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みやざきのコト

宮崎県で生活していた頃の記憶や帰省した時のコトなど宮崎に関するコトの備忘録。宮崎観光の参考に、昔の宮崎を懐かしむきっかけにでもなれば幸いです。

私が子供の頃から、たまに母親が「うわっ!桜島が噴火したっちゃろうか?」ということが何度かあったように記憶しています。

 

地震とかの縦揺れとか横揺れじゃなくて、何か大きな力で家全体を横からバンッと叩いたような衝撃で、一瞬だけ家が横揺れするような感覚とその音が聴こえる感覚。

 

ただ、桜島の噴火とは当時思わなかったんですよ。

 

子供の頃から鹿児島や桜島には何度か連れて行ってもらったことがあったのですが、子供の頃の感覚だと、日南から鹿児島市内まで宮崎自動車道を使っても2~3時間くらい、串間、志布志ルートで国道を走っていくと3~4時間くらいはかかるように思っていました。

 

さらに、鹿児島と日南の間には山もそれなりにあるように思いますから、桜島が噴火しても日南で分かる訳ないと思い込んでいたんですね。

 

大人になってからもたまに母が電話中に「うわっ!家が揺れたが。桜島が噴火したっちゃろうかい?」と言うことがって、その時も「そんな訳ない。桜島遠いんだから分かる訳ない」と言ってたんですよ。

 

コロナ過の前に帰省した際に実家の1階でくつろいでいると、バンッという音と同時に家の2階だけが衝撃波を受けたように揺れたんですね。

 

両親も「うわっ」と反応し、私も一瞬、地震が来るのかと思い身構えたのですが、数秒経過しても何も起きず。

 

そこでふと、これ子供の頃に何度か体験している、母親が桜島の噴火と表現するアレだと気が付いたんですね。

 

「お母さんが桜島の噴火って表現するの、これだよね?」と母に確認すると「そうよ。たまにあるがね」と言うじゃありませんか。

 

子供の頃と違って、この時にはもうスマホがありましたから、Twitterで「桜島 噴火」とツイートを確認すると、「今、桜島噴火した!」とか鹿児島在住の方と思われるツイートがいくつも表示されました。

 

「お母さん、今までゴメン。これ桜島の噴火だわ。鹿児島で噴火したってツイートが今いっぱい表示されてるわ」と言うと「じゃーろ、だから前からゆってたがね」と言われましたね。

 

この時には家の1階は揺れず、2階だけがバンッと空気の衝撃波が当たった音がして、一瞬だけ揺れたのですが、改めて体感して、その音と揺れにビックリしました。

 

噴火の状態によって揺れや音も違うんでしょうけどね。

 

調べてみたら桜島の火口から日南市役所まで直線距離だと約68キロ。

 

日南から桜島って、道路や交通状況で数時間かかかるからそれなりに遠いイメージでしたが、直線距離だと意外と近い。

 

ふと思い出したけど、小学生の頃に同じクラスだったか違うクラスだったか忘れましたが、あの子が一人で家にいる時に家が揺れる時は幽霊の仕業だと言ってると話題にされた子がいたんですよね。

 

幽霊は家全体を揺らすほど力はないだろうと笑い話にされていたし、家が揺れるのは急に強い風が吹いたりしたんだろうとか言われていたけど、あれも今思えば桜島の噴火だった可能性大な気がします。

 

 
 

TBS系列で2024年7月3日(水)放送の「世界衝撃映像×極限ミステリー」で「口裂け女のルーツ判明!?」という予告を観ました。

 

私が小学校の高学年だったように記憶していますが、昭和の頃に日南でも小学校で「口裂け女」の目撃情報が噂になったことがありましたね。

 

日南学園のすぐ近くの酒谷川と広瀬川の間のトンネル付近を歩いていたとか、夕方に団地の付近で口裂け女みたいな恰好をした人がいたというのは朧気ながら記憶しています。

 

又聞きの又聞きみたいな感じで、違うクラスの誰々が言っていたとか、誰々が親に聴いたらしいというような噂ばかりだったんじゃなかったかな。

 

大人になって昭和の特集なんかをよくテレビで観ますが、同世代の関東出身だったり、関西出身だったりするような芸人さんやタレントさんが、子供の頃にこんなことが流行ったということは、日南で生まれ育った私もほとんど同じ頃に流行を経験しているって面白いですよね。

 

 

 

 

私は寿屋さんが大好きでした。

 

寿屋さんは総合スーパー。

 

令和の時点で全国展開している有名総合スーパーで例えるなら、イトーヨーカドーよりイオンの方が雰囲気が近いように感じます。

 

平成の頃だとジャスコ(現イオン)やニチイ、イズミヤ、ダイエーなんかは寿屋に近い感じがして、初めて行った店舗でも寿屋っぽくて好きだなと思いましたね。

 

山形屋さんは宮崎店も日南店も母親が主に買い物をするところ。

 

寿屋さんは宮崎店で父が家電とかを見たりしていた記憶があるし、日南にあった吾田店と油津店はよく子供だけで行ってた記憶です。

 

吾田店は右手の方にエスカレーターと階段があって、3階まで行けませんでしたっけ?

