10. 以来尺遺跡の装飾玉類
[以来尺Ⅰ(中), p342]

玉類の珍しい勾玉が1点出土しています。図の右下の方に、条線が刻まれた勾玉222が確認できます。

同じように条線が刻まれた勾玉が、南の熊本県の下山西遺跡でも発掘しています。時代は、同じ弥生後期です。次図の左上の勾玉です。


[下山西(しもやまにし, 乙姫), p60]
“ほぼ弥生時代後期終末時期に属するものと考えられる。”
[下山西(乙姫), p201]
“本住居址より1点の石製勾玉が出土する。… 855は硬玉製の勾玉である。全長3.3cm断面形は左右にやや長い円形で9mm×12mmである。勾玉表面には条線が刻まれている。条線の位置関係図に示す通りこれらの条線は表面を基本面として2本l単位でなされている。表位置には中央部に内外面から方向をちがえて2本さらに外側に2本の条線を刻む。さらに頭部に平行して2本の短い条線を引く。裏面は長い条線を内側から外側へ2本と短い条線を1本引く腹部にも下方から上方に向かって1条描く頭部には2本を1単位として背側から腹側へ描く。色調は黒色であり条線部は白色となる。重量7.349gである。”
[下山西, p292]
“石製勾玉 30号住居址内出土の硬玉製定形式勾玉である。全長3.3cmを測り比較的大型で表面には … 14本にも及ぶ条線が刻まれている。このように多数の条線が施される例は少なく定形式勾玉の中では香川県大井遺跡出土の6条の刻線を有する例とともに特異な資料と言えよう。しかも2条を1単位として施文する技法は他に例は見られない。呪術的な何らかの要素を強く示すものとも考えられる。なおこの資料は刻線が貧弱で浅く頭部穿孔部に外縁からの刻線が達していないためここでは森貞次郎氏分類の定形式勾玉としてあつかうこととした。”

 

下山西遺跡の勾玉は、次図のように熊本県から香川県を経由する東へのルートが考えられます。一方、北から芦屋上陸で神水遺跡までのルートも前回ブログで紹介しました。

福岡県の以来尺遺跡の勾玉も条線が刻まれていましたが2条1単位ではないです。熊本県下山西遺跡-香川県大井遺跡ルートの「2条1単位の条線」とは、同一ではないです。しかし勾玉に条線を刻むという、ある大きなグループ内の何らかの同一性があるように思えます。

現在の大動脈と言われるのは、山陽新幹線や国道2号線などです。これとは別に四国の島伝いの「ヒスイの道」が東へつながっているようです。


11. 以来尺遺跡の石器

日本の本格的な水田稲作は、福岡平野のど真ん中、板付遺跡G-7abの彩陶を伴う板付Ⅰ式土器(遠賀川式土器)の時代から始まったとされています。
朝鮮半島の北廻りに稲作は無い時代です。西または南からです。熱帯ジャポニカですから中国南部です。熱帯ジャポニカと彩陶の組合せは、次図の闽越(びんえつ)の曇石山遺跡です。日本の稲作の基本特許は福建省が持っていると言えます。子孫累々、日本の稲作は永遠です。

鉄器文化により、稲作の生産性は向上しました。以来尺遺跡は完全に鉄器文化です。しかし完全に鉄器文化の以来尺遺跡でまだ使われている石器がありました。ここで見ていく、砥石(といし)と石包丁です。

砥石
次図は砥石です。全部出土した住居跡は異なります。ほぼ各住居跡毎に、砥石が、各1個づつ出土しています。
[以来尺Ⅰ(中),pp328-341]


参考として、鉄斧以外の鉄器を次図で見てみます。
左図:[以来尺Ⅰ(中),p338]  右図:[以来尺Ⅰ(中),p339]

 

