Whirlpool of Bhitari Pillar
グプタ朝のスカンダ・グプタの"Bhitari Pillar"石碑です。
[India1871, pp94-95 Plate XXX line 15 and 16]

注目は15行と16行目です。Hunaが、グプタ朝のスカンダ・グプタへ攻め込み、受けたダメージが記されています。

 

でもグプタ文字で読めません。

ただ、研究されて英語に翻訳したものが次です。
[A. M. Shastri, p379]   

"When he (Skandagupta) joined in close conflict with the Huṇas,
the earth was made to tremble due to (the power of) his arms, since 
he caused a terrible whirlpool among the enemy by   ...   of arrows; the brilliant   ...  is proclaimed  ...  (which) 

sounds like the twanging of (his) bow (sarnga) in (their) ears."
<概訳>

スカンダ・グプタがHunaと実際に戦闘した時、Hunaの力のために
地面が揺れた。なぜならスカンダ・グプタは、敵のHunaの中で、

渦巻き疾患にかかった。(矢の...により)  華々しい...宣言された。 ... 
耳の中で、Sarnga(ガンジス川)の濁流の弓のような轟音。
<コメント> 

これは病気の話です。
全く同じ病気に、罹った体験談から言うと、

カンジタ(Candida)です。

耳鼻科で聞いた説明ではカンジタ菌により鼓膜に穴が開き、
耳の奥から液が漏れ出してきます。むせる温泉の亜硫酸ガス(SO3)ではなく、硫化水素(H2S)の物凄く臭い液です。御トイレの匂いです。カンジタ性「耳漏」と言うそうです。

さらに耳鼻科での説明では、
耳の奥、内耳の平衡感覚をつかさどる三半器官(耳の奥の渦巻き)もカンジタ菌に侵されて、
平衡感覚を失いフラフラします。


体験談をもとに言うと、

カンジタ症(Candidiasis)です。

体験談と全く同じ症状です。完治するまで、相当期間、薬を飲んでいます。さらに耳浴点眼点鼻全身ローションもしています。あわせて食事療法で、グルテンフリー食酢の食事が、絶対に必要です。

※ 体験談から言うと、喉が痛くなった場合は、飲み薬を少し減らします。そしてリキッドタイプのGUM(R) PLUS+で、歯磨き・うがい,そして充分すすぎをします。さらに歯茎の硬く痛い部分をオーラル脱脂綿薬で長時間噛んでいました。これは個人差がありそうです。

 

体験談から言うと、ポイントはリキッドタイプのGUM(R) PLUS+ で、うがい、そして充分にすすぎをして(数分以上)、直ぐにオーラル脱脂綿薬を噛むと効果的です。痛いところに押し付けます。さらにオーラル脱脂綿薬を噛んだまま、横臥で数十分間横になっていると、更に効果的です。夜は朝まで噛んでいます。


一方、食事は、グルテンフリーのために、レシピのバラエティーが制限されます。しかしライスピラフ、ビネガーポテトサラダ等、たくさん食べています。

新レシピとして、米粉野菜テンプラは少し難易度がありました。米粉濃さ、テンプラ油温度、直前のベーキングパウダー添加など、試行錯誤しました。(油分はキッチンタオルでほとんど吸収) そして米酢+グルテンフリー醤油+だし汁希釈(南蛮風のとろみ無)に、数分間ひたして食べる、自身新レシピです。わずかにサクサク感が残っているのを噛みながら食べる食感で御飯のおかずに最適です。

さらに体験談では、
潤沢な酢の摂取がグルテンフリーと共に、薬効を強め、回復が早くなると印象を受けました。上がらなかった左腕が上がるようになりました。
飲み薬は脱脂粉乳(商品名スキムミルク)で飲んでいます! Bye Bye


引用文献
[India1871]  
Archaeological-Survey-Of-India--Vol-1.pdf
Alexander Cunningham, FOUR REPORTS, MADE DURING THE YEARS 1862-63-64-65, The Archeological Survey of India,The Government Central Press, 1871.

[A. M. Shastri]  images
Ajay Mitra Shastri, A Note on Skandagupta's Bhitari Stone Pillar Inscription, verses 8-12

 

[IN00036]  
Razieh B. Golzadeh, Bhitari Pillar Inscription of Skandagupta

 

 


↓詳細は以下で

 

水やりをしました。3日に1回の水やりペースにしています。

 

外径3mm内径1mmのステンレスパイプの水やり具

 

10. 以来尺遺跡の装飾玉類
[以来尺Ⅰ(中), p342]

