8.14. アレキサンダー大王遠征 BC334-BC323
アレキサンダー大王は、BC334にマケドニアからの大遠征を開始します。初戦のグラニコスの戦い(Battle of Granicus)で、自ら突撃して、ペルシャ軍の敵将ミトリダテスと副将の胸を鉄槍で突き殺すという鮮烈なデビューをします。敵のペルシャ軍の将軍は、鉄の鎧で武装していますから、ペルシャの鉄の鎧を貫いたということになります。マケドニアの鉄槍が、ペルシャの鉄を上回っていた証拠です。初戦のグラニコスで完勝したアレキサンダー大王はトルコの西南地域のLukkaの海岸沿いの都市を制圧します。このLukka地域にはBC1200のHittite滅亡後には鉄器製作の主要な工人が揃っていました。製法はHittite式の"焼当"です。BC6000のCatal Hoyukの聖地は迂回しています。中央部へ回り込みペルシャ軍の拠点都市を次々と制圧します。南下して前述したGoltepe/Kestelの旧Sn鉱山のすぐそばを通過しています。Indusの子供奴隷を解放する経路を廻ったようです。そして近くには必ずペルシャ軍の拠点があった。マケドニア軍の鉄器武器は、Indusno子供の元奴隷が製作していましたから、各地で解放したIndusの奴隷にも充分な武器が与えられたはずです。さらにペルシャ軍は強制徴用の従軍兵が殆んどですから劣勢になると直ぐに逃げます。しかしマケドニア軍は解放された奴隷で失うものはありません。さらに劣勢の陣地に、大王本隊の騎馬隊がなだれ込んできて、逆に敵を壊滅させますから、まるでマジックです。

通常、数万の軍の総大将が自ら最前線に突撃していくことはあり得ません。しかしアレキサンダー大王自らが突撃していく姿は軍の士気を否応なく高めました。大王が討たれれば遠征は終わりです。しかしマケドニア軍は本当に強かったようです。

 

そして南東部の"TABAL"地域のイッソスの戦い(Battle of the Issus)で、BC333、アケメネス朝ペルシャの皇帝ダリウスⅢ世(Darius Ⅲ)率いるペルシャ軍の本隊と、激突します。図のように、実際の戦闘は、イスカンデル湾の奥のPinarus川(Kocacay)という小さな川を挟んでの対峙でした。この戦いは、マケドニア軍とペルシャ軍の本隊同士の戦いであること、さらに人口密集地の戦いであったことにより、詳細な記録が残っています。この戦いでもアレキサンダー大王自らの突撃が戦局を分けました。ペルシャ軍の本隊を決定的に破り、ダリウスⅢ世は敗走しました。この"TABAL"地域の"Neo- Hittite"商人もペルシャ軍と一緒に東のイラン方面へ逃げたと考えられます。

 

イッソスの戦いで完勝したアレキサンダー大王は、次にエジプトに攻め込みます。途中のDamascus付近の"Syra"のアラム人勢力の海岸沿いの交易都市では激しい抵抗に合います。アラム人商人が地中海東部の交易を握る重要拠点だったからです。しかしエジプトでは逆にペルシャ支配からの解放者として歓迎されました。ファラオに即位し、ナイルデルタ西に有名なアレキサンドリアの新都市を建設しました。アレキサンダー大王はエジプトでしばしの休息を取った後、再び東方への遠征を再開します。イランのアケメネス朝ペルシャ帝国の首都ペルセポリスに攻め込み破壊した。逃走したダリウスⅢ世は裏切りに合い殺された。ここにアケメネス朝ペルシャは滅びた。さらに東の中央アジアに遠征した。しかしアム・ダリア川さらにシル・ダリア川へ迫りアルタイの本拠地に近づいたところで激しい抵抗に合あった。実際には捕虜にして従軍させていた兵が次々に裏切るなどゲリラ戦となったようです。しかし敵の塞(Saka)が何故か「あなたにはかないません」と全面降伏したので北への進軍をやめた。そして遠征の最終目標である南のインダス川方面へ矛先を向けた。インダス川上流のCophenの戦いでは副将を失うなど再び激戦になった。さらに中流域のHydapesの戦いではアレキサンダー大王自身の愛馬を失うなど更に激戦となった。しかし次々と勝利した。初期目標のインダス川まで制圧し、ここで、アレキサンダー大王の東方大遠征は完結した。そしてアレキサンダー大王は帰途についた。

