9.6. 畿内の神功開宝の分布
日本は『麦』が全く無いので『頭蓋変形』はありません。広田遺跡も『Coins』が本格的になった平安時代以降に完全に終焉しています。しかし日本は第2次世界大戦後まで尖圭コンジロームが蔓延していた世界的にも特異の歴史があります。『麦』が無いですが、島国で隔絶された日本は、『頭蓋変形』を伴わない『Coins・遊郭』という特異な歴史を歩み始めます。

 

日本のコイン発行は708年の「和同開珎」が初鋳です。そして760年の「萬年通寶」、765年の『神功開寶』と続きます。ここでは、汐井掛5号墳(宮若市)で出土した『神功開寶』を中心に見ていきます。

 

まず「神功開寶」発行前後の政情は次のようなものです。764年の「藤原仲麻呂の乱」で淳仁天皇は廃位され、高野天皇(称徳天皇)と有名な道鏡による政権となります。このような政情下、765年に「神功開寶」は発行されました。770年には光仁天皇が即位し、天武天皇系の皇女の井上内親王が皇后となりました。その子の他戸親王が皇太子となりました。天武天皇とは女系でつながっています。しかし政変は続きます。皇太子であった天武天皇系の他戸親王は772年に大逆罪で廃太子され、773年に後の桓武天皇となる山部親王が皇太子になります。そして775年に他戸親王は亡くなり、天武天皇系は男系も女系も完全に断絶しました。桓武天皇は781年に即位すると、784年に永岡京へ戦闘します。794年には更に大きな平安京へ戦闘しました。

 

図は[九州縦貫20 宮若]のTab.23より、『神功開寶』を畿内の地図にプロットしました。『神功開宝』は偏在しています。そして分布に特徴があります。特徴とは、桓武天皇に関連する地域だけに出土しています。

 

大阪府」は完全に空白地帯です。奈良時代には川内湖の埋め立ては終わっていましたから、空白は少し奇異です。奈良県との県境の柏原市の近くに4枚だけ。桓武天皇は別称が柏原帝です。「左京」も空白地帯です。京都府の平安京の鴨川の東側です。吉田に1枚だけです。

 


対照的に平安京の右京つまり鴨川の西側は、40枚、28枚です。18枚は、永岡京です。桓武天皇は永岡京で戦闘して、勝利宣言しました。兵庫県「芦屋」から赤太線矢印で示した経路も指摘できます。宝塚に、23枚、1枚、4枚です。亀岡に40枚です。空白地帯の大阪府を避けて、北の山道を福智山あたりまで大迂回する経路です。そして永岡京、平安京の右京側に至ります。奈良県の平城京の最北部、最も京都寄りの地域に、171枚、35枚、98枚です。桓武天皇は平城京から永岡京に戦闘しましたが、即位は平城京でした。平城京の最北部にも桓武天皇の拠点があったようです。少し東の40枚は、東の三重県へ抜ける山道の経路上です。

 

『神功開寶』は、桓武天皇に直接関連する地点だけです。

 

一方、大津宮のあった滋賀県大津市に、82枚、49枚、97枚、8枚、45枚と偏在しています。大津宮は、661年に斉明天皇が朝倉宮で急遽後、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が即位せず執政しました。即位後も天智天皇(668-672年)として都をおきました。次に天武天皇系に皇系は移りました。しかし770年、天智天皇の直系である光仁天皇(770-781年)が即位し、天智天皇系の皇系になりました。775年に天武天皇系は男系も女系も完全に断絶しました。そして光仁天皇と高野新笠の子が、桓武天皇(781-806年)です。さらに滋賀県では、琵琶湖に浮かぶ沖島に810枚と最多です。すぐ近くの安土町に6枚です。

 

大海人皇子(おおあまのおうじ)の拠点だったかもしれません。

 

※ この琵琶湖の沖島810枚を見て、博多湾に浮かぶ志賀島で出土した国宝『漢委倭奴國王』金印を思い出しました。海人独特の習性です。誰も来ない孤島に宝を隠します。志賀島出土の金印に、ほんの僅かに疑念を持っていました。しかし100%確信しました。志賀島出土の金印は、57年に光武帝より、海人の奴国王へ授与された本物です。