玉類の珍しい勾玉が1点出土しています。図の右下の方に、条線が刻まれた勾玉222が確認できます。

同じように条線が刻まれた勾玉が、南の熊本県の下山西遺跡でも発掘しています。時代は、同じ弥生後期です。次図の左上の勾玉です。


[下山西(しもやまにし, 乙姫), p60]
“ほぼ弥生時代後期終末時期に属するものと考えられる。”
[下山西(乙姫), p201]
“本住居址より1点の石製勾玉が出土する。… 855は硬玉製の勾玉である。全長3.3cm断面形は左右にやや長い円形で9mm×12mmである。勾玉表面には条線が刻まれている。条線の位置関係図に示す通りこれらの条線は表面を基本面として2本l単位でなされている。表位置には中央部に内外面から方向をちがえて2本さらに外側に2本の条線を刻む。さらに頭部に平行して2本の短い条線を引く。裏面は長い条線を内側から外側へ2本と短い条線を1本引く腹部にも下方から上方に向かって1条描く頭部には2本を1単位として背側から腹側へ描く。色調は黒色であり条線部は白色となる。重量7.349gである。”
[下山西, p292]
“石製勾玉 30号住居址内出土の硬玉製定形式勾玉である。全長3.3cmを測り比較的大型で表面には … 14本にも及ぶ条線が刻まれている。このように多数の条線が施される例は少なく定形式勾玉の中では香川県大井遺跡出土の6条の刻線を有する例とともに特異な資料と言えよう。しかも2条を1単位として施文する技法は他に例は見られない。呪術的な何らかの要素を強く示すものとも考えられる。なおこの資料は刻線が貧弱で浅く頭部穿孔部に外縁からの刻線が達していないためここでは森貞次郎氏分類の定形式勾玉としてあつかうこととした。”

 

下山西遺跡の勾玉は、次図のように熊本県から香川県を経由する東へのルートが考えられます。一方、北から芦屋上陸で神水遺跡までのルートも前回ブログで紹介しました。

福岡県の以来尺遺跡の勾玉も条線が刻まれていましたが2条1単位ではないです。熊本県下山西遺跡-香川県大井遺跡ルートの「2条1単位の条線」とは、同一ではないです。しかし勾玉に条線を刻むという、ある大きなグループ内の何らかの同一性があるように思えます。

現在の大動脈と言われるのは、山陽新幹線や国道2号線などです。これとは別に四国の島伝いの「ヒスイの道」が東へつながっているようです。


11. 以来尺遺跡の石器

日本の本格的な水田稲作は、福岡平野のど真ん中、板付遺跡G-7abの彩陶を伴う板付Ⅰ式土器(遠賀川式土器)の時代から始まったとされています。
朝鮮半島の北廻りに稲作は無い時代です。西または南からです。熱帯ジャポニカですから中国南部です。熱帯ジャポニカと彩陶の組合せは、次図の闽越(びんえつ)の曇石山遺跡です。日本の稲作の基本特許は福建省が持っていると言えます。子孫累々、日本の稲作は永遠です。

鉄器文化により、稲作の生産性は向上しました。以来尺遺跡は完全に鉄器文化です。しかし完全に鉄器文化の以来尺遺跡でまだ使われている石器がありました。ここで見ていく、砥石(といし)と石包丁です。

砥石
次図は砥石です。全部出土した住居跡は異なります。ほぼ各住居跡毎に、砥石が、各1個づつ出土しています。
[以来尺Ⅰ(中),pp328-341]


参考として、鉄斧以外の鉄器を次図で見てみます。
左図:[以来尺Ⅰ(中),p338]  右図:[以来尺Ⅰ(中),p339]

 

ほぼ各住居跡毎に、鉄器が、各1個づつ出土しています。各住居で鉄器を日常的に鉄器を使っていたようです。左上1列目は前述した鉄鏃です。左上2列目以下、小刀、彫刻刀、タガネ、ノミ、ヤリガンナ・・・などのようです。破片でよくわからないものもありますが、木工加工のセットのようです。
*左上の一列は鉄鏃ですが10個弱で武器は少ないです。住居毎ではないです。また鉄斧は図中に無いですが集落全体で10個程しか出土していなく住居毎ではないです。
以来尺遺跡から数km北の福岡平野の弥生後期は、やっと青銅器が盛んになり青銅器工房が多数発掘されています。鉄器は集落全体で1個か2個でした。
一方、集落全体が朝鮮半島東南部の大成洞遺跡付近からの直接移民である以来尺遺跡は、同じ弥生後期で、わずか数km北の福岡平野と異次元の違いです。以来尺遺跡は既に完全な鉄器文化です。邪馬台国系の隈・西小田地区遺跡群に対して、最前線で対峙する半島からの移民は、最新の鉄器文化を持っていました。砥石と鉄器はセットです。


石庖丁
次図は石器の石庖丁です。石庖丁は稲穂狩りに使われることが知られています。更に石庖丁は脱穀もできるようです。完全に鉄器文化となった集落でも、石庖丁が使い続けられた理由でしょう。全部出土した住居跡は異なります。各住居毎に1個持っていたようです。
[以来尺Ⅰ(中),pp325-327]

 

以来尺遺跡は、農具が全く出土していないので農業ではないです。しかし稲刈りシーズンだけ、季節労働者として、集落総出で稲刈りの出稼ぎに行っていたのかもしれません。東欧は、秋の収穫シーズンに、西欧に季節労働者として出稼ぎに行っていました。

 

また田植えも一時的な労働力を必要とします。ただ田植えは道具を使わず手作業ですから痕跡はないですが。出土遺物も無く、根拠はありません。しかし田植え歌や田楽などの文化があります。これより通常は楽器演奏や舞踊の芸人が、季節労働者として、田植えに参加していたかもしれません。ただ弥生後期に田植えをしていたかハッキリしません。まだ直播きだったかもしれません。田植えが始まったのは弥生後期か古墳時代ころと言われていますが。

