suma's life -4ページ目

『片づけたい』

その方は、ある施設で転倒し、骨折してしまった。



手術をして、リハビリの病棟に来た時、僕は初めてそのクライエントに出会った。



話を聞くと、痛いところはわかっていたが、転倒や手術のエピソードは忘れていた。



ほほほ、と笑いながら別の話に切り替える。



この方が自分であるために、必要な逃避方法なんだろうと思った。



看護師からは、問題行動あり、との送りを受けた。



暴力、徘徊(車椅子で)、物とられ妄想などなど。



始めの印象からは、几帳面で、会話は穏やかで、暴力を振るう印象はなかった。



しかし、それは突然に起こった。



焦燥感にかられながら、廻りを見渡し、ここがどこか、あなたは誰だと尋ねる。



つかんだ物は決して放さず、手から放そうと思うと強く抵抗した。



目は変わっていた。



一時的なリハビリや、作業活動への参加は出来ることはあったが、根本的な問題行動は変わっていなかった。



みんな、認知症だからと、白い目で見ていた。



しかし、第一印象であった几帳面さが僕の頭の中に残った。



後日、家族と話した。



そして、やっとわかったことがあった。



彼女は認知症だから、あのような行動を起こしていたわけじゃなかった。



彼女は助産婦で、仕事を生きがいにして一生懸命働いていた。



真面目で、几帳面で、自分の物は自分で整理しないと気が済まなかった。



自分の物を整理することは、彼女にとって宝を守ることと同じだった。



思い出が詰まった物は、大切に、大切に取っておいてあった。



それは、今も一緒だった。



『片づけたい』



その一心で、自分のか分からないまでも物を見つけては、整理しようと思い、懐に入れた。



部屋の位置も分からず、部屋を探して回った。



いざ整理しようと思っても、物が多く、どこに何を入れたらいいのかわからなかった。



考えれば考えるほど、ますます頭がこんがらがった。



誰も、助けてはくれなかった。



家族との話が終わって、僕は真っ先に彼女のところへ向かった。



一度、部屋へ案内した。



少ない荷物を、一つ一つ本人に尋ね、どのように片づけたらいいか確認した。



本人は思考がまとまらず、判断に困った。



その部分は手伝うことにした。



下の棚には服を入れて、真ん中にはお風呂セットを入れた。



ティッシュは埃になるからと上の引き出しに入れた。



そこに居たのは、認知症のクライエントではなかった。



片づけたくても、頭が混乱して片づけ方が分からなくなったクライエントだった。



見方が変われば、様々なことが変わっていく。




その人が大切にしている作業。



それを目の前にすると、助けずにはいられない。



僕たちは、作業療法士なのだから。

昔取った杵柄

最近は、面接にも馴れてきました。


ただ、面接内容の分析が難しく、直感的にはできている気がしますが、改めて言葉にしようと思うと整理できていないというのが本当のところです。



さて、今回は最近取り組んでいる面接について一つ、症例を伝えたいと思います。



その方は声が出づらいために言葉数が少ないパーキンソン病のクライエントでした。


表情を見ても、無表情。


しかし目はしっかりと開いており、僕のことを見つめていました。


さて、面接。


いやいや、無理でしょ(笑)言葉を発さないんだから。













いや、しかし待て。




出ないんじゃない。出しにくいんだ。




出したい気持ちがどこかに隠れているのかもしれない。



そう思って、僕はADOCを手に取り・・・

と思ったがうちにはiPadがないので、

ホワイトボードを取り、面接を始めました。



気を付けたことは、

・なるべくyes/noレベルで質問する
・自由質問は書字を介す
・意志を汲む

の三つでした。


すると、概ね、yes/noでの質問は頷きで応えられることがわかりました。


書字は時間がかかりますが、それは本人なりに考えている時間でした。


僕は聞きました。


「好きなこと、やりたいことは何ですか?」


すると、じーっとホワイトボードを見つめ、書こうとペンを持つも躊躇する様子が繰り返されること2~3分、とうとう書き始めました。


それは、

「はりつかい」










ん?と僕は一度首をかしげました。


あ、もしかして針仕事?裁縫?


と思い直して本人に尋ねると、



頷きました。










聞けた。



コミュニケーションが大変な方でも、面接の目的は果たせた。



手段は色々あるんだと感じました。



それからと言うものの、雑巾を縫っていただいたり、クッションカバーを作っていただいたりした。



全部出来た。



そして、裁縫している時は、小声ながらも口数が増えた。



縫うものが無くなったとき、家族が来た。



家族と話した。



家族「こんなにも出来るなんて、知りませんでした。針は危ないと思ってさせてませんでしたから」



Suma「以前は服を作ってたんですよね?布はあるんでしょうか?」



家族「ええ、あると思いますよ、取っておいてましたから」



Suma 「布を家から持ってきたら、どうでしょう?服を作ってみますか?」



本人「・・・(頷く)」



Suma「よし!やりましょう(⌒⌒)布をお願い出来ますか?」



家族「分かりました、今度来るときに持ってきますね」



家族は諦めてた。



だけど本人は内心、諦めてはいなかった。



僕も始めは出来ると思ってなかった。



だけど本人が「はりつかい」と書いたとき、譲れないものを感じた。



作業に従事することがこんなにも大事なんだと、改めて感じた。



面接の重要性を、改めて認識させられた。



面接と作業をしてなかったら、家族を巻き込んでこんな話をすることも出来なかった。



昔取った杵柄。



それは今でも、現役なのです。

実習終わる

実習生シリーズ最終回です。



面接祭り、作業祭りから始まった実習は、MOHOの評価を学びながらトップダウンでの介入を進めていただきました。



この学生は、クライエントが自分らしい
生活を送れるようにと、一生懸命に奮闘してきました。



始めは「歩ければ良いから」とADLの練習や促しにも拒否的だったクライエント。



終わってみれば、買い物や調理練習にも積極的に参加してくれ、退院に必要と思われる練習には乗っかっていただけるようになりました。



あれもこれも、学生さんのお陰です。



学生さんは勉強しに来るだけが仕事ではないですから。



目の前にいるクライエントがより良い状態になるよう働きかけること。



それも学生さんの仕事です。




バイザーに頼るばかりでなく、自分の力が試されているのです。




バイザーに?

