新サロン日記改め「死にトリ日記」

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新しい時代の公民館運動

先週の金土と死にトリの連携事業であるSNS相談生きづらびっとの臨時企画として、フリーチャットを実施しました。

 

有名人の逝去報道の影響で不安が強くなったり、心が落ち着かなくなる人も増え、また生きづらびっと、死にトリへのアクセスも増えることから、それを少しでも受け止めたり、分かち合う機会をできるだけ多く作るためです。

 

私も死にトリで普段、フリーチャットを実施しているので、そのノウハウを用いて普段は個別相談をしている人たちと意見や情報交換をしながら実施をし、チャットの効果について検証を深めました。

 

一度にたくさんの人たちが来て、初めての人たち多いことや、相談がしたくて来る人たちがチャットのことをどう思うのか、捉えるのかと、事前に想像や心配もしながらでしたが、やってみるとたくさんの人たちが来てくれたのは想像通りでしたが、もしかして?と心配したようなことはほぼ起こらずに、意義深い場の提供ができました。

 

生きづらびっと関係者の皆さんにも、チャットの効果や可能性を感じてもらえました。

 

いつもの1時間半の時間を金曜日は3回、土曜日は2回、1回につき5~6のルームを開設し、多くの人たちが来ましたが、その様子を見て、私はただただ、人の力と言うのか、人と人とが関わり合うことの可能性を感じました。

 

それは、普段からのチャットでも感じているのですが、今回はいつもよりも多くの人たちの姿があったので、より実感したのだと思います。

 

来る人たちは、死にたい、消えたいなどというつらい気持ちを抱えて、それを誰かに相談したい、聞いてもらいたいと思ってつながるわけですが、そのような状況にいる人でも、人に出会い、人と関わることで自分の力や役割を発揮して、理解し合いながら、協力し合いながらルームに対話の機会を見事に創り出していきます。

 

私は相談員の育成などにも関わっているので、1対1の相談ももちろん大切ではあると思いつつも、つながりにくさや1対1の限界を考えるとこうした場をもっともっと増やす方がいろいろな意味で有効なのではないかと思っています。

 

その背景には「能力の協働性」という考え方があります。

 

簡単に言うと、人の能力と言うのは単独の一人の中に備わっているもので決まるのではなく、人と人とがつながることや環境によって発揮の度合いはかなり異なってくるというものです。

 

どんな人でも、たった一人ではほぼ力は発揮できません。

 

できたとしても、おそらく本人の自己満足や自己評価程度であると思います。

 

そして、その自己満足や自己評価もたった一人で行うものではなく、周囲との関わりやつながりや影響があるからこその満足や評価である側面が大きいので、たった一人で力を発揮することはほぼないと言えます。

 

そして、相談のような1対1であれば、きめ細かさや濃さのようなものはあるにしても、1対1の中で生じる相乗効果や役割などもある程度決まってしまい、関係性が固定化してしまうので、どうしても能力の発揮は限定的になってしまいます。

 

それに対して、いろいろな人たちがフラットに参加する場においては、そこにいる人たちの織り成す様々な関係性や一人ひとりの知識、知恵、力の交流が化学反応を起こして、参加している人たちが選べる形で必要なものを提供することができます。

 

誰かにとっては必要な知識だったり、誰かにとっては自分だけじゃなかったという安心感だったり、誰かにとってはコミュニケーションのヒントだったり、誰かにとっては自分の悩みごとを誰かが代わりに言葉にしてくれた経験だったり、誰かにとっては普段は言えずに押し込めている気持ちの開放の機会だったり、などなど、無数のバリエーションで必要なことを得ることができます。

 

そして、自分の選択や意思で、他の人たちにあまり気遣うことなく、去ることできるし、黙ることもできるし、好きなところだけ発言をすることもできます。

 

これらのフレキシブルさは1対1の関係性ではいずれもかなり難しいことです。

 

もう一つは「正統的周辺参加」という考え方があります。

 

集団や活動への参加は最初から「はい、参加者です」「正規のメンバーです」という形はハードルが高く、不安や抵抗感、違和感があり、根付きにくいけれど、「黙っていてもいい参加」「メンバーかメンバーじゃないかわからないゆるい参加」「傍らから眺める程度の参加」「気まぐれに見ているぐらいの参加」など、準メンバーというのか、ゆるくてもメンバーとしてはOKであるという形の参加状態が保障されると、個々のスピードや方法やタイミングで参加できるため、結果として自主的で支え合い、学び合いのコミュニティの形成が進みます。