 
12. 以来尺遺跡の生業
ここで出土遺物より、以来尺遺跡の生業を推察してみます。
以来尺遺跡は丘陵上にあることより水田稲作はまず無理です。山の斜面の棚田という方法もありますが、農耕具は全く出土してないので農業ではないです。

 

まず狩猟採取を考えますが、鏃が少なく狩猟ではなさそうです。ドングリ等の木の実の痕跡も見当たりません。また数百人もの大集落で狩猟採取は無理です。遊牧や豚畜産も考えられますが、牛・羊・豚の動物の骨は全く見つかっていません。

 

数百人の以来尺遺跡の生業を、次のように推察してみました。

 

① 鍛造袋状鉄斧が7個出土していることより、そのまま木こりです。基山がすぐありますので伐採して、材木と農家の米と物々交換していた。これは男性の仕事です。在地系農家の竪穴住居でも柱を2本または4本立てます。更に梁などにもしっかりとした材木は必要です。収入が見込めそうな主業として第一に挙げられます。脆くなく壊れない丈夫な鍛造袋状鉄斧は、重要な鉄器でした。

 

② 小さな鉄器が各竪穴住居毎に出土していることより、材木の製材加工の仕事です。山で鉄斧を使って切り倒した木を、丸太・柱材・板材へと製材する仕事です。小さな鉄器の中に、板材加工に使用するヤリ鉋らしきものも見られます。小さな鉄器は住居毎に発掘されていますので、集落全員で製材木工加工をやっていたかもしれません。

 

③ 各住居毎の石庖丁より、前述した稲穂狩りの季節労働者です。

以上、主に出土遺物から想定される生業を列挙してみました。他に山間の仕事として、材木を使った木炭窯が考えられますが、近くに窯が発見されていないのでわかりません。また以来尺遺跡で出土している土器も、比較的低温焼成の野焼きと考えられる土器が大部分です。大規模な高温窯・炭窯というものは以来尺遺跡には無いかもしれません。

 

敵対する邪馬台国系の隈・西小田地区遺跡群のすぐ前にありますが、以来尺遺跡は武具が少ないので100%戦闘集団ではないです。今風にいうと予備役で、他に生業を持った集団です。農業ではないですが、数百人の集落ですから何か別の生業は持っていたはずです。

 

水やりをしました。すでに温室内は暑いです。しかし、ここ数日は、さほど天気は良くないので、3日に1回の水やりペースにしています。

 

外径3mm内径1mmのステンレスパイプの水やり具

 

9.8. 瑞安

琉球海路は、中国南部の鵜飼から想定できます。海路上の諏訪ノ瀬、さらに日本の岐阜の長良川鵜飼です。そして諏訪湖までつながりがあります。

 

福岡県の芦屋の遠賀川式土器は耳無ですが、中国の甘粛省蘭州のXindian culture (辛店文化)の彩陶です。BC1300-BC1046、姜族虐殺で有名な殷墟の時代です。BC770の福岡県の芦屋の遠賀川式土器、そしてBC1300- BC1046の中国の辛店文化、この2つの接点を探してみます。時代も場所もズレていますが、共通接点は『瑞安』です。遼寧省葫芦島市(昔の『瑞安』県)、そして浙江省最南部の温州市『瑞安』です。福建省最北部のビン越の曇石山には古くBC2000頃から彩陶があります。"曇石山" (Tanshishan) と "檀石塊" (Tanshihuai, AD137-181) は、発音が偶然似ています。日本語の"TANISHI"は、淡水巻貝です。

遼寧省葫芦島市『瑞安』と浙江省『瑞安』+福建省が、中国沿岸航路で直接つながっています。

 

そして福岡県の芦屋に上陸しました。西周が弱体化して東周となったBC770です。麗水は西周と盟友でしたから、西周の弱体化に呼応します。BC770頃に、麗水が弱体化した朝鮮半島を通過したようです。遼東半島からは夏家店上層の遼寧式銅剣が南下して馬韓を築いています。豚畜産飼料用の農業奴隷です。びわこ型銅剣とも呼ばれる遼寧式銅剣と黒色磨研土器が特徴的です。同じ夏家店ですから彩陶は容易に通過できます。

 

福岡県の芦屋に上陸し、遠賀川式土器が現れます。
芦屋が日本での始祖の地域です。
時代はBC770頃の弥生前期です。
ハッキリと年代がわからないくらい昔の話です。

 

同時期、福岡平野ど真ん中の板付遺跡G-7a第7-9層に彩陶が現れます。福建省の闽江のビン越の曇石山の熱帯ジャポニカです。福岡平野ど真ん中の福建省のビン越と、遠賀川式土器の芦屋の始祖は、ほぼ同時期の古株で、『瑞安』で共通する彩陶です。

 

福建省の泉州にはマニ教寺院が1個現存します。
マニ教は特に仏教の教義を強く取り込んでいます。
最初は気づかないですが、彩陶と並び最大勢力です。


"髄" (Japanese pinyin:Zui)という漢字とは異なり、
"瑞" (Rui, Japanese pinyin:Zui)という漢字です。

 