 

ここで着目した点は、Cophenの戦いで副将を失い、Hydaspesの戦いで自身の愛馬を失い、アレキサンダー大王死後に帝国は再び分裂したことです。"炒鋼"storyの続きです。


"炒鋼" Story (2/4) START:

BC334からのアレキサンダー大王の大遠征に同行し、Indusの子供の元奴隷の"炒鋼"の工人は、念願のIndusへの帰途に着きます。初戦Granicosで大王の"炒鋼"の槍は敵ペルシャの鉄鎧を貫き、"炒鋼"は鉄の開祖地トルコでその性能を実証します。途中エジプトへ立ち寄り、さらに一気に突き進んでAchaemenidペルシャを滅ぼし、BC326に"炒鋼"の工人の念願のIndusへ到着します。しかし、Indusには"炒鋼"の工人の知人・親類は誰も居ませんでした。元Indusの原住民は既に南インドに追いやられていた。その時、同行していたトルコ南西部の鉄器工人のルカ(Lukka)と中欧Sn産地Badenの青銅器工人の知り合いが中国の四川省の巴蜀に居た。四川省の三星堆はBC2000より青銅器が盛んな地域です。Indusの子供の元奴隷の"炒鋼"の工人は、LukkaとBadenに連れられて、中国の四川省へ移動した。

 

「タクラマカン砂漠の南部で"去胡来王"を名のり、"婼羌" (Ruoqiang)として鉄器製作をしている。」とBC2世紀-BC1世紀の"漢書"(Book of Han)に記録されている。"去胡来王"は「トルコ(胡)を去り、王が来た。」です。いつトルコを去り、いつ来たかです。BC333にトルコを去り、BC326にタクラマカン砂漠に来た。"炒鋼"の工人に同行したトルコ南西部の鉄器工人のルカ(Lukka)です。中国名"焼当"です。"羌" (Qiang)のリーダーの"留何" (jp;Ruka)です。しかしその後のルカは行方知れずで、たぶん砂漠の底だろう。また砂漠の片隅で、時折り花を咲かせているかもしれない。

 

この"炒鋼"storyでは、BC300頃に中国の四川省の巴蜀に現れた"炒鋼"は、マケドニア発としています。当時の四川省は鉄器遺跡は無く、突然、最高級品の"炒鋼"の工房が現れています。"炒鋼"の工人が来た巴蜀はすぐ秦に併合されますが、秦が中国統一の道を歩き始めます。一方、マケドニアは国家機密の"炒鋼"の工人が、全員が中国の四川省の巴蜀に行ってしまった。"炒鋼"の工人が全くいなくなったアレキサンダー大王のマケドニアの大帝国は再び3つに分裂します。

 

※ 前述したように、ここでの"炒鋼"は現在の転炉の原型です。高炉より出銑した銑鉄は炭素含有量が多過ぎるため硬いですが脆くすぐ割れます。"炒鋼"とは、出銑した熔融状態の銑鉄に棒を挿し込み錬ることにより気泡を注入し、混ぜ込んだ気泡の酸素で含有している炭素を燃焼させ、低炭素化する方法です。鉄は高温で熔けた状態でも粘度が高いので"錬る"という単語を使います。50回 "錬る"と"五十錬"です。銑鉄の炭素含有量が減ります。さらに100回 "錬る"と"百錬"です。さらに炭素含有量が減ります。今の転炉の酸素吹き込みと同じ原理です。酸素を吹き込み過ぎて炭素含有量が減り過ぎると、逆に加炭材を入れて炭素含有量を増やし微調整します。炭素含有量を微調整した後は鋳型に入れるだけです。高品質の鋼(ハガネ, Steel)が大量生産できます。中国はBC210の前漢から"炒鋼"に切り換りました。
"炒鋼" Story (2/4) END

 

中国ではBC300頃、別グループの"退火"が河北省に現れます。(次図再掲)
BC300頃から中国で強勢になった"燕"(Yan)です。"燕"の日本発音は"TUBAME"です。BC333トルコ南東部のイッソスの戦いで敗走したのは"TABAL"です。BC326アレキサンダー大王は塞(Saka)まで追撃しています。"TABAL"は、更に東へ敗走して、中国に"燕"(jp;TUBAME)として現れた。中国の戦国末期のBC300-BC221、"退化"(annealing)処理の戦国鉄斧が大量生産されました。"燕"の遺跡から大量に発掘されています。