 

1階が食料品で2階に玩具売場、3階が布団だったようなうろ覚え。

 

そうそう、コスモスの赤い縦長の何が出てくるか分からない1回200円のマシンが置いてあったんじゃなかったかな。

 

小学校高学年か中学生くらいの頃に、デジタル腕時計がコスモスのマシンで出たとか出るとかで、やったのかやらなかったのか覚えてないけど、なんかデジタル時計が200円で買えるの?と思った記憶が薄っすらあります。

 

油津店の方はファミコンのディスクシステムの書き換えができるマシンがあって、ファミコン通信とかでいつから書き換えできるという日をチェックして、土曜のお昼からディスクの書き換えに何度か行った記憶がありますね。

 

うろ覚えですけど油津店って玩具売場の横が自転車売場で道路側は喫茶店とかでしたっけ?。

 

大学生の頃に帰省した際に久しぶりに油津店へ行ったら、2階のサピアがある方角が書店になっていたような記憶。

 

書店は子供の頃もあったのか覚えてなくて、2階は自転車、玩具売場、花火、家電とかがあったような記憶はあるんだけど、これも果たしてそうだったのか、今となっては分からないですね。

 

宮崎店では高校生の時にレコード、CD、ダブルカセット、アンプやイコライザー、ラジオなど5段くらい積み重ねられるオンキョーのシステムコンポセットかフルコンポセットか知らないけど確か18万円くらいで買ってもらったような記憶があります。

 

あと、寿屋さんといえば福岡方面から九州自動車道を下っている最中に、ちょっと下り坂気味で右手に熊本のどこか知らない市内が広がって見える地点があって、そこで寿屋の看板が目立って見えていて、いつも高速からその寿屋さんの看板が市内に見えると、「あそこの寿屋さん行ってみたいなぁ」と思っていたものです。

 

何度か車内で「あそこの寿屋さん行きたい」と言ったことはあるように記憶しているのですが、母親に「なんすって?」と言われて「行きたいだけ」と言うと「高速降りてまでわざわざ行かんでもいいがね」と返された記憶です。

 

運転は父親がしてますし、たぶん福岡とか熊本か長崎などへ日帰りで遊びに連れ行ってくれた帰りの道中での話なので、父も高速降りてまで連れて行ってはくれなかったですね。

 

自分が大人になって車で宮崎まで帰ってくる際に、何度か熊本で高速降りて行こうかなとは思ったのですが、長時間運転している状態でわざわざ一度高速料金支払って降りて、フラッと見てからまた高速に乗り直して宮崎まで帰る決心がつかないまま、気が付けば寿屋さんはなくなり、看板も見えなくなってしまいました。

 

寿屋さんの看板が見えなくなってからも、車で帰省する時に、熊本の寿屋さんの看板が見えたポイントを通る度には、一度行ってみたかったなぁと毎回のように思い出してましたね。

 

寿屋さんは宮崎店も油津店も建物が残っているのが、まだ救いなのかもしれません。

 

油津店はコロナ過になるちょっと前に赤兵衛さんへ行きましたが、ここ昭和の頃は喫茶店かレストランだったところだったっけ?とか思いましたが、入口は何となく記憶にあるけど、寿屋さんだった時代に喫茶店かレストランかに入った記憶がなかった。

 

山形屋さんの2階のレストランは母が何度も連れて行ってくれたから記憶しているんですけどね。

 

宮崎店もカリーナさんとして営業しているようですが、わざわざその後はどうなっているか確認しに行くのも面倒で行かなかったなぁ。

 

宮崎店は裏側が駐車場で行き先の階まで裏側のエレベーターで行った記憶。

 

宮崎駅前の25号線がある表側にはエスカレーターがありませんでしたっけ?。

 

一番上の階がレストランだったような記憶なんだけど、これは宮崎店の記憶なのか定かではないなぁ。

 

そういえば志布志の寿屋さんも一度だけ行ったことがあったなぁ。

 

コロナ過のちょっと前に久しぶりに志布志の大黒さんへ行く際に通ったら、建物が無くなっていて悲しかった。

 

あの時はまだ向かいの玩具屋さんとかの建物が残っていたので、「あれっ?ここ寿屋さんがあったところだよね?」と気が付いたけど、向かいの建物も無くなるとどこだったか分からなくなるんだろうな。

 

 

 

 

日本テレビ系列で放送されている朝の情報番組「ZIP!」で「おどろきフライト!Go!Go!おどろん」というコーナーがあります。

 

「おどろん」というお化け星からやってきた空を飛べる宇宙人が、日本全国を旅してまわるという体で、ドローン撮影された映像におどろんの感想をナレーションとして被せて放送するコーナーなんですね。

 

2024年6月21日(金)は鵜戸神宮でした。

 

鵜戸神宮を海側からドローン撮影していたのですが、鵜戸神宮の本殿前から亀石に運玉を投げる時に見える範囲の狭い岩礁しか知らなかったのですが、岩礁が思っていたよりかなり広くて驚きました。

 

