市民社会づくりの日々 -4ページ目

”トラウマの渦から”

久しぶりに書こうかと思いきや、いろいろあって、書く時間がなくなってしまったので、自分の過去の記事をリブログしようと思います。

 

最近、法人サイトにも怪しい求人ならぬ「求職場」という記事を掲載したの、3年前のこの記事にしました。

 

採用情報 - NPO法人 地域生活支援ネットワークサロン (n-salon.org)

 

 

事実からの展開

先週の土曜日に東京でリアル居場所が開催されました。

 

本当は東京まで出向く予定だったのですが、コロナの状況もあることから行くことは控えました。

 

個人的には感染症とはいえ病気は自然災害のようなものであり、自然との共存について過剰な反応をしたくない気持ちもあるのですが、我が家は高齢者もいるし、重度の障がい者もいるし、介護の事業所の経営もしているし、慎重になる要素満載のため、今回はちょっと自粛しました。

 

ただ、行かないのではなく、せっかくなのでチャットとZoomで遠隔の方たちにも参加できるようにしたところ、17名の人たちから申し込みがあり、チャットのユーザーさんたちといろいろと意見交換ができたので、むしろたくさんの人たちと交流ができたのでは?と思ったりしました。

 

いつも、チャットの見守りをしながら思うのですが、場の力というのか、お互いに尊重し合うことの力を痛感します。

 

そして、口々に「ここの人たち優しい」とか「ここは安心する」ということに不思議な感覚を抱きます。

 

その裏側にはどれだけ、一般社会が過酷で厳しいのかという想像をしてしまうからです。

 

普段から、肩書きとか利害関係を超えて1対1で人とじっくり関わったときに、とんでもないやつだとかひどい人だと思う人ってこれまでいませんでした。

 

でも、それが集団になったり、不安など追い詰められたり、役割にとらわれたりしたときに、どこからか黒パワーが湧いてきて、「えー、そんな~」という言動になってしまったりする現実を見てしまうことは多くありました。

 

基本的に人は社会的な動物であり、環境によって発信や表現が変わるので、そもそも極悪な人はいないと思っています。

 

それって、性善説?と思われるかもしれませんが、何か違うんだよなぁと。

 

ある意味、そもそもいい人でもなく、そもそも悪い人もない。

 

つまり、そもそもは無色なんだろうと。

 

傾向としての性質はあるけれど、それは善くもなるし、悪くもなる。

 

てか、そもそも善いとか悪いとかそれぞれの人間か勝手に決めているだけのことなんだけどなぁと思ったり。

 

何が善いか悪いかと言うことについては、正解も不正解もなく、「何がよいか悪いかについては、誰かが一方的に決めることではないので、できる限り多方面から吟味しましょう」ということが大切なのに、道徳で勝手に善いことと悪いことを決めて、教えるってどういうこと?って思います。

 

最近、若者たちとの活動の中でキーワードとなっている言葉があります。

 

それは「まなざし」

 

若者たちと一緒に活動をしてきて、いつも不思議だったのは、周囲の支援者と言われる人たちや大人たちから若者たちに向けられる「まなざし」でした。

 

若者たちは、その「まなざし」にいつもダメージを受けていたし、その見えないものにすり減らされてきたように感じていました。

 

例えば「働いていない」とか「○○ができない」という事実から「ダメな奴」とか「落ちこぼれ」などといった評価、そして「だから助けてあげる」「導いてあげる」という指導や助言という流れがなぜかあって、往々にして支援というプロセスがその流れに乗ってしまうという現実です。

 

私にとっては、「働いていない」「○○ができない」という事実というスタートは同じなのですが、その次は「なぜ、働いていないのか?」「そもそも、働きたいのか?」「いや、働くってどういうこと?」という問いになったり、「○○ができないというのはどうしてか?」「○○ができないとどういうことになるのだろうか?」「そもそも、できないことは誰にでもあるぞ?」とか疑問や自問自答になり、そういうことは一人で考えていてもわからないので、若者たちに聞いてみようと思って、問いを投げかけて、一緒に考える人となり、むしろ自分のわからないことをいろいろ教えてくれる存在になります。