地図は浙江省温州市瑞安と福建省北部です。

『瑞安』は浙江省最南部の飛雲江河口にあります。少し北の欧江河口に温州の中心街があります。欧江の上流域が麗水です。ドルメンが多くあります。福建省北部に闽江があり、昔から『ビン越』と呼ばれています。曇石山遺跡はBC2000頃から彩陶が継続的にみられる大遺跡です。少し離れた泉州にはマニ教の寺院が現存します。
周辺も見てみます。浙江省の省都は北部の杭州市(Hangzhou)です。浙江省は北部の杭州湾(Hangzhou Bay)が有名です。湾北側は昔から河姆渡文化・良渚文化が知られています。現在の上海市であり、直轄市です。今回話題の浙江省温州市『瑞安』は浙江省最南部にあります。

 

福建省北部に闽江から少し南の泉州市の南端の曙江市にはマニ教の寺院が現存します。中国の国家重要文化財に指定されているため、中国政府の戦略上、消滅させるわけにはいかないようです。福建省は中国政府の戦略上の重要拠点です。東隣にはTaipeiも確認できます。

 
9.9. 九州北部の神功開宝の分布

物部氏が合流部に攻め込んだのは、527年の磐井の乱の時です。しかし汐井掛遺跡は、発掘調査より、(倭国大乱の始まる) 150年頃から平安時代まで継続的に存在する大遺跡です。765年初鋳の神功開宝が3枚出土していることより、桓武天皇・天智天皇に密接に関連していることが分かります。なぜならば『神功開宝』は、畿内でも、桓武天皇・天智天皇に直接的に関連する地域しか出土していません。

 

図は九州北部の『神功開寶』の出土地点です。宮若市の汐井掛第5号墳(3枚)と糟屋郡久山町の中久原(1枚)です。「汐井掛」は弥生後期-古墳-奈良時代と継続的に芦屋グループの大拠点です。糟屋屯倉は磐井の乱の時に直轄に接収したので「中久原」が通過できます。「香椎」は地元民なのですが、平野部が無く(現在の香椎駅北側は全て埋め立てです)、少人数です。香椎宮に大きな社を寄進して神功皇后を祀っていますので通過できます。芦屋グループの桓武天皇直轄の経路で占められています。西の早良平野のグループは必要ないようです。

 

この時代の朝鮮半島は新羅が既に統一していますので、港は芦屋ですが往来はわずかです。日本国内では権力争いです。瀬戸内航路の畿内-九州北部の拠点が「行橋」です。527年の磐井の乱の時に物部氏が築きました。しかし物部氏は、領地を天皇のお狩場に献上するよう強要されるなど嫌がらせされ587年に滅びました。筑後川合流部に生足で踏み込み、住血吸虫肝臓病になったようです。高句麗も668年に滅びました。物部氏は名を変え生き延びました。物部氏の旧領地・旧領民を、光仁天皇・桓武天皇の時代に、完全に手中にしたようです。九州では「行橋」-「犀川」の経路です。ここで「新入」拠点が活躍します。そして「汐井掛」です。また小倉北区では「清水(きよみず)」-「篠崎宮」-「菅生の瀧」ルートもあります。蛇の伝説があります。

 

畿内と似た地名が九州北部に多くありす。真似て付けたのかもしれません。『神功開寶』は枚数としては、畿内が圧倒的な枚数です。古墳時代以降は、九州北部では畿内土器が完全に席巻していますから、畿内に権力中枢があったことは確かです。

 

前に兵庫県の芦屋から上陸して、山道を迂回して平安京にたどり着いたという『神功開寶』の芦屋ルートを示しました。

図は福岡県の遠賀川河口の芦屋です。西側は芦屋漁港。東側は柏原漁港。桓武天皇の別称は柏原帝です。さらに白浜があります。白浜、柏原はよくある名前なのですが、芦屋-柏原-白浜の地名がセットで存在します。畿内にも、芦屋、柏原、白浜という桓武天皇に関連のある地名がありました。

 

今回は桓武天皇に関連する地名を見ました。BC770頃に遠賀川式土器が、福岡県の芦屋に上陸した話をしました。さらに遠賀川沿いには、神武天皇に関連する名所・旧跡がたくさんあります。他の地域にも神武天皇に関連する名所・旧跡が多くありますが、遠賀川沿いは本当に多いです。始祖の神武天皇の福岡県芦屋への上陸をBC770頃とすると、歴史をたどるのが難しいくらい昔の話です。

 

日本で文字記録が始まったのは、古事記・日本書紀そして各地の風土記からです。AD700前後からです。始祖の神武天皇がBC770頃とすると、1400年後です。それまでは口承です。

 

『一の谷のいくさ敗れ・・須磨の嵐に・・』で始まる「青葉の笛」。

須磨、屋島と敗れ、平家は福岡県の芦屋に逃げ込もうとします。しかし追い返され、壇ノ浦で最終決戦し滅亡。東国武士の源氏に敗れた、西国平家の話です。平家が最後に逃げ込もうとしたのが、地図の福岡県の芦屋です。
平家は後白河法皇にも裏切られました。西国にも味方がいません。

『祇園精舎写の鐘の音・・・』で始まる平家物語ですが、平家は既に敗れる雰囲気があったという感じです。

 


博多遺跡群の『和同開珎』

『和同開珎』が多数出土した博多遺跡群です。筑前一宮の住吉神社が近くです。壱岐・対馬、奈良屋町、呉服町(京都?)交易拠点を彷彿させる地名が残っています

 

