センテンスサワー -45ページ目

センテンスサワー

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卒業式に出席するか否か、迷ったあげく出席することに決めた。

この決断に至るまで、いくつもの葛藤があり、妥協に妥協を重ねて、ひねり出した結果だった。

ひとまず大学生活を振り返ってみたのだ。

するとすぐに入学式の記憶を想起した。

つまり、思い入れもない大学で謳歌することもなく、ただ暇を持て余していた結果一つも思い出が無かったのだ。

それでも、たくさんの人にお世話になり、感謝の気持ちは伝えなければならないことも事実。

これっきり会わなくなる友人もちらほらいるし、せめて挨拶だけでもしたい。

という経緯があり、出席しない理由もないし、出ることにしたのだ。



あっという間に卒業式は終わった。

それにしても祝辞と式辞の長いこと長いこと。

加えてキリスト教の大学であるため、二度も賛美歌を歌うはめになった。

とまあ、期待通り感動があり、想像通り涙がある卒業式だった。



卒業式に涙はつきものだが、よく言い訳に使われるのが花粉症。

明らかに泣いているくせに、花粉症のせいにしてそれを認めないのだ。

だが、花粉症のおかげで涙している人が増えていることは事実だし、そのぶん卒業式が感動的なものになっているのではないか。

卒業式と花粉症の時期がたまたま重なっているため、このような現象が起こっているにちがいないが、そもそもこれは偶然なのか必然なのか、はたまた神の誤算なのか。

別にどうだっていいことだけど、ひとまず神様からの贈り物ということにしておこう。

ただ言えることは、僕は卒業式で泣いてないし、花粉症でもないということ。

以上。
先日、中国広東省の烏坎(うかん)村という小さな村で、選挙が行われた。

この村で選挙が行われるのは初めてであり、既得権益と独裁政権との戦いの末、ようやく勝ち取った結果だった。

地元共産党書記の腐敗や汚職、そして陰謀に立ち向かったのである。



今回の結果に至るまで、様々な苦難と犠牲があった。

注目を集めたのは、ある小学校教師の死。

村民の代表として交渉中に、警察当局に拘束されてしまい、不運にも拘置所で命を落とした。警察当局は男の死因を「心臓病」と発表した。だが、遺体には拷問の痕があり、家族は真相究明と謝罪を求めている。

この事件を発端に抗議活動は加速する。浮かび上がってくる土地開発問題や土地売却問題など。村民たちは抗議デモにとどまらず、ネットによる情報発信を行った。

その結果、世界中のメディアに注目されはじめる。そしてようやくその成果が実り、民主選挙へと繋がったのである。


昨年、ジャスミン革命が起こり、世界中で暴動デモが起きている。今回の烏坎村での抗議活動も根底にある問題は同じだ。既得権益と独裁政権である。それに対して村民が一致団結し、一丸となって立ち向かっていく。

このようなことが世界中で起こっている中、日本はまだ足踏みをしている状態だ。解決しなければならない問題はやまほどあるが、誰もが傍観者となり、当事者意識が欠けているように思う。そもそも一致団結することができない理由が他にあるのではないか。

その一つに多様なコミュニティが存在することがあげられる。
以前は、烏坎村のように地域に根差したコミュニティに重きを置かれていたが、現在では多様な社会になり、人それぞれ重きを置くものがかわってきている。そのため、表面的な付き合いになり、しがらみのない関係になってしまう。

また、格差も一括りにできなくなり、立ち向かう相手も異なってくる。そうなると、数が集まらず、変革が起きにくくなるだろう。

一億総中流と呼ばれているように、日本に危機感を持っている人はそう多くない。社会に不満を持っているは少なからずいると思うが、抗議デモを実行するほどではないだろう。抗議デモをすることによってリターンが返ってくるのであれば行動を起こす人もいると思うが、その期待値があまりにも乏しいのだ。

そして金も時間もない人々が、わざわざ集まって抗議デモをするほど暇じゃない。その日暮らしで自転車操業的な生活をしている人々にとって、一分一秒は貴重中の貴重なのである。




ツイッターやフェイスブックのような新たなコミュニティの形も誕生し、情報共有や情報交換が日々行われている。

震災後、それらのツールが、復興のために国民が一致団結したことも事実だ。

だが今後、学生運動のように大規模なデモは起こりうるのだろうか。

たぶん、起きないのでは。

なぜなら、フラストレーションを爆発させることで被害を被ることを知っているからだ。

願わくば現在のデモのスタイルにかわる新たな抗議のスタイルが生まれたらいい。

情報革命が起こり、集団で叫ぶようなデモではなく、個人個人でつぶやくようなそんなデモが望ましい。



現在、日本の人口は一億数千万にほどいる。数世紀前と比較すると、とてつもない数である。明治時代と比較すると4倍ほどになり、江戸時代と比較すると10倍にもなる。驚くべきスピードで発展してきたことがわかる。