 

フリーチャットはまさに「能力の協働性」と「正統的周辺参加」の理論にかなった場であり、それは福祉というよりも社会教育の仕組みだなぁと思うのです。

 

かつて、戦後日本において、公民館運動で社会問題や自分たちの生活課題について学び合っていた実践がありましたが、ひょっとしたら死にトリやチャットは新しい時代の公民館活動なのかもしれないと勝手に思っています。

 

今、私たちが直面化している課題は特定の人たちの力で何とかなるものではありません。

 

そうは言っても、権限や権力をもっている人たちが理解をして、取り組むことでしょうという見方もあります。

 

でも、角度を変えてみてみると、今の課題は一部の権限や権力を持っている人たちが何かを決めてしまう、あるいは誰も実は権力や権限を発揮せずに何となく決まってしまうことに問題があるとも言えるので、まずは私たち一人ひとりが持っている力を少しずつ自覚して、発揮して、社会の物事を決めて行ったり、動かしていくことが大切なのだと私は確信しています。

 

そんなことができるわけないと思うかもしれませんが、チャットに来るたくさんの人たちの感じてる生きづらさや、それに対する意見、そして発揮される力を感じれば、それは無理ではないと私は思っています。

 

死にトリに参加する人たちは、大切なことに気付いている、大切な存在です。

 

これからも、多くの人たちが力を発揮する場を共に増やしていけたらと思っています。

根拠の探し方

全国的に本格的な春から初夏も訪れるような季節です。

 

北海道も今年は桜が例年より早くに割き始めているようですが、ここ釧路はまだです。

 

明日の天気予報でも、最高気温が道内でも20度以上なのに、釧路だけ12度というぶっちぎりの数字でちょっと笑ってしまいました。

 

そうは言っても、ずいぶんと暖かくなってきたと思います。

 

死にトリもスタートしてから4期目に入りました。

 

多くの人たちが抱える「死にたい」気持ちを通して、今の社会を見つめ直し、生きることを考え、社会参加を促進することがサイトの役割であり、目的です。

 

最近は、ユーザーさんとの対話や交流をこれまでよりも重視しています。

 

今日も、経験談執筆者とのヒヤリングから企画された研究会を行い、新しい企画を検討しました。

 

その中で、私として印象深かったのは、世代によって印象やイメージの根拠の取り方が随分と異なるなぁということでした。

 

例えば、「苦労することはダサい」という風潮を感じると死にトリスタッフが言いました。

 

私は「そう感じるのは何をもとにしているのか?」という情報源、根拠が気になりました。

 

なぜなら、自分自身は「苦労することはダサい」という空気を感じることはあまりなく、一方では「ダサいと思っている風潮はありそう」という感じもしたからです。

 

前者は自分自身の実体験や周囲の人から感じることで、後者はどちらかと言うと、メディアを通して入ってくる情報から感じることです。

 

昭和生まれの私は、今でこそネットから情報を多く得てはいるものの、そこから入手する情報をもって、「こういう気がする」と判断することはあまりないような気がします。

 

それよりも、自分自身が体験することや日々出会う人からの得ることで「こういう気がする」と判断しているように感じます。

 

それは、私自身がかなり多くの人たちと出会ったり、リアルに体験することが多く、強烈だからという理由もあるかもしれませんが、生まれ育った環境や事態的に判断根拠のソースとしてリアル体験が用いる回路ができ上っているように思います。

 

それに対して、当たり前にネットやSNSから情報を得る今の時代が当たり前の世代にとっては、「こういう気がする」のは実体験よりもネット上の情報が圧倒的に多いようなのだろうと思うのです。

 

また、人によって、情報の何にフォーカスするのか、どこを拾おうとするのか、拾っているのかということも実は一人ひとり異なっていて、それによっていろいろな認識が変わることを実感しました。

 

だから、「死にたい」という気持ちを持つ人がいても、本当に一人ひとり異なる背景や思い、そして感じ方や情報入手や理解などたくさんの要素が絡み合って起こることであり、一概に言えないのです。

 

だからこそ、「死にたい」のトリセツとして死にトリを開設したのです。

 