弥生時代・古墳時代までは、現在の博多駅の南側の比恵遺跡に中心街がありました。しかし、奈良時代・平安時代には、博多駅の北側の博多遺跡群に中心街が移動しています。現在も博多区役所や博多署があります。ただ現在の人通りの多い繁華街は、博多駅と中州・天神に2極分化していますから、博多遺跡群はその間の閑静なたたずまいの住宅街・オフィース街です。駅から徒歩も可能で街並み散策には、ちょうどいいかもしれません。

 

博多駅博多口側へ出ると、徒歩10分圏内に筑前國一宮の住吉神社があります。古墳時代の港はこのあたりにあったようです。現在の岸壁は、ずっと北の築港本町・沖浜町にありますが。
北の博多遺跡群では博多山笠で有名な櫛田神社があります。東側に卍萬松山・承天寺があります。太宰府の宝満山にある碧雲寺は、現在、この萬松山・承天寺別院になっています。

2000年に出版されたPDF『九州地方出土の和同開珎』で、1979-2000年出土の博多遺跡群の銅銭があります。
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/7997/1/BA8697693X_2_954_964.pdf

 

9.6. 畿内の神功開宝の分布
日本は『麦』が全く無いので『頭蓋変形』はありません。広田遺跡も『Coins』が本格的になった平安時代以降に完全に終焉しています。しかし日本は第2次世界大戦後まで尖圭コンジロームが蔓延していた世界的にも特異の歴史があります。『麦』が無いですが、島国で隔絶された日本は、『頭蓋変形』を伴わない『Coins・遊郭』という特異な歴史を歩み始めます。

 

日本のコイン発行は708年の「和同開珎」が初鋳です。そして760年の「萬年通寶」、765年の『神功開寶』と続きます。ここでは、汐井掛5号墳(宮若市)で出土した『神功開寶』を中心に見ていきます。

 

まず「神功開寶」発行前後の政情は次のようなものです。764年の「藤原仲麻呂の乱」で淳仁天皇は廃位され、高野天皇(称徳天皇)と有名な道鏡による政権となります。このような政情下、765年に「神功開寶」は発行されました。770年には光仁天皇が即位し、天武天皇系の皇女の井上内親王が皇后となりました。その子の他戸親王が皇太子となりました。天武天皇とは女系でつながっています。しかし政変は続きます。皇太子であった天武天皇系の他戸親王は772年に大逆罪で廃太子され、773年に後の桓武天皇となる山部親王が皇太子になります。そして775年に他戸親王は亡くなり、天武天皇系は男系も女系も完全に断絶しました。桓武天皇は781年に即位すると、784年に永岡京へ戦闘します。794年には更に大きな平安京へ戦闘しました。

 

図は[九州縦貫20 宮若]のTab.23より、『神功開寶』を畿内の地図にプロットしました。『神功開宝』は偏在しています。そして分布に特徴があります。特徴とは、桓武天皇に関連する地域だけに出土しています。

 

大阪府」は完全に空白地帯です。奈良時代には川内湖の埋め立ては終わっていましたから、空白は少し奇異です。奈良県との県境の柏原市の近くに4枚だけ。桓武天皇は別称が柏原帝です。「左京」も空白地帯です。京都府の平安京の鴨川の東側です。吉田に1枚だけです。

 


対照的に平安京の右京つまり鴨川の西側は、40枚、28枚です。18枚は、永岡京です。桓武天皇は永岡京で戦闘して、勝利宣言しました。兵庫県「芦屋」から赤太線矢印で示した経路も指摘できます。宝塚に、23枚、1枚、4枚です。亀岡に40枚です。空白地帯の大阪府を避けて、北の山道を福智山あたりまで大迂回する経路です。そして永岡京、平安京の右京側に至ります。奈良県の平城京の最北部、最も京都寄りの地域に、171枚、35枚、98枚です。桓武天皇は平城京から永岡京に戦闘しましたが、即位は平城京でした。平城京の最北部にも桓武天皇の拠点があったようです。少し東の40枚は、東の三重県へ抜ける山道の経路上です。

 

『神功開寶』は、桓武天皇に直接関連する地点だけです。

 

一方、大津宮のあった滋賀県大津市に、82枚、49枚、97枚、8枚、45枚と偏在しています。大津宮は、661年に斉明天皇が朝倉宮で急遽後、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が即位せず執政しました。即位後も天智天皇(668-672年)として都をおきました。次に天武天皇系に皇系は移りました。しかし770年、天智天皇の直系である光仁天皇(770-781年)が即位し、天智天皇系の皇系になりました。775年に天武天皇系は男系も女系も完全に断絶しました。そして光仁天皇と高野新笠の子が、桓武天皇(781-806年)です。さらに滋賀県では、琵琶湖に浮かぶ沖島に810枚と最多です。すぐ近くの安土町に6枚です。

 

大海人皇子(おおあまのおうじ)の拠点だったかもしれません。

 

※ この琵琶湖の沖島810枚を見て、博多湾に浮かぶ志賀島で出土した国宝『漢委倭奴國王』金印を思い出しました。海人独特の習性です。誰も来ない孤島に宝を隠します。志賀島出土の金印に、ほんの僅かに疑念を持っていました。しかし100%確信しました。志賀島出土の金印は、57年に光武帝より、海人の奴国王へ授与された本物です。

 