 

そういうルートしかないのですが、同じ事実に直面化しても、このように展開することに違いが生じるのはなぜなのかと思っています。

 

そうして、今回の交流の機会もそうですが、チャットの見守りを通じてそこで語られることもやはり、自分にとってはこの世の中を理解するための大切な素材であり、それを提供してくれる存在は貴重だし、みんなの力をもっと生かす場はないのかとあれこれ考えています。

 

そういえば、自殺防止の活動をする中で、当事者の声を拾うことは想像以上に大変だということをデータを取り扱う専門家の方に聞きました。

 

死にたいほどつらい気持ちを持つ人たちは、アンケートをとっても本音を語ってくれるわけでもないですし、ぶっちゃけどう思っているのかと言うことは通常に集めようと思ってもとても難しいのだそうです。

 

例えば、「なぜ、死にたいと思いますか?」という世論調査とかってできないですよねということです。

(そもそも、世論調査が本当に世論を反映しているかと言うこと自体、謎過ぎるのですが…)

 

そう考えると、私自身、相談や支援という場でいろいろな人たちに聞いてきたことはやっぱり貴重だったんだと思いますし、その真実はある意味、誰かにとっては不都合だったり、既存の何かを脅かす存在にもなるのであまり注目されないことなのかもしれないと思います。

 

改めて、死にトリや相談や生活支援を通じて、教えてもらったことを、生かしたいという気持ちが強くなります。

 

ある事実に対して、それをオートマティックに評価に結びつけるのではなく、ある事実を探求し、その事実から意味や私たちとの関係を解明し、その事実をどう扱について、丁寧に向き合っていきたいと思っています。

なぜ変わらないのか

今月にブログを書けないまま、7月も半分が過ぎてしましました。

 

今も、久々に外部から原稿を頼まれて締め切りが迫っていて、やらなければならないこともあるのですが、ちょっと気になることがあって書くことにしました。

 

最近、「死刑になりたいから」という動機で起きた事件についての報道を見て、改めて死刑はすぐに廃止した方がいいと思いました。

 

死刑の是非については、いろいろと議論になっています。

 

個人的に、もともと死刑は廃止した方がいいとは思っていましたが、死刑になりたいから事件を起こすような実態を考えた時に、賛成派の理由はあるとしても、それは置いておいても、廃止すべきと思います。

 

代わりに終身刑を導入すれば、「死刑になりたい」という理由で誰かの命を奪うような理不尽なことは理論上、起こらないからです。

 

真剣に死刑については再検討してもらいたいと思うのですが、誰にどうやって訴えたらいいのか?と思い、とりあえずブログに書いてみようと思ったのでした。

 

ただ、それ以前に、「死刑になりたい」つまり「死にたい」と思わなくてもいいような世の中にすることがもちろん前提としてあります。

 

でも、それと同時に無関係な第三者が殺されてしまう動機になるような制度は真剣に見直す必要があります。

 

その見直しのプロセスの中で、いろいろな課題についてもわかっていくだろうと思います。

 

制度を変えるということで、思い出したのですが、先週は選挙でした。

 

制度を変える方法としてスタンダードな手段として選挙があるはずなのですが、実感としてそのイメージが持てない自分がいます。

 

めちゃくちゃ選挙に行く意欲がわかなかったのですが、一応行きました。でも、年々たまらなく虚しさが増していきます。

 

そんなことを考えていたら、選挙の翌日に若者と選挙の話題になって、「やっぱり、選挙は行くべきなんでしょうか」と真面目に聞かれて、少し前なら「もちろん」と即答していたのに、何か心にグサッとくるものがあり、「もちろん」とは言えない自分もいました。

 