これまで、活動をしてきてわかったことは、多くの場合は「自己存在への否定」「この社会への否定」などという現実への何らかの否定が「生きていくのはイヤだ」=「死にたい」という構造につながっていると見ています。

 

では、その否定はどのように形成されるのか、そこをもう少し理解したいと思っています。

 

否定の反対は肯定ですが、私としては否定も肯定に実は同じなのではないかという持論があります。

 

否定にしても肯定にしてもどちらも評価しているのだから、世の中にもう少し「否定も肯定もしない」という文化が浸透すればいいのに、それが浸透するためにはどうしたらよいかということを考えていました。

 

前に、生きるのがしんどい若者たちと「自己肯定感」について話をしたら「別に肯定しなくてもいい、必要以上に否定しなくなればそれでよいと思う」とある若者が言ったのが、とてもリアリティがあったのでした。

 

それが、「自己肯定感を上げよう」なんてキャンペーンをするのは何か本質的ではないし、それは「自己肯定感がないのはダメ」と言っているようなもので、それじゃあやっぱり生きづらいじゃないかと言いたくなるのでした。

 

今日の研究会でも話題になりましたが、教育の中で何をどのように学び、どのように評価されてきたのかその経験は私たちにとって思ったよりも大きな影響を受けているようです。

 

地味で地道ですが、少しでもこうした議論や発信を続けていきたいと思っています。

 

 

想像と配慮

ちょっとタイミングが遅くなってしまいましたが、先日からこえサーチで「気になる経験談」を募集しています。

 

こえサーチ第21弾「気になる経験談」開始 (shinitori.net)

 

いつもよりも気軽にぽちっとできないですが、興味のある方は是非、経験談を読んで気になったものを教えてください。

 

死にトリはサイトという形で社会参加の機会を提供していますが、ひそかに大切にしているのは「対話」「双方向」です。

 

サイトであるゆえに、それは難しいことはわかっているのですが、一方的に何かを提供するのではなく、いろいろな人たちが参加した内容を踏まえて次に生かしたり、可能な限り参画者との応答を大切にしたいと思っています。

 

その代表が経験談で、経験談の感想を書くのも、対話を大切にしたいからです。

 

チャットも同じで、12月から毎日やっているフリーチャットもユーザーのみなさんのやり取りや対話がいろいろな作用をもたらす意義深い場になっているなぁと思って見守りをしています。

 

それも参加してくれるユーザーさんの力があってこそなのです。

 

本当に皆さん、いろいろな力や可能性があるけれど、その力や可能性がうまく発揮できる環境ではないとか、暴力や抑圧などによりパワーレスになっていたり、生きのびるためのサバイバルでエネルギーを費やすしかなかったりと、しんどい気持ちを抱えながら日々生きている様子が伝わってきます。

 

チャットに来ると、辛さを抱えながら生きているからこそ理解や想像ができるので、他者への配慮や想像を巡らせていることが伝わってきます。

 

実際には残念ながら、そうした配慮や想像が足りないなぁ、もう少し広がるといいのに…と思うことの方が多いのですが、そこには割と自然に当たり前に他者の存在を配慮する空気があります。

 

同時に、そうした気遣いや寛容な気持ちが自分自身には向けられずに苦しむ姿もしばしばみられます。

 

経験談にも、そうした苦しさを感じます。

 

シンプルに、自分にも他人にもおおらかに寛容に生きれるようになるにはどうしたらよいかと思います。

 

しんどい中で生きている人たちがこれまで経験してきた(今なお直面している)社会構造から来る排除や権利侵害を何とかならないものかともがけばもがくほど、自分まで追い詰められていくような気持になることもあります。

 

一方で、そうした社会に誰がしたと思えば、自分自身もその責任の一端があることも明白です(社会の一員なので)。

 

心の中ではもう少し前の世代の人たちを責めたくなる気持ちもあるし、自分よりも権力を持っている人たちに文句を言いたいのですが、人を責めたところでいい方向には行かないので、自分でできることを見つけてやるしかないのでした。

 

一人でできることは限られているので、少しずつつながりを広げて、ちょっとはましな社会になるようにと思っています。

 

さて、最後に宣伝ですが、先日お知らせした準備中のサイト「生きづLABO」の所長代理の生きかたカエルがついにラジオをスタートさせることになったそうです。

 