神功開宝の初鋳は765年です。光仁天皇の即位は770年ですから、765年、桓武天皇はまだ皇太子でもありません(皇太子の長子でしたが)。神功開宝の初鋳の765年頃、桓武天皇は高級官吏として、銅銭『神功開宝』発行の実務を仕切っていたかもしれません。770年の光仁天皇の即位に伴い、桓武天皇は皇太子になりました。そして781年に桓武天皇は即位し、806年まで在位しました。

光仁天皇さらに桓武天皇も平城京で即位しました。ここで平城京内での『神功開宝』の分布を少し詳しく見てみます。奈良市佐紀町に171枚、奈良市法蓮寺町に35枚。奈良県の北端の平城京、その最北端の京都寄りの大極殿だけに偏在しています。ただし西大寺は空白です。さらに平城京でも三条の大森付近は空白地帯です。東大寺と元興寺は、塔址に3枚、40枚です。他は平城京の大通り沿いの杏に98枚です(これだけ街中で、桓武天皇は御用商人だったのかもしれません)。このように平城京内でも偏在しています。一般には流通していなかったようです。桓武天皇の直系だけのようです。奈良県南部はほぼ空白地帯です。ただし葛城市に数枚。天智天皇が葛城皇子を名乗っていましたから少し関連があるのでしょう。

 

桓武天皇は2回遷都しています。平城京→長岡京、長岡京→平安京です。『神功開宝』は、桓武天皇の遷都した地域だけに集中的に出土しています。桓武天皇が皇太子時代さらに天皇在位中の期間、770-806年は『神功開宝』が有効な銅銭として使われていたと考えられます。

 


※ 神功開宝のゆえん
8世紀初頭に成立した日本書紀にある神功皇后に、関連がありそうです。まず日本国の始まりを中国古文書で確認してみます。

 

旧唐書の日本國
旧唐書の東夷伝の中に、倭國条と日本國条が別々にあります。旧唐書時代まで、倭國と日本國は、別種として存在しています。次の原文です。
旧唐書 列傳第一百四十九上: 東夷
 倭國条 
 “倭國者,古倭奴國也。”

  <概訳> 倭国は、いにしえ(たぶんAD57)の倭奴国である。
 日本國条 “日本國者,倭國之別種也。”
  <概訳>  日本國は、倭国の別種である。
  <コメント> 倭国大乱は、九州北部の倭国連合国内の奴国と邪馬台国の内乱でした。この旧唐書では、"倭国"は古の奴国です。そして奈良時代初期、"日本國"は 古の邪馬台国だったかもしれない。しかし奈良政権の主要な政治家たちは天然痘で死んだ。そして次の"新唐書" は、日本の奈良時代後期です。

新唐書の日本
新唐書の東夷伝は、日本条だけです。倭國に言及は無く、倭奴国が日本の古とされています。次の原文です。
新唐書 列傳第一百四十五 東夷
 日本条 
“日本,古倭奴也。”

  <概訳> 日本国は、いにしえ(たぶんAD57)の倭奴国である。
  <コメント> 奈良時代後期、"新唐書"では、"日本"は、古の"邪馬壹國"から、別種の"倭奴"へ変化している。天然痘パンデミック。

AD57に後漢の光武帝より、奴國王へ授与された金印『漢委倭奴國王』は、博多湾の志賀島で出土しました。これが『倭奴國』です。中平年間(AD184-189)の邪馬台国の女王卑弥呼の"中平"鉄刀の朝貢記録は消されました(シリーズ2)。248年の女王卑弥呼没後、九州北部は畿内系土器に席巻されました。
九州北部の糸島市の平原遺跡でわずかに残った第2代女王壷与の記録が265年の西晋にあります。265年-400年、中国古文書には、『倭奴國』、『倭國』、『日本國』、どれも何も記録がありません。400年-480年頃に、中国南朝に倭五王の記録があります。これは「畿内の倭國」です。

 

「畿内の倭國」は6世紀初頭に男系の後継者が途絶えます。507年に応神天皇の5代曽孫の継体天皇が、前天皇の皇女を皇后として即位します。ここからが唐書の『日本國』です。「畿内の倭國」は直系の男系が断絶し、応神天皇の5代曽孫の継体天皇の男系へと系譜が変わっています。「継体天皇の男系」=『日本國』だと思います。「畿内の倭國」は直系の男系が断絶しましたが、一族郎党は勢力を維持していたと考えられます。つまり「畿内の倭國」=『倭國』と「継体天皇の男系」=『日本國』が並立していた状態です。『倭國』はAD57の九州北部の古の倭奴国である。『日本國』は倭国の別種つまり古の"邪馬壹國"の系列だった。奈良時代前半までこの状態が続いた。

 

しかし奈良の天然痘パンデミックの後、奈良時代後半の新唐書は『日本國』だけです。さらに『日本國』は九州北部の古の『倭奴國』の系列へと変化しています。古の"邪馬壹國"の系列が消えています。

 

新羅本紀に『倭女王卑彌乎』の記録があります。173年です。後漢年号の『中平』が184年-189年ですから、183年ではないかと思うのですが。新羅が強勢となったのはAD400の公開土王の遠征の以降ですから、200年前の記録は伝聞に近いかもしれません。とにかく朝鮮半島南部から見て、2世紀末頃、九州北部に倭国連合の邪馬台国の女王卑弥呼が存在したことは確かなようです。『偽書』、『百済本」、『新羅本気』に、断片的に記録されています。