 

神功開宝の初鋳は765年です。光仁天皇の即位は770年ですから、765年、桓武天皇はまだ皇太子でもありません(皇太子の長子でしたが)。神功開宝の初鋳の765年頃、桓武天皇は高級官吏として、銅銭『神功開宝』発行の実務を仕切っていたかもしれません。770年の光仁天皇の即位に伴い、桓武天皇は皇太子になりました。そして781年に桓武天皇は即位し、806年まで在位しました。

光仁天皇さらに桓武天皇も平城京で即位しました。ここで平城京内での『神功開宝』の分布を少し詳しく見てみます。奈良市佐紀町に171枚、奈良市法蓮寺町に35枚。奈良県の北端の平城京、その最北端の京都寄りの大極殿だけに偏在しています。ただし西大寺は空白です。さらに平城京でも三条の大森付近は空白地帯です。東大寺と元興寺は、塔址に3枚、40枚です。他は平城京の大通り沿いの杏に98枚です(これだけ街中で、桓武天皇は御用商人だったのかもしれません)。このように平城京内でも偏在しています。一般には流通していなかったようです。桓武天皇の直系だけのようです。奈良県南部はほぼ空白地帯です。ただし葛城市に数枚。天智天皇が葛城皇子を名乗っていましたから少し関連があるのでしょう。

 

桓武天皇は2回遷都しています。平城京→長岡京、長岡京→平安京です。『神功開宝』は、桓武天皇の遷都した地域だけに集中的に出土しています。桓武天皇が皇太子時代さらに天皇在位中の期間、770-806年は『神功開宝』が有効な銅銭として使われていたと考えられます。

 


※ 神功開宝のゆえん
8世紀初頭に成立した日本書紀にある神功皇后に、関連がありそうです。まず日本国の始まりを中国古文書で確認してみます。

 

旧唐書の日本國
旧唐書の東夷伝の中に、倭國条と日本國条が別々にあります。旧唐書時代まで、倭國と日本國は、別種として存在しています。次の原文です。
旧唐書 列傳第一百四十九上: 東夷
 倭國条 
 “倭國者,古倭奴國也。”

  <概訳> 倭国は、いにしえ(たぶんAD57)の倭奴国である。
 日本國条 “日本國者,倭國之別種也。”
  <概訳>  日本國は、倭国の別種である。
  <コメント> 倭国大乱は、九州北部の倭国連合国内の奴国と邪馬台国の内乱でした。この旧唐書では、"倭国"は古の奴国です。そして奈良時代初期、"日本國"は 古の邪馬台国だったかもしれない。しかし奈良政権の主要な政治家たちは天然痘で死んだ。そして次の"新唐書" は、日本の奈良時代後期です。

新唐書の日本
新唐書の東夷伝は、日本条だけです。倭國に言及は無く、倭奴国が日本の古とされています。次の原文です。
新唐書 列傳第一百四十五 東夷
 日本条 
“日本,古倭奴也。”

  <概訳> 日本国は、いにしえ(たぶんAD57)の倭奴国である。
  <コメント> 奈良時代後期、"新唐書"では、"日本"は、古の"邪馬壹國"から、別種の"倭奴"へ変化している。天然痘パンデミック。

AD57に後漢の光武帝より、奴國王へ授与された金印『漢委倭奴國王』は、博多湾の志賀島で出土しました。これが『倭奴國』です。中平年間(AD184-189)の邪馬台国の女王卑弥呼の"中平"鉄刀の朝貢記録は消されました(シリーズ2)。248年の女王卑弥呼没後、九州北部は畿内系土器に席巻されました。
九州北部の糸島市の平原遺跡でわずかに残った第2代女王壷与の記録が265年の西晋にあります。265年-400年、中国古文書には、『倭奴國』、『倭國』、『日本國』、どれも何も記録がありません。400年-480年頃に、中国南朝に倭五王の記録があります。これは「畿内の倭國」です。

 