それは、こうして死にトリをはじめとした社会活動をやっている方が、いろいろな手応えや可能性を感じることができるからなのだろうと思いますが、一方で20年以上もやっていても、いい方向に変わるのではなく、年々厳しい現実が増すなど、「こんなことやって、意味あるのかな」と思うこともあります。

 

とはいっても、やめることもできないので、やっぱりささやかにできることはやっていこうと思います。

住み込むということ

地元の専門学校で社会福祉について講義を受け持っているのですが、その中でずっと気になっていることがあります。

 

それは、セツルメントです。

 

セツルメントは、19世紀のイギリスで始まったものですが、貧困地域に政治家や大学の先生など、権力や権限をもって、社会福祉の仕組みを考えたり、決定したり、進めたりする人たちが住み込み、現場を知ることで、必要性や重要なことについて肌で感じるような取り組みを指します。

 

セツルはsettle=住み込むから来ているそうです。

 

言葉としては、随分と前から知っていたのですが、最近になって、どんどんセツルメントが気になり始め、ことあるごとに「現代版セツルメント」が必要なのでは?と一人勝手に想いを募らせています。

 

そして、このセツルメントは日本語では「隣保事業」と訳されています。

 

今の制度上も、隣保事業は日本の社会福祉制度としてありますが、その中心は同和地区を対象とした事業です。

 

10年以上前から何かと一緒に活動をしている大阪の箕面市にある暮らしづくりネットワーク北芝が運営している「らいとぴあ21」は隣保館ですが、その取り組みを知ったときに「必要なのは、これでしょう」と感じ、なぜ、特定の分野でしかこの取り組みができないのか?と疑問に思っていました。

 

そして、日本の仕組みとしてある隣保館はそもそものセツルメントの趣旨である「住み込む」という機能がないのも、ちょっと残念な気持ちがあります。

 

私が今、これだけ時代が変化していて、なおかつ女性や子ども、その他弱い立場にいる人たちが潜在化して存在し、こんなにも死にたいほどつらい人たちがいる状況において、社会福祉や社会事業を根本的に見直したり、再構築する必要があると思っているですが、そのためにも本来的なセツルメントの精神に学ぶ必要があるのでは?と思うのです。

 

約20年前に福祉の基礎構造改革が始まり、障がい福祉においては、障害者権利条約の批准を目指して、差別解消法や虐待防止法などの法制度の改正や成立があり、児童福祉法の改正ではようやく子どもの権利条約の精神が持ち込まれたり、最近では女性支援新法の成立など、福祉制度が権利擁護の方向性に傾いているものの、現場感覚としては「制度は変わっても、現実は変わらない」という思いが強くありました。

 

何かが足りない、何かが足りないんだよと思いながら、地方の現場で若者たちと日々過ごす中で、浮かんでくるのは「セツルメント」でした。

 

住み込み、共に暮らし、全身で感じて、必要なものを生み出していくこと。

 

それがきっと足りないんだと思います。

 

共に暮らすという意味では、夜にやっているチャットもその片鱗があるかなと思う存在です。

 

仕事や、いわゆる相談とか、支援とかいう現場ではあまり会わない時間帯で、ニーズを感じている人たちの日常の本音をじっと見ていることはある意味ではセツルメント要素が詰まっていると勝手に思っています。

 

ともに過ごす時間、同じものを同じ立場で囲む機会、同じ場に放り込まれ、そしてそれぞれ立場や悩み方や苦しみ方は違うけれど、同じものを見たり、同じ空間時間を過ごすことで、悶えることで、見えては消えるかすかな光のようなもの。

 

そして、そんな光をかき消していく圧倒的な絶望や失望の感覚など、その中から何ができるのか、何をしたらよいのか、そこから生み出される何かが、政策や制度に反映されないものかと思っているのでした。

 

だからこそ、死にトリは社会参加の機会であって、社会参加の機会をどのように用意をして、いろいろなものとつながってその参加の機会を広げて、私たちの生きている社会をつくっていくことができるのか、考えています。