それではなぜこれほどまでに人口は増加することができたのだろうか。それは様々な技術の習得により、生存することが可能となってきたからだ。食料的な問題、住居の安全性の向上、医療問題など。科学技術の発展が深く関係しているだろう。

それがいいのか悪いのか定かではないが、不便な生活を改善し、あらゆることを合理化してきた結果だと思う。

今の生活スタイルをすべて止めて、数世紀前の環境で生活することになったなら日本の人工はどのように変動するだろう。
仮に人工60万人ほどの弥生時代の生活水準に合わせるとなると、以下の通りの環境に合わせなければならない。

テレビもねえ、ラジオもねえ、そもそも車も走ってねえ。ツイッターもねえ、フェイスブックもねえ、そもそもパソコンすらねえ。医療もねえ、建築技術もねえ、インフラも整備されてねえ、。援助もねえ、文化もねえ、そもそも多様な社会じゃねえ。

とりあえず言えることは、数年で人工は大幅に減少するということ。それも簡単なことで減少していくと思う。風邪とか食糧危機とか。もしかすると弥生時代の人工まで減少していく可能性すらある。

ゆとり教育世代の僕が言うことでも無いと思うけど、まず間違いなくゆとりが無くなり、必死で生きなければならなくなるということ。また命の大切さを知り、生きることに希少価値が生まれるのではないか。自殺率は減少する可能性もある。もしかすると現代人が失っている大切なものを取り戻すことができるかもしれない。


現在日本の人工は減少傾向になる。百年後には五千万人を割ると予測されている。つまり、百年前の人工に戻りつつあるということだ。ただ、百年前の人工と明らかに異なるのは人工の構成比率。当時若者が大半を占めていたのと比較して、近い未来は高齢者の数が大半を占めることになるのだ。

考えるとゾッとする。夢を見ることのない世代が大半を占めるのは希望も将来もない。そんな窮屈な一般意志など想像もできない。現役二人で一人の老人を支えていかなければいけないとか言われているけど、勘弁して欲しい。イナバ物置のCMをみるたびにゾッとするね。「100人のっても大丈夫」ってのが風刺のように感じるよ。

てかやっぱり、若い人が将来に向かってチャレンジしていくような、躍動感のある国が理想だ。だから今のうちに子供たくさん産まなければならない。若者が気軽にファストフード感覚で、子供を産めるような環境も整えていくことが重要だと思う。



で、ここまでの話は日本に限ってのもの。ほいでここからは世界規模での話で。

日本の人工は減少しているが、世界の人工は爆発的に増加している。今世紀中には100億人を超えてしまう。まさに飽和状態である。

今後、食糧危機にはじまり、天然ガスや石油などの資源も枯渇していくだろう。そうすると代換エネルギーはどうなるのか。様々は問題が懸念されてくる。

世界的な流れではすべてを合理化することで解決してきた。自国の利益を考え、利己的に行動する国も現れるだろう。資源をめぐって第三次世界大戦も起こりかねない。

今回のテーマは「殺人よりも人を生むことが罪な社会」というすごくセンセーショナルなものだが、真剣に考えなければならない課題だと思う。

中国の一人っ子政策は高齢化社会などの歪みを生じさせてしまっているが、もしかすると世界規模でそうならざるおえない可能性すらある。

子供一人生むたびに罰金徴収することになったり、子供を産まない夫婦には免税したりと。

だが、歯止めが効かなくなれば話は別だ。

強制的に子供を生むことに制限をかけてくるだろう。

そうなると罰金ではすまない。

そして性に対する教育も本格的にはじまる可能性すらある。

それも歪んだ、性行為は悪である、子供を生むことは悪であるというような。

そうなってくるとアナルセックスが正常位なんてことになるかもよ。

ゆくゆくは全ての男性は生まれてすぐに去勢させられて、人工的な出産が主流になるかもしれない。

そして人工を政府の手によって調整してゆく。

そうなってくると、SFですがね。



とまあ、時代によって正義が異なるように、本意でない正義を掲げて生きなけれならない時代がくるかもしれないのである。

考えるとゾッとするね。

以上。