ほぼ各住居跡毎に、鉄器が、各1個づつ出土しています。各住居で鉄器を日常的に鉄器を使っていたようです。左上1列目は前述した鉄鏃です。左上2列目以下、小刀、彫刻刀、タガネ、ノミ、ヤリガンナ・・・などのようです。破片でよくわからないものもありますが、木工加工のセットのようです。
*左上の一列は鉄鏃ですが10個弱で武器は少ないです。住居毎ではないです。また鉄斧は図中に無いですが集落全体で10個程しか出土していなく住居毎ではないです。
以来尺遺跡から数km北の福岡平野の弥生後期は、やっと青銅器が盛んになり青銅器工房が多数発掘されています。鉄器は集落全体で1個か2個でした。
一方、集落全体が朝鮮半島東南部の大成洞遺跡付近からの直接移民である以来尺遺跡は、同じ弥生後期で、わずか数km北の福岡平野と異次元の違いです。以来尺遺跡は既に完全な鉄器文化です。邪馬台国系の隈・西小田地区遺跡群に対して、最前線で対峙する半島からの移民は、最新の鉄器文化を持っていました。砥石と鉄器はセットです。


石庖丁
次図は石器の石庖丁です。石庖丁は稲穂狩りに使われることが知られています。更に石庖丁は脱穀もできるようです。完全に鉄器文化となった集落でも、石庖丁が使い続けられた理由でしょう。全部出土した住居跡は異なります。各住居毎に1個持っていたようです。
[以来尺Ⅰ(中),pp325-327]

 

以来尺遺跡は、農具が全く出土していないので農業ではないです。しかし稲刈りシーズンだけ、季節労働者として、集落総出で稲刈りの出稼ぎに行っていたのかもしれません。東欧は、秋の収穫シーズンに、西欧に季節労働者として出稼ぎに行っていました。

 

また田植えも一時的な労働力を必要とします。ただ田植えは道具を使わず手作業ですから痕跡はないですが。出土遺物も無く、根拠はありません。しかし田植え歌や田楽などの文化があります。これより通常は楽器演奏や舞踊の芸人が、季節労働者として、田植えに参加していたかもしれません。ただ弥生後期に田植えをしていたかハッキリしません。まだ直播きだったかもしれません。田植えが始まったのは弥生後期か古墳時代ころと言われていますが。

 
12. 以来尺遺跡の生業
ここで出土遺物より、以来尺遺跡の生業を推察してみます。
以来尺遺跡は丘陵上にあることより水田稲作はまず無理です。山の斜面の棚田という方法もありますが、農耕具は全く出土してないので農業ではないです。

 

まず狩猟採取を考えますが、鏃が少なく狩猟ではなさそうです。ドングリ等の木の実の痕跡も見当たりません。また数百人もの大集落で狩猟採取は無理です。遊牧や豚畜産も考えられますが、牛・羊・豚の動物の骨は全く見つかっていません。

 

数百人の以来尺遺跡の生業を、次のように推察してみました。

 

① 鍛造袋状鉄斧が7個出土していることより、そのまま木こりです。基山がすぐありますので伐採して、材木と農家の米と物々交換していた。これは男性の仕事です。在地系農家の竪穴住居でも柱を2本または4本立てます。更に梁などにもしっかりとした材木は必要です。収入が見込めそうな主業として第一に挙げられます。脆くなく壊れない丈夫な鍛造袋状鉄斧は、重要な鉄器でした。

 

② 小さな鉄器が各竪穴住居毎に出土していることより、材木の製材加工の仕事です。山で鉄斧を使って切り倒した木を、丸太・柱材・板材へと製材する仕事です。小さな鉄器の中に、板材加工に使用するヤリ鉋らしきものも見られます。小さな鉄器は住居毎に発掘されていますので、集落全員で製材木工加工をやっていたかもしれません。

 

③ 各住居毎の石庖丁より、前述した稲穂狩りの季節労働者です。

以上、主に出土遺物から想定される生業を列挙してみました。他に山間の仕事として、材木を使った木炭窯が考えられますが、近くに窯が発見されていないのでわかりません。また以来尺遺跡で出土している土器も、比較的低温焼成の野焼きと考えられる土器が大部分です。大規模な高温窯・炭窯というものは以来尺遺跡には無いかもしれません。

 

敵対する邪馬台国系の隈・西小田地区遺跡群のすぐ前にありますが、以来尺遺跡は武具が少ないので100%戦闘集団ではないです。今風にいうと予備役で、他に生業を持った集団です。農業ではないですが、数百人の集落ですから何か別の生業は持っていたはずです。