と言っても、今日この後すぐなので、ここで宣伝して効果があるかまったく謎なのですが、宣伝しておきます。

 

4月30日の24時(5月1日0時から)から配信です

 

 

 

質問が来る限り、次の機会もあるようなので、聞き逃した人はまたの機会があればお知らせします。

日常の分かち合い

今週は死にトリのユーザーさん数名から個別にヒヤリングをしました。

 

死にトリを通じて出会う人たちは、初めてなのに全然初めてではないような不思議な感じがします。

 

先日の交流会でもそうですが、死にトリに何かしらの必要性を感じている人たちは、今の社会の中で、何かしらの生きづらさを感じ、そしてそれは何かしらの通じることがあるので、話をしていても言葉が通じるというのか、同じ空気を吸っている感があるのかなと思います。

 

今日、ヒヤリングした方から興味深いお話を聞きましたので、ご本人からも了解を得て、ここで紹介させてもらいます。

 

事前アンケートで気持ちや悩みを話せる存在について聞いたのですが、その選択肢に少ないだろうけれど、おそらくあるだろうと推測をして「宗教関係のつながり」を入れました。

 

今日、ヒヤリングした方はそれを選んでいたので、具体的にどのようなものなのか聞きたかった気持ちがありました。

 

私自身は宗教にはあまり興味はありません。

 

でも、宗教的な考え方というのか、宗教の存在意義とか、そういったものには興味があります。

 

私の理解ではありますが、人はそもそも孤独であり、生きることはつらいことだし、しんどいこともある、何が正しいのかわからないし、どうしたらよいかわからないこともたくさんあるので、何かしらの指針と言うか理由等のか、支えになるものが必要だと思うのです。

 

その一つが宗教なのかなぁと思っています。

 

どう生きていくべきなのか、なぜ生まれて来たのか、そして、どこに向かえばいいのか?

 

よく「自分の人生は自分で切り開け」というようなことを言う人もいますが、私自身は人生なんて推定90%ぐらいは(いや99%かな)「自分の力ではどうにもならないこと」の方が多いのではないかと思います。

 

そもそも、生まれてきたのだって、自分の力じゃないし、意思でもないと突っ込まれそう。

 

そんなどうにもならない力で人生は翻弄されたり、つらかったりするのですが、そこで支えと言うのか、何かしらの根拠になるものがあると少しは楽なのかなぁと思います。

 

そういった、ある種の「心の支え」という精神的な存在としての宗教というイメージが強かったのですが、今日話を聞いて、とても納得したのは宗教はそれと同時にコミュニティでもあり、生活支援というのか、つながりという実質的な存在であるということでした。

 

一番しんどい時に経験談を書いて、送ってくれたのが昨年の11月なのですが、つらさの背景には親から存在を否定され続け、生産性だけが人の存在意義だとプレッシャーをかけられて育った環境にあることはカウンセリングなどを通じて理解はしていたそうです。

 

小学生ぐらいの頃から死にたい気持ちが気付いたらずっとあり、小1の時に自分が自殺する絵を描いたことを覚えているとのこと。

 

それだけ、存在否定と抑圧を受けていた影響がじわじわと人格形成の中に練りこまれ、長い間ダメージとしてあることを改めて感じました。

 

そのうえで、最近は落ち着いてきたとおっしゃるので、その理由を聞いたところ、宗教の存在があるというものでした。

 

大学がキリスト教系だったことから、出会い、そこから宗教のコミュニティに参加することになり、信仰が深まり、洗礼を受けることになったそうですが、洗礼を受けるときに宗教における父と母という存在が決まるらしく、その母との関係で「よくしてもらって(ご本人の表現)」で心が少し穏やかになったそうです。

 

具体的に何を「よくしてもらった」のですか?と聞くと、仕事でしんどい時に話を聞いてもらったり、家に遊びに行ってご飯を一緒に食べたり、自分が一人であれこれ悩んでいた書き溜めていた物を見せると、否定どころか「それは、いいね」と受け入れてくれたというものです。

 

それを聞いて、率直に思ったのは「それ、私がいつも若者にやってるやつでしょ」ってことでした。

 

生活支援と言われる現場でやっていることは、支援なんて言葉で表現するのに違和感がある、ありふれた日常の分かち合いなのです。

 

そして、今日お話を聞いた方がずっとしんどかったところから少し回復をするきっかけを作った宗教のつながりもまた、ありふれた日常の分かち合いでした。

 