いやいや、クライエントにです。




今回の学生さんは、それに十分に応えられる働きをしていました。



それは、クライエントの言葉や表情に表れています。



しかし、最後の最後というところで、とんでもない信念対立に会ってしまいました。



THE 機能療法士(敢えてそう呼びます)



まあ、自分にも足りないところですが、機能には敢えて目を向けてません。それは僕達が作業療法士として存在するからです。



作業に焦点を当てて、作業に介入する。



その必要因子として、機能の問題が存在するのであれば、機能訓練も行います。



ただ、見方やアウトカムは機能ではない。



あくまで作業をアウトカムとします。



だがしかし、学生さんは凹んだ。



ただ救われたのは、作業療法士であることを諦めてはいませんでした。



機能療法士にはなびかなかった。



欠点は認めるけれども、作業療法士であることを諦めない。



それだけが、僕が実習を通して伝えたかったこと。



これから立ちはだかる作業療法士としての逆風に、負けずに立ち向かう力。



素敵な作業療法士になることを、僕は願っています。



(* ̄∇ ̄)ノ

自分らしい生活

その人らしさ、という言葉について言及します。


その人らしさとは、個人が有する特定の経験や思考からなる特徴です。


認知症に携わる介護領域でも、センタードパーソンドケアが海外から導入され、パーソンフッドという用語の翻訳に“その人らしさ”という用語が使用されました。


今まで、認知症の治療や問題行動に焦点が当てられていたことが少なくない中、その人らしさを尊重したケアの導入はとても効果も高く、QOLの向上に貢献されたことでしょう。









しかし、その人らしさとは、誰が決めるのか?


あなたは、

あなたらしいねと言われて、

息苦しくなったことはないですか?





そこには、役割期待の問題があります。



外的な期待と内的な期待。



期待の発信者が周囲か、自分か。




決して、誤解してはなりません。



その人らしさは、周囲の我々が見るその人の勝手なイメージであってはならないのです。



その人らしさとは、その人本人が感じなければ意味がない。



その人らしさと言うよりは、僕は自分らしさと言う方がしっくり来ます。



自分らしさ。



これは決して、皆が答えを知ってるわけではありません。



自分らしさについて悩むこと、たくさんあります。


ただ、高齢であればあるほど、様々な経験を越え、その度々に判断を繰り返してきました。


自分の考え。


いくら苦しくても、どうしても譲れないことを護ってきた。



その経験が歴史となって、自分らしさが作り上げられるのかな、と思います。



若輩者の僕としては、あまりにも推測の域を出ずに申し訳ないのですが。



その人らしさと言うよりは、


その人の自分らしさ。



それって何なのかなと、僕はいつも胸の奥で問い続けています。



ちなみに僕は、冗談を言って、笑い合える場所にいることで、自分らしく居られるなあと思うことがあります。


皆さんは、どうでしょうか?(*´∇`*)

繰り返される過ち

学生の発表を見ていると、毎回のように同じ質問をされたことに気づく。


それは、

「評価したんですか?」


評価をしていないわけではない。


ただ、多くの場合に学生然り、バイザーの双方に抜けてしまっている評価がある。


そこを指摘されているのだ。


そしてまた、学生のレジュメにおける考察は、多くの場合に希望的観測または推察に過ぎないと言われる部分が多い。



しかし、そこでも言われる。



「その考察は妥当ですか?」



考察の妥当性は、評価から得られるものである。


要するに、これも評価が不十分であることの指摘と捉えられる。



では、どんな評価が足りないのか?



一人の事例を紹介する。


その方は身長160後半、体重は40kgを切る痩せ型である。

介入時はVI 3点と意欲低下が著明。

サークル歩行車で連続30m可能。

筋力は上下肢ともMMT3-4レベル。


1ヶ月経った今、下腿周径、大腿周径は変化ないのにも関わらず、独歩が見守りで出来るようになった。


この症例から得られることは、筋力や周径が歩行能力に相関があるという一般的な見解から外れる事例がいるということ。


筋力やROMなど基礎的な評価データをいくら集めても、妥当性は十分に得られないのではないかと思う。
(1に近づきますが、決して1になることはないという意味です)


その点を踏まえると、足りない評価は検査・測定ではない。



足りない評価とは、考察にある希望的観測、推察から挙げられる、今後必要な動作。



それを、



とことん実動作で評価すること!Σ(゜Д゜)



「家帰ったら出来るのかな?」

「難しいけどやってほしいな」



そんなん、チャキチャキ評価しよっ!!( ・∇・)



出来るか、出来ないか!?



筋力やらROMから想像するよりも、



よっぽど妥当性が高い評価ですから!!
(環境が揃えば1になる)



出来そうか?(機能的に)



どうやったら出来るようになるか??(代償的、環境的に)



出来ないとすれば、どうしたらいいか?(本人の自己選択、価値観の転換)



それが学生に共通して、足りない評価と思われます。


それは往々にして、バイザーの指導不足でありますが。



実動作。



やりましょう。