この"退化"はヒッタイトが秘匿していた技術で、ヒッタイト滅亡後はトルコ東部の"TABAL"が継承していました。中国に"燕"(jp;TUBAME)では、"退化"で、BC300すぐに大量生産していることより、トルコの"TABAL"が直接移住して来たと考えます。トルコ発の"退化"(annealing)という全く同じ技術。時期も同じBC330頃です。名前は"TABAL"と"TUBAME"と似ています。「トルコのイッソスで敗れた"TABAL"が、日本発音"TUBAME"つまり中国の"燕"(Yan)に現れた。」と考えて間違いないと思います。"燕"はアルタイ語に近い日本の"TUBAME"の方が、トルコのオリジナルの"TABAL"に近い状態でそのまま残っています。日本ではAD1901に"炒鋼"を技術導入するまで、アルタイ鍛鉄法とトルコ"TABAL"の"退化"技術の融合でした。日本では「奇妙な」または「妙な真似するな」という使われ方もします。anti-"炒鋼"です。
また図中の"燕" (jp;TUBAME) の西は、チャリオット戦車の"趙"(Zhao)です。"趙"の本拠地が"太原" (en;Taiyuan)です。"太原"のJapanese pronunciationは"jp;TABARU"です。これはTurkeyの"TABAL"に酷似しています。エジプトのラムセス2世の寺院のレリーフにあったヒッタイトの3人乗りの戦車は、中国の戦国時代BC307の"趙"の逸話で有名です。逸話は次のようなものです。北の騎馬民族の匈奴は、ズボンを着て乗馬した騎兵で神出鬼没で縦横無尽に動き、馬上から弓を撃ってくる来る戦術です。「胡服騎射」です。"趙"では戦車に3人乗って戦う従来からの戦術を踏襲していた。しかし「胡服騎射」の騎馬族に翻弄されていました。そこで"趙"の王が「我が国もズボンを着て馬に乗ろう」と提案する場面です。戦術の大転換の前例として、この「胡服騎射」はよく出てきます。話が逸れましたが、要は"趙"がヒッタイトと全く同じ3人乗りの戦車を伝統的に使っていたことです。"趙"と"燕"のコンビが、トルコのNeo- Hittiteの"TABAL"です。BC333にイッソスの戦いでアレキサンダー大王に敗れ、中国の"趙"と"燕"に逃げて来たと考えられます。

 

さらに図中のPacificです。トルコの"TABAL"の南の勢力であるアムル人のダマスカス(Damascus)の"Syro"です。紀元前後に朝鮮半島のGimhaeの北に"Siro"という小部族が現れます。そして直ぐに強勢となり"新羅"(SILLA)を建国します。新羅"もanti-"炒鋼"ですが、鉄器製作で朝鮮半島を統一します。アレキサンダー大王と共に"炒鋼"が現れる前までは、"TABAL"と"Syro"は鉄器製作の覇者でしたから、"炒鋼"の中国以外では、まだ圧倒的な強さがあります。"Syro"は"Wootz"を海路"Pacific"共通点として"Gimhae"の直ぐ北に来たと想像されます。新羅の"Siro"は、"新"(Jin)のAD30滅亡後、白頭山の靺鞨あたりから南下して来たと思っていました。しかしダマスカス(Damascus)の"Syro"が海路"Pacific"で直接来た可能性もあります。建国神話は川を流れてきた卵から生まれた子供が優秀だったので後継者にしたというものですが。この神話は、南の海路で来た又は北の山から降りて来た移民"Syro"または"Siro"が、当時の朝鮮半島では驚きの鉄器製作技術であり、これを神話的に表現しているのかもしれません。朝鮮半島の東端の新羅の旧集落には、BC210の秦(Qin)の遺民、AD30の新(Jin)の遺民もいたことは確かです。浦項は、追討があっても山に囲まれているので少し時間が稼げます。その間にさらに日本海を越えて日本列島に逃走できるという、逃走経路上の好位置です。遺民が多いです。