キリスト教は毎週日曜日に礼拝があり、それが居場所として機能しているのではないかと仮説を聞いてみたところ、「そうだと思います」と同意をいただきました。

 

毎週日曜日になれば、行けるところがある、でも別に義務はなく、行きたければいけばいいし、行かなくても怒られない。

 

そして、行くと自分を受け入れてくれるし、否定されない、特別歓迎されるわけでもないが、居場所はある。

 

そして、音楽活動があったり、一緒に食事をしたり(今はコロナで食事は自粛だそうです)、まさに日常の分かち合いの機会があるという安心感というのか安定感があるのだなぁと思いました。

 

そう考えると、たまたま生まれた家族のつながりなんぞは本当にどうにもならない事実であるだけで、そのつながりを自分がどのように扱うかは自由なんだぞ!と思うのです。

 

今日ヒヤリングした方も、親から受けている扱いの不当さを語っても、親を擁護したり、親をディスることへの否定的なメッセージを感じたりして、周囲に言えなかった経験を語っていました。

 

どうしても、親は大切にすべきだとか、尊敬する存在だとか、感謝をしなければならないという謎の考え方が強く、それが家族というかなり閉鎖的なコミュニティにおいて、立場の弱い子どもの人権侵害を助長していることを私たちはもう少し真剣に考えるべきだと思います。

 

しかし、一方で自分の存在をそのまま受け止めてもらう経験は誰にとっても大切です。

 

それは、単に家族であるからということや愛情があるかないかとか、何をしてもらったとか、どれだけ大事にされたかとか、そう言うことではなく、おそらくほとんどが、ありふれた日常の分かち合いの蓄積なのだろうと思います。

 

それを誰でも保障されることが社会保障、そして福祉の原点だと思いますし、子どもという存在であれば、障がいがあるとかないとか、貧困とか、母子世帯とかそういった背景や事情なんて関係なく、必ず保障するんだという強い意志が私たちの社会にとって必要だと思います。

 

そうした思いを持ちながら、死にトリももちろんですが、日々目の前にある課題に向き合っています。

 

春を感じるこの頃

春ですね~

 

毎年この季節になると、周囲では心のざわつきが抑えられなくなって、メンタルや行動に不調が現れる人たちが出てきます。

 

ちゃんとデータをとっているわけではないですが、感覚としてこの時期に多い気がします。

 

さて、春は新年度のスタートでもあります。

 

ここ数年、毎年のように高校(特別支援学校高等部も含む)進学のための保護者代わりをやっています。

 

学校に必要な手続きをするときに、保護者の代わりではあるけれど、親権があるわけでもなく、また、回り道して過年度で入学することも多いので、高校生だけど18歳過ぎる若者もいたりするので、事務書類の作成もなかなか厄介なのです。

 

先日は、学校の事務員さんから連絡があり、電話じゃうまく説明できないので、学校に行って事情を話して書類の書き方を教えてもらったのですが、事務員さんも「勉強になります」と言ってくれたので、気持ちが楽になりました。

 

何でもかんでも、通常の家族がついてきてやってくれる仕様なので、いろいろな形が想定されていないのですよね。

 

さて、少し話は変わりますが、先日、精神科の病院でケース会議があり、そこでトラウマの理解について話題になり、ドクターからトラウマについてのわかりやすい資料が配布されました。

 

調べてみたところサイトでも出回っていたので、紹介します。

 

2102_阪大_こころのケガ_トラウマのメガネ_A3リーフレット (csh-lab.com)

 

このリーフレットでは、トラウマを「こころのケガ」という表現でとらえて、その理解を対応についてとても簡潔にわかりやすく紹介してくれています。

 

「こころのケガ」による影響として、『からだ』『感情』『考え』『行動』の4つについて具体的な状態をあげて説明しています。

 

まだまだ、理解されていなかったり、誤解も多いところなので、理解が広がるといいなぁと思います。

 

かつて、ハーマンの「心的外傷と回復」を若者たちと一緒に読書会をしたとき、見事に本に書いてある専門的なことと、若者たちの経験が重なり、その理解が広がり、深まりました。

 

あの勉強会は若者たちにとっても、私にとっても、前に進むための大きな転機になったので、そういった機会をつくれないか?とあれこれ考えています。

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