私も朝の用意をしながらだったりするので、おどろんは時間帯が不規則なのか、私が観てないだけなのか、観れたり観れなかったりなのですが、鵜戸神宮は偶然観られたので、両親や会社の子に確認したところ、今週のおどろんは宮崎の青島と日南だったようです。

 

17日(月)は鬼の洗濯岩、18日(火)は青島ビーチパークと青島ビーチビレッジ?、19日(水)はサンメッセ日南、20日(木)は油津の大島と七つ島とトロピカルドームでマンゴーをどうやら紹介していたようです。

 

青島ビーチビレッジと青島ビーチビレッジ、油津の大島と七つ島、トロピカルドームのマンゴーに関しては、たぶん話を聴く限りここじゃないかなという私の勝手な推測ですので、間違っていたらすみません。

 

 

 

 

「広島県はコンサートやライブで飛ばされることが多い」というネット記事を読みました。

 

西日本だと大阪、福岡はだいたいコンサートに組まれているけど、広島は飛ばされるとのことが多く、通称「広島飛ばし」なんて言葉もあるようです。

 

広島にもアリーナがある訳ですが、広島のアリーナ運営会社は「県民スポーツのための施設なのでスポーツ利用が優先」ということで、コンサートの会場として日程を抑えるのが難しいとのことでした。

 

広島って野球の球場もあるし、サッカーのスタジアムとか充実していそうなのに飛ばされるんですね。

 

この「広島飛ばし」の記事に関して、広島市民と思われる方が「来広(らいこう)」という言葉を使われていました。

 

「来広」とは調べてみるとやはり「広島へ来る、広島を訪れる」という意味のようです。

 

その都道府県を訪れることを「来〇」、その都道府県へ帰ることを「帰〇」と表現したり、政治家の方が外国を訪れたりした場合などに、その国名を漢字一文字で表現し、新聞の見出しだったり、テレビのテロップなど、文字数を少なくして表現する場合に、見掛ける場合はありますよねね。

 

私が記憶する限りだと、国内だと北海道の「来道(らいどう)」、東京と京都の「上京(じょうきょう)」、「来京(らいきょう)」、「帰京(ききょう)」、大阪の「来阪(らいはん)」、「帰阪(きはん)」、熊本の「来熊(らいゆう?らいぐま?)」、「帰熊(きゆう?きぐま?)」鹿児島の「来鹿(らいか?きか?きろく?らいろく?)」、「帰鹿(きか?きろく?)」は見聞きした記憶があるのですが、他の都道府県はピンと来ません。

 

しかし、調べてみたところ、ほとんどの都道府県が「来〇」、「帰〇」と表現することがあるようでビックリしました。

 

宮崎の場合をネット検索すると、宮崎へ来ることを「来宮(らいぐう)」、宮崎へ帰ることを「帰宮(きぐう)」と書かれている情報がチラホラ見受けられます。

 

ただし、詳しくチェックしたわけではありませんが、宮崎日日新聞などの地方新聞や県の公式などでは使われている言葉ではないようです。

 

しかし、宮崎神宮や宮崎大学などのネットにアップされている文章などでは使われていますね。

 

宮崎の「宮」は宮城と被るじゃんと思ったら、宮城は「帰仙(きせん)」がメジャーらしいです。

 

仙台以外の宮城の人は何と言うのか気になるところですけどね。

 

福岡県の場合、「福」は福島、福井と被るし、「岡」は岡山と被りますが、「来福(らいふく)」「帰福(きふく)」のようです。

 

けど、例えば宮崎出身の人間は、宮崎の実家へ帰る場合は「帰省」といいますが、出張などで一時的に宮崎在住の人が、他県から宮崎へ帰る場合はやっぱり「帰宮」という表現になるのかな。

 

一般的には「宮崎へ戻る」という表現だと思いますけどね。

 

ただ、宮崎の実家を手放した私ら家族の場合、両親もこちらへ移住させたわけなので、宮崎へ行くことを「宮崎へ帰省」とか「宮崎へ帰る」と表現するのは何か心に引っ掛かるものがあります。

 

帰省の「省」は親の安否を問う意でもあるらしいので、私らの場合は正しい表現ではなくなった訳ですよね。

 

もう私の場合は、宮崎へは「帰省」や「帰る」ではなく、たぶん正しい表現は「宮崎へ行く」ですよね。

 

「宮崎へ戻る」、「宮崎へ帰る」という表現も、また宮崎に住む場合ならその表現で間違いないと思いますが、宮崎に数日程度行く場合は「宮崎へ行く」ですよね。

 

両親は本籍などはそのままなんですが、私は本籍などすべて今の生活圏に変更しています。

 

宮崎に住んでいたのは18年、大学進学から今まで30年以上は今の生活圏にいる訳なので、こちらでの生活はもう日南での倍以上になります。

 

両親が宮崎に住んでいる間は、周囲からお盆や年末年始の予定を聴かれた際に「宮崎へ帰省します」と普通に使っていましたが、もう私は「宮崎へ帰省」という表現は使えないんだなぁと思うと、なんか物悲しい気持ちになってしまいました。