248年の女王卑弥呼没そして265年の女王壺与の記録以降、507年の継体天皇即位まで、約240年間の「畿内の倭國」の時代は、400年-480年頃の中国南朝古文書の倭五王の記録だけです。265年-400年は中国古文書には全く何もありません。


9.7. 大動脈とリンパ
次図のTab.23は、日本の皇朝十二銭の出土一覧です。1978年のものです。16ページあり全部は載せられないので、最初の部分だけ次に示します。
[九州縦貫20 宮若, PP135-150]

福岡県では、汐井掛5号墳墓、結浦(むすびがうら)があります。
結浦のすぐ南の二日市では車輪文の骨蔵器が出土しています。
https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/pdf/d-140.pdf のp21。

 

杉谷(久留米市高良町杉谷)もあります。久留米市高良は、筑後川の南側です。宝満川と筑後川の合流部です。博多の南にあります。約40kmほど距離があります。少し離れたところにありますが、筑後國一宮の高良大社があり、昔から筑紫平野の一番の繁華街です。

次図はTab.23の『和同開珎(ちん)』と『神功開寶』出土を、畿内と周辺広域でプロットしてものです。

 

和同開珎は、奈良県で最北部の平城京の大極殿で850枚と最大数が出土しています。三重県へ抜ける東部域で253枚と80枚です。大阪府は堺市で508枚です。琵琶湖沖島で197枚、大津市で90枚です。注目は金沢で545枚です。平城京までは糸魚川のヒスイが重宝されていましたが、次の平安京以降は全く忘れ去られました。再認識されたのはずっと後の1900年以降です。海岸沿い、川沿いの経路が想定できます。大動脈、関西本線沿いに分布しています。

 


神功開寶も、奈良県の最北部の平城京大極殿が、最大359枚です。東の三重県を抜ける経路では、奈良県の都祁・藺生町付近で3枚、岐阜県の山県で1枚です。長良川の鵜飼、北の白川村を通る北への経路に九頭竜、木曽川経路に諏訪があり、琉球海路と中国南部の痕跡があります。北の富山県の井波5枚の経路が確認できます。白川村は雪深いですが、日本海側への中継拠点として繁栄していたことがわかります。岐阜の鵜飼から木曽川上流の塩尻、諏訪、そして茅野1枚です。わずかな出土枚数ですが諏訪への木曽川経路の存在が確認できます。遠賀川式土器東限と一致します。
特記は、はなれて南紀の白浜の隣の田辺町18枚です。

前述の和同開珎大動脈とは異なり、

神功開寶は明確に別ルートが存在します。

 例えれば、リンパ腺です。

 

9.5. 亀茲の頭蓋変形と官製遊廓
AD560、Huna Coins最後のHephthaliteが滅びました。

しかし『頭蓋変形』は続いていました。唐の玄奘による、タクラマカン砂漠AD629-645の見聞記録「大唐西域記」で記録されています。「大唐西域記」はAD646に、唐の皇帝の太宗に奏上されました。宮中さらに庶民の間でも爆発的なヒット作になったようです。ここでは「大唐西域記」の日本語の解説本の「解説西域記」より、『頭蓋変形』部分だけ引用します。
※ この「解説西域記」は日本の古い文語体で書かれています。現在の日本の口語体の語尾の「…です。」,「…します。」, 「…しました。」等が無いだけで、ほぼ同じなので読めると思います。

 

「解説西域記」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946495/7?tocOpened=1

※ 書誌情報タブ; 公開範囲 : インターネット公開(保護期間満了)
https://www.ndl.go.jp/jp/copy/publication/index.html
https://www.ndl.go.jp/jp/use/reproduction/index.html


[解説西域記, 卷第十二, pp974-975 (562/693)]
第十三節 佉沙國・・・    【本文】省略
【解釈】・・・巧なる毛織物を製造す。氣候和順なれども人民は徳義禮讓を重んぜず狡猾にして往々詐偽を行ふ。風俗頭部の偏平なるを好み、子女生るれば其頭を押し強いて平ならしめんとす[この俗屈支國にあり、巻一、四三頁参照]容貌野卑にして文身をなし碧眼を有す。其文字は本と印度より傳へ、幾分か變化せりと雖も、大體は舊形を存す、言語は四隣の諸國と異れるものあり。篤く佛法を信じ喜んで供養をなす、寺院數百、小乗有部の僧一萬餘、三藏及び・・・”

 

[解説西域記, 卷第一, pp42-43 (62/693)]
第四節 屈支國・・・    【本文】省略
【解釈】『魏書』巻一百二 龜茲傅には收稅法を說て「稅準レ地徵レ租無レ田者則稅一銀錢一」即ち土地を所有する農民には地租を徴し、商工業者には銀錢を以て稅を官に納めしむといへり。又同傳は龜茲の風俗・物産略ぼ焉耆に同じと傅ふると雖も、『西域記』の文に依れば、特に音樂を以て近隣諸國の間に名ありといふ。『魏書』龜茲傳には「俗性多淫、置二女市一收二男子一、錢入官」といへば、龜茲の人民は音樂に巧なるより狭斜の地を設け、官の保護ある遊廓を造れり。生兒の頭部を押へて平坦ならしむるは此國の奇習なるが如し。此國の佛教は玄奘時代には小乗有部にして寺院百餘、僧徒五千餘人、能く梵本に就て佛書を讀む。”