 

とはいっても、考えているだけではどうにもならないので、日々動くわけです。

 

だからと言っても、無駄に動くだけでも、どうにもならないので、とりあえず共に過ごす、一緒に生活の場面を共有することは無駄にはならないので、そういった機会を大切にして、そういった機会を自然に増やしていくことができないものかと考えています。

 

それは、いわゆる異文化交流なんだよなぁと思ったり。

 

人は誰もが一人ひとり別の文化や価値観、感じ方を持っているのだから、他者と出会うことそのものが本当は異文化交流なので、日常の出会い方や関わり方が少しずつ変わるだけでも、全然変わるはずだと感じています。

 

本家のセツルメントのことをもう少し勉強したくなってきました。

 

そういう意味では、障がい児の親と言うのは天然のセツルメントなのではないか?と思ってしまいました。

 

まさに住み込んで共に生きて、今まで知らなかったことを知っていくのです。

 

ひょっとしたら、当事者と呼ばれる人は自分いう存在と共に住み込み、家族は家族として住み込んでいる。

 

だからこそ切実さや本当に何が必要か感じることができるのかもしれません。

 

10年ぐらい前に専門学校の講義で「どうしたら、障がいのある人たちへの理解が深まるのか?何かいい方法を考えてみてください」とお題を出して、学生さんに議論をしてもらったことがあるのですが、ある学生さんが「一家にひとり、障がいのある人を配置する」というアイディアを出したことがあり、心から納得したことがあるのですが、それもまたセツルメントの本質が関係しているような気がします。

 

今の時代だからこその、住み込むことの意義や、必要な制度や取り組みについて、もう少し考えてみたいと思います。

年間報告

先日、死にトリを含む関連事業の皆さんと合同の会議があり、そこで、死にトリの実績報告をする機会があったので、どれだけのユーザーさんに支えれているのか、改めて取りまとめをしました。

 

関係者だけでなく、多くの人に知ってもらった方がいいのかなと思って、ちょっと紹介しようと思います。

 

2021年度の死にトリの活動報告(主なものだけ、かいつまんで)

 

【アクセス数】

298,279ユーザー   1,998,060ページビュー

 

1年間で約30万人の人たちが訪問してくれて、200万ページを見てもらいました。

 

 

【新規・リピーター数】

 

新規ユーザー 84.1%   リピーター 15.9%

 

全てのユーザーさんの中で8割以上が始めてくる人で、繰り返し利用している人は16%です。

 

ただし、16%でも数で言うと約55,600ユーザーなので、5万人以上の方たちに繰り返し、訪問してもらっています。

 

【どこから来るのか】

 

検索 28.0%  直接 42.0%  SNS 13.9%  他のサイトから 16.1%

 

かつては検索が圧倒的に多い時もありましたが、直接サイトにやってくる人が今は一番多いようです。

 

SNSの種類としては、Twitterがほとんどです。

Twitterから来る人のほどんどが、つらチェックにやってきます。

 

【ページごとのアクセス数】

 

トップページ 391,228   つらチェック 351,376

 

コンテンツの利用としては、圧倒的につらチェックです。

  

それに続いて、とりコミュが165,828、ここチャットが81,134、管理人ブログ70,039と続きます。(このブログもたくさんの人たちに訪れてもらっていて、大変恐縮です…なかなか更新できなくて申し訳ないです)

 

Twitterも692,816アクセスと、たくさんの方に見てもらいました。

 

【各コンテンツの利用状況】

 

つらチェックは、希望する方にメールで結果を送信できるようになっていますが、それが年間で38,725件でした。(込み合っているときにはこの機能がうまく動かずにご迷惑をおかけしているところもあります…システムの課題として、業者さんにずっと相談しているのですが、いい解決方法がない状況です)

 