「畿内の倭國」は6世紀初頭に男系の後継者が途絶えます。507年に応神天皇の5代曽孫の継体天皇が、前天皇の皇女を皇后として即位します。ここからが唐書の『日本國』です。「畿内の倭國」は直系の男系が断絶し、応神天皇の5代曽孫の継体天皇の男系へと系譜が変わっています。「継体天皇の男系」=『日本國』だと思います。「畿内の倭國」は直系の男系が断絶しましたが、一族郎党は勢力を維持していたと考えられます。つまり「畿内の倭國」=『倭國』と「継体天皇の男系」=『日本國』が並立していた状態です。『倭國』はAD57の九州北部の古の倭奴国である。『日本國』は倭国の別種つまり古の"邪馬壹國"の系列だった。奈良時代前半までこの状態が続いた。

 

しかし奈良の天然痘パンデミックの後、奈良時代後半の新唐書は『日本國』だけです。さらに『日本國』は九州北部の古の『倭奴國』の系列へと変化しています。古の"邪馬壹國"の系列が消えています。

 

新羅本紀に『倭女王卑彌乎』の記録があります。173年です。後漢年号の『中平』が184年-189年ですから、183年ではないかと思うのですが。新羅が強勢となったのはAD400の公開土王の遠征の以降ですから、200年前の記録は伝聞に近いかもしれません。とにかく朝鮮半島南部から見て、2世紀末頃、九州北部に倭国連合の邪馬台国の女王卑弥呼が存在したことは確かなようです。『偽書』、『百済本」、『新羅本気』に、断片的に記録されています。

248年の女王卑弥呼没そして265年の女王壺与の記録以降、507年の継体天皇即位まで、約240年間の「畿内の倭國」の時代は、400年-480年頃の中国南朝古文書の倭五王の記録だけです。265年-400年は中国古文書には全く何もありません。


9.7. 大動脈とリンパ
次図のTab.23は、日本の皇朝十二銭の出土一覧です。1978年のものです。16ページあり全部は載せられないので、最初の部分だけ次に示します。
[九州縦貫20 宮若, PP135-150]

福岡県では、汐井掛5号墳墓、結浦(むすびがうら)があります。
結浦のすぐ南の二日市では車輪文の骨蔵器が出土しています。
https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/pdf/d-140.pdf のp21。

 

杉谷(久留米市高良町杉谷)もあります。久留米市高良は、筑後川の南側です。宝満川と筑後川の合流部です。博多の南にあります。約40kmほど距離があります。少し離れたところにありますが、筑後國一宮の高良大社があり、昔から筑紫平野の一番の繁華街です。

次図はTab.23の『和同開珎(ちん)』と『神功開寶』出土を、畿内と周辺広域でプロットしてものです。

 

和同開珎は、奈良県で最北部の平城京の大極殿で850枚と最大数が出土しています。三重県へ抜ける東部域で253枚と80枚です。大阪府は堺市で508枚です。琵琶湖沖島で197枚、大津市で90枚です。注目は金沢で545枚です。平城京までは糸魚川のヒスイが重宝されていましたが、次の平安京以降は全く忘れ去られました。再認識されたのはずっと後の1900年以降です。海岸沿い、川沿いの経路が想定できます。大動脈、関西本線沿いに分布しています。

 


神功開寶も、奈良県の最北部の平城京大極殿が、最大359枚です。東の三重県を抜ける経路では、奈良県の都祁・藺生町付近で3枚、岐阜県の山県で1枚です。長良川の鵜飼、北の白川村を通る北への経路に九頭竜、木曽川経路に諏訪があり、琉球海路と中国南部の痕跡があります。北の富山県の井波5枚の経路が確認できます。白川村は雪深いですが、日本海側への中継拠点として繁栄していたことがわかります。岐阜の鵜飼から木曽川上流の塩尻、諏訪、そして茅野1枚です。わずかな出土枚数ですが諏訪への木曽川経路の存在が確認できます。遠賀川式土器東限と一致します。
特記は、はなれて南紀の白浜の隣の田辺町18枚です。

前述の和同開珎大動脈とは異なり、

神功開寶は明確に別ルートが存在します。

 例えれば、リンパ腺です。