629年-645年の見聞より、佉沙國と屈支國(亀茲)で『頭蓋変形』が行われていました。さらに屈支國(亀茲)では、“官の保護ある遊廓を造れり” つまり亀茲には官製遊廓があったようです。まだ唐の長安には政府公認の遊廓は無かったようで特記されています。この亀茲の風習が日本の戦前に似ています。

 

唐の情勢が変わってきます。

655-690年、皇帝の若い妃の則天武后による垂簾政治です。この間に朝鮮半島・日本でも大きな変化があります。

661年の斉明天皇の急遽。663年の百済滅亡。668年の高句麗滅亡。
690-722年、則天武后自ら皇帝に即位。中国初の女帝です。日本でも持統天皇が即位します。日本は女王卑弥呼、推古天皇、斉明天皇などの前例がありました。

 

この頃、日本では平城京に遷都し、日本書紀で『神功皇后』の記述があります。旧唐書でも「日本國」の記録があります。

平城京では752年に「インド僧侶」を招いて「大仏開眼」が執りおこなわれました。日本国の威勢を示し、日本国が世界に知られた時です。

 

そして『神功開宝』の初鋳が765年です。770年に光仁天皇が即位し、桓武天皇は皇太子となりました。781年、桓武天皇が即位しました。

 


※ 大唐西域記の往復路
往路は赤です。往路は赤①-赤③までが天山南路です。しかし赤③→赤④で突然の天山の山越えです。赤④-赤⑳は天山北路です。図を見て分かる通り少し変則経路です。⑰「佉沙國」を避けています。

 

復路は紫です。復路は緑①から西域南道で帰路につきます。復路は唐の皇帝から直接の帰還命令が出ていましたから、護衛がついていたのでしょう。「佉沙國」も通過しています。

 

往路の赤③→赤④で急に経路を変更したのは、緑⑰の「佉沙國」の治安が予想以上に著しく悪化していた為ではないかと思われます。

 

現実的に②屈支國、③跋祿迦國の現状は、『頭蓋骨変形」、俗性多淫で官製遊郭という現状で、命の危険も感じていたでしょう。さらに次の⑰「佉沙國」はまだ酷いという噂を聞いたのではないでしょうか。赤③→赤④の北方向への天山越え経路は今でも道路が無く、氷結の険しい山道で命の危険もあります。

しかしそれ以上に、⑰「佉沙國」を避けることを最優先したようです。

 


※「大唐西域記」に登場する全ての国名の一覧表
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946495/7?tocOpened=1
 

「大唐西域記」往路:
0.高昌, 1.阿耆尼國, 2.屈支國, 3.跋祿迦國, 3a.大淸池, 3b.素葉水, 3c.素葉水城, 3d.千泉, 3e.呾邏私城, 3f.恭御城, 4.笯赤建國, 4a.白水城, 5.赭時國, 6.㤄捍國, 7.窣堵利瑟那國, 7a.葉河, 8.颯秣建國, 9.弭秣賀國, 10.劫布咀那國, 11.屈霜儞迦國, 12.喝捍國, 13.捕喝國, 14.伐地國, 15.貨利習彌伽國, 16.羯霜那國, 16a.鐵門, 16b.覩貨邏國, 17.呾蜜國, 18.赤鄂衍那國, 19.忽露摩國, 20.愉漫國, 21.鞠和衍那國, 22.鑊沙國, 23.珂咄羅國, 24.拘謎陀國, 24a.縛芻河, 24b.活國, 25.縛伽浪國, 26.紇露悉泯健國, 27.忽懍國, 28.縛喝國, 29.銳秣陀國, 30.胡寔健國, 31.呾刺健國, 32.揭職國, 33.梵衍那國, 34.迦畢試國


「大唐西域記」復路:
漕矩吒國, 1.弗栗恃薩儻那國, 2.迦畢試國, 3.安呾羅縛國, 4.闊悉多國, 5.活國, 6.瞢揵國, 6a.阿利尼國, 6b.曷邏胡國, 7.訖栗瑟摩國, 8.鉢利曷國, 9.呬摩呾羅國, 10.鉢鐸創那國, 11.淫薄健國, 12.屈浪拏國, 13.達摩悉鐵帝國, 13a.尸棄尼國, 13b.商彌国, 14.波謎羅川, 15.朅盤陀國, 16.烏鎩國, 17.佉抄國, 18.斫句迦國, 19.瞿薩旦那國, 20.媲摩城, 21.尼攘城, 22.覩貨邏國, 23.折摩駄那國, 24.納縛波國, 25.沙州

 

水やりをしました。根腐れが心配でしたが、天気のいい日が続き、すぐ乾くので、毎日やっています。

 

外径3mm内径1mmのステンレスパイプの水やり具

 

 

 

 

突然ですが、図書館で「大唐西域記」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946495/7?tocOpened=1
を読んで考えてみました。

Step AB
つつましい戒律

Step C
大乗・小乗仏教
極楽浄土信仰

Step D-Z
ヒンズル教 カースト

 ■支配者■ ←分離→  神格化
   △       製鉄ヒッタイト式
  婆羅門      秘匿・隠遁
 バイシャ バイシャ 
シュードラ シュードラ