「ほめる」は定番土産だ
北芝でのフィードワークが終了しました。
今日は徹底議論の日。
大学院の講座の一環で、私としては実務家教員という立場ではありますが、今回は実践者のためのコースであるため、一緒になって自分の実践を振り返るいい機会になりました。
やはり、客観視したり、社会化する機会はとても重要です。
それより、昨日報告するのを忘れた(夜遅くて、写真でごまかした)、若者たちとの研究会の結果をお伝えします。
昨日のテーマは「ほめる ほめられる」
実は8月のフィバ研合宿でも検討したテーマですが、メンバーが違うとまた新しい発見があります。
今回たどり着いたのは
「安易にできることを『ほめる』のは定番お土産を機械的にあげるようなもの」
つまり、通常のほめる行為は形骸化、儀式化しているよねという意味。
そもそも、ほめるとは自分が相手に対して敬意を表する一つの表現方法だったのに、本当に自分で感じたり考えたりした内容で自分の気持ちや敬意をこめてほめるのではなく、一般的なよくありそうな表現を安易に伝えているのが実態。
しかも、「○○ができて、すごい」という限定的のほめは「じゃあ、○○じゃない私はダメなんだ」という自己否定の恐怖に陥れることすらある、危険な行為。
リスクがある行為を考えなしに「ほめることはいいことだ」と定番のセリフを伝える。
つまり、そもそもの目的である「相手に敬意を表する」ということはどこかへいってしまい、ほめることそのものが目的になる。
これでは、相手にとっては馬鹿にされているような気持ちにもなるし、大事にされている感じもしないですよね。
若者たちいわく
「定番土産はいらない」
とのこと。
そんな議論で私が素朴に思ったのは「じゃあ、何がうれしいの?」ということだったので、聞いてみました。
すると
「見つけてくれて、挨拶してくれること」
「下の名前で呼んでくれること」
「話を聞いてくれればそれでいい」
つまり、存在を認めてもらえる行為なんだとか。
当たり前といえば当たり前。
ちなみに私は形式的お土産大嫌い人間で、ピンポイントで本当に喜ぶ人に喜ぶものを買っていきます。
ほしくもないものを形式的にもらうより、自分にかけてくれた一言とか、自分のことを本当にわかって食てくれてるんだなぁと思えるさりげない日常のほうが確かにうれしいです。
若者たちのセンスって当たり前ずぎるけど、その当たり前な感じがほっとします。
ということで、昨日の研究会の格言として
『安っぽい、定番土産は要らね~』ということで。
若者たちとのおしゃべりはほんと楽しいです。
さて、明日、明後日と東京で仕事です。