何度もぶつかり、ぐるぐるしています。

 

そういう意味で、チャットという場は匿名ですし、実際に顔を突き合わせているわけでもないし、姿を見せない、声も聞こえない、文字だけのやり取りなので、リアルな人付き合いよりはずっと距離感も取りやすいし、ちょっと嫌なことは我慢をしたり、スルーしたりすることもできるツールだと思います。

 

そんな中、今日のチャットではユーザー同士が、前の日にちょっとした言葉のすれ違いというのか、誤解のようなもので、ぎくしゃくしていたことをお互いに振り返って、自分の気持ちや事情を率直に伝えあい、理解を深めたというシーンがあって、人の力、場の力を目の当たりにしていました。

 

そして、思い出したのは今から10数年前に中学生の学習支援がスタートした時、大人たちが設定した場所に子どもたちを参加させるのではなく、子どもたち自身が自分たちの居場所づくりをするプロセスを大切にしたところ、中学生が嫌な思いをしたことについて直接伝えるという場面があったことです。

 

「学校だったら、影で悪口言って終わり、直接なんて絶対言わない」と言っていたその子に「どうして、ここでは言おうと思ったの?」と質問すると「だって、ここはみんなでつくった場所だから、そこを壊したくなかった、大切にしたいから」と答えたことが印象的でした。

 

社会参加の意味はきっとそこにあるのだろうと思います。

 

自分の作った場所だから、自分が担っている場所だから、真剣に考えるし、もっと良くしたいと思うし、大切に考える。

 

フリーチャットの様子を見ていると、そんな思いが少しずつ出ているように思います。

 

そう考えると、別にチャットに限ったことではなく、学校だって、職場だって、何だって、与えられたものではなく自分たちで自分たちのために参画しつくりあげるプロセスを大切にすることで、社会全体がもっと過ごしやすいものになるのになぁと思います。

 

そのためには、一人ひとりの感じ方や考え方や価値観は違うんだという前提でもっともっと多様性についての理解が広がってもらいたいと思っています。

 

多様性について理解を促すために、過去に書いたブログを一つ引用しておこうと思います。

 

一人ひとりが尊重されるために「褒めて育てるな論」です(笑)

 

褒めて育てるな! | 新サロン日記改め「死にトリ日記」 (ameblo.jp)

アプリがバージョンアップしました!

ついに、アプリ「シニトリ」が大幅バージョンアップ完了しました!

 

気合を入れて、機能を充実させました。

 

改めて、アプリストアから「シニトリ」で検索して、ダウンロードをしてみてください。

 

アプリ「シニトリ:つらい気持ちをトリたちに教えて」 (shinitori.net)

 

 

リリース当初はトリさんにいつでも何でも話しかけて、トリさんが何かを返してくれるというシンプルな機能だったのですが、この度、「Myトリチェック」というチェックものが登場しています。

 

サイトの死にトリでもダントツの一番人気コンテンツが「つらチェック」です。

 

つらい気持ちや、しんどい気持ちがどこから来るのか、誰かに話すことも怖いし、話題にもなかなかできない…

 

そんな時に、一人でポチポチとチェックしたら、結果が出てきて、自分の生きづらさについて少し理解することができるのが特徴です。

 

結果について、どうとらえるか、どう扱うかは自分次第なのもいいところです。

 

単に傾向や可能性を提示しているだけなので、自分にとって都合がよいところは活用してもらえばよいし、違うなぁと思うところは忘れてくれてもいいし、とにかく一人であれこれ考えるのには役立ちます。

 

また、結果を他の人たちと話題にすることもできます。

 

前に死にトリのユーザーさんと交流した時に、結果を自助グループか何かに持ち込んで自己紹介に使っているということを聞きました。

 

へ~そんな使い方もあるのかぁと思いました。

 

今回のMyトリチェックは結果をSNSなどで共有したりする機能も付いています。

 

私たちが強く影響を受けていると思われる4つの価値観を4種類のトリさんに込めて、自分の中に住んでいるトリさんがどんなトリさんなのか知ることができます。

 

トリさんはそれぞれ9タイプ登場します。

 

つまり総勢36種のトリさんなので、「トリ図鑑」で解説もしていますし、当てはまるトリさんのほかにも近いトリさんも示してくれます。

 

まぁ、ここであれこれ説明しても、難しいので、やってみてください(笑)

 

こんなに力を入れて、宣伝するのは、開発をめちゃくちゃ頑張ったからです。

 

つらチェックの時もそうでしたが、自分を理解する、社会を理解する、社会と自分の関係を理解するためのツールの開発なので、Twitterのパトロール事業によって集めた病み垢の分析結果やこれまで出会ってきたたくさんの生きづらさを感じてきた人たちに教えてもらったことをフル活用し、試作と修正を繰り返し、ようやくできたものです。

 

だから、たくさんの人たちに活用されて、自己理解と社会の理解につながればと思っています。

 

そのうち、チャットでも住んでいるトリさんでルームを分けるとか、トリさんのコラムなど、連動する形で使える情報やツールを開発、提供していきたいと思います。

 

そのためにはみなさんの参加が必要です。

 

どうぞ、よろしくお願いします。

自分も参画者

毎日続けている夜中のフリーチャットですが、昨日はNPOの事業や法人理念について、話を聞きたいというユーザーさんがいたので、せっかくの機会と思って、チャットで話をしました。

 

普段、見ているだけで、見ながら「あ~、話に混ざりたい~」と思いながら、ぶつぶつ言っていることもあるのですが、さすがに昨日は本業というのか、そもそもの死にトリの趣旨に合致するところの話題だったので、自然に混ざりました。

 

いきなり、入って行ったので、驚かれてしまいましたが、私としては一人のユーザーとして参加した気持ちでした。

 

そして、あっという間の時間でした。

 

本当は見ているよりも、いろいろな人たちと話をしたい気持ちがあります。

 

でも、時間は有限ですから、現実的には難しく、昨日は貴重な機会になりました。

 

夜中のチャットに加えて、ここ数日はアプリのバージョンアップの作業がかなり最終段階になっていて、その作成作業でも毎日追われていて、なおかつ数カ月前から若者たちの生活支援を自宅の近くで自分の生活の一部としてやり始めて、3名の若者たちと寝泊まりする本格的な生活が5日ぐらい前に始まっていて、絶妙なバランスをとりながら日々を過ごしているのが現実です。

 

自分としても、かなりいかれた暮らしぶりだと思います。

 

ここまでやるの?どこまでやるの?と思われても仕方がないと思うのですが、必要なことは誰かがやってみて、実感して、実証して、それを広げるというプロセスが欠かせないで、その実証実験中の位置づけだから、忙しくても徒労感などネガティブな感情はありません。

 

チャットでも、実際に私がやっていることなんてみんな知らないはずなのですが、数日前には「年末年始も休まずやってもらえるのはありがたいですが、運営さんの心身が心配です」と書かれたりして、「あれ?見られてるの?」と思ったりして、可笑しくなりました。

 

これからは、定期的(不定期)にでも、管理人主催のチャットをやっても面白そうかもとか、時間がないくせに思うのでした。

 

実は、明日にちょっとしたロング運転の用事があるので、今日と明日は若者たちにチャット番をお願いしました。

 

昨日、寝てください!って言われたし、普段から休んでください!ってよく言われているので、休ませてもらいます!(って、ブログ書いてりゃ同じじゃん、って突っ込まれそう…)

 

アプリのバージョンアップは本当に頑張りました!!

 

間もなく、リリースになりますので、ぜひみなさん使ってみてください!
 

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