つらチェックは一昨年の6月にものすご~くバズってしまい、その時に結果メールもたくさんやってきているので累積で20万人以上の方たちに使ってもらっています。(メール送信しない人もいるので、もっと多いと思います)

 

継続して利用してもらっていることはありがたく思いますし、このチェックはTwitterのパトロールを地道に行った結果から生み出されたので、Twitterの方たちの反響があるのは、当たり前のことと言えばそうです。

 

Twitterで皆さんが本音をつぶやいてくれたからこその成果と言えます。

 

つらチェックは現代社会における人々が生きていく中で潜在化してしまう社会的な課題が個人のつらさとして表現されたものを、見えるようにしたものです。

 

チェックそのものもいろいろな活用がありますが、その解説もよかったら、読んでください(かなり前に紹介したものなので、新ためて紹介しておきます)。

 

つらチェック結果の解説と背景にある社会の課題について (shinitori.net)

 

次に経験談は昨年度187件の投稿があり、そのうち118件をサイトに掲載しました。

 

経験談については、感想を書くための担い手の研修を基本的には毎月行いました。

 

そして、書いてくれた方たちとの交流や意見交換のために、個別ヒヤリング8回と交流会を1回実施しました。

 

ここチャットは自由に誰でも参加できるチャットは215回実施して、参加者数は合計8,832人です。

 

12月から毎日解放している夜のフリーチャットの影響で多くの人たちに利用してもらいました。

 

従事者はテーマ別のチャット含めて13名です。

 

夜のチャットの見守りは一人でやっているのではなく、今は数名で行っています。(最初のお試しの時には運営方法を検討するため、しばらくは一人でじっと見守り、どのように続けて行けるのか考えていました)

 

ときどき、ユーザーさんから労いの言葉をかけてもらいますが、とてもありがたく、嬉しいものです。

 

こえサーチは第10弾から第20弾まで、11回実施して、1,782件の回答をもらいました。

 

こえサーチについては、先日、データに関する専門家の方と意見交換した時に、死にトリのユーザーさんが自主的に答えてくれるこえサーチは通常の調査などでは集めることができない貴重な声が集められていると驚かれました。

 

私としても貴重だとは思っていましたが、そこまでと思っていなかったので、もう少しこの声を生かせる方法がないかと考えています。

 

のびアートは投稿数44件で、死にトリの中でも非常に数としては少ないですが、文章以外での表現機会として大切な存在です。

 

とりコミュは12月まででスレッド数6,032件、返信数3,415件で合計9,447件です。集計作業がまだ間に合っていないので、これに2割り増しぐらいになるかなと思います。

 

いるネットについては、なかなか思うように展開できなところがあり、年間で6件のアップで苦戦しました。

 

そして、最後にアプリですが、7月7日の本格リリース以降、ユーザーが約8,000人で、投稿数が合計45,000件余りでした。

 

トリさんたちは、45,000回話しかけてもらったということになります。

 

5種類のトリさんですが、オニオオハシが一番人気で11,533投稿、次にカカポの9,381投稿、そしてペンギンの8,673投稿で、ハトとスズメが約8,000投稿となっています。

 

投稿時間帯としては、22時、21時、23時ごろが多くなっています。

 

12月には新機能「Myトリチェック」や「シニトリ百科事典」なども加わっています。

 

アプリは作ってみてからわかったこともたくさんあり、もっと有効に活用してもらえる工夫もありそうなのですが、その充実までは至ってないところではあります。

 

いずれにしても、私たちとしては手探りでいろいろな人たちの力を借りながら、反応や反響を踏まえつつ、ここまでやってきた感があります。

 

私を含めて、他の仕事をやりながらのメンバーも多く、また、多くが「生きるのがつらい」という意味での当事者性があることもあり、運営的に大変なこともありますが、存在意義の重みを感じながら続けています。

 

そんなことで、今年も多くの人たちに支えられながら、運営をしていますので、引き続き、よろしくお願いします。