センテンスサワー -44ページ目

センテンスサワー

気の向くままに書き綴るのでよろしくお願いします。
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今さらだけど、現在ある制度や体制を見なおさなければならないと思っている。既得権益者は古臭い制度や体制を盾として好き放題していることは言うまでもない事実。

例をあげるときりがないので控えることにするが、とりあえずいっぱいあるのだ。



今回のテーマである「脱三権分立」。

言葉通り三権分立を見直したいと思っているが、反面、三権分立ほど完璧なものはないとも思っている。そこで少しだけ時代に適した味付けをすればもっとよくなると考えている。

ちなみに三権分立とは、国会・内閣・裁判所の三権が互いに抑制しあい、均衡を保つことで権力の行き過ぎを防ぐしくみである。

で、今回の問題点を手短に説明すると、この完璧であるはずのシステムが日本でもうまく機能するのかということだ。そして世論の意志がどれだけ反映され、関わることができているのだろうか。

率直にいうと、まず時代に合っていない。三権ともどんどん力が弱まっているのは事実だし、それだけ国民が力を付けているように思う。

国会はさておき、たびたびかわる内閣に、裁判員制度導入など。

権威付けが全然できていないとも思う。

原発問題でそれは顕在化したことも事実。

三権分立の前提に権威付けは必須中の必須。


そこで僕が提案するのが、四権分立というもの。

四権とは、つまり、既存の三権と国民のことである。


監視社会という言葉があるが、国が国民を監視するのではなくて、国民が国を監視するという体制をつくるのである。

もしくは双方が監視しあう、ダブル監視社会でもいい。

三権で監視しあうとか、野暮なことは言わずに、国民にも参加させろと。


で、本題はそうすることでどう変わるのかということだ。

まず国会に対して言うと、選挙を通じてしか物申せないことに問題がある。

極論をいうと小さな政府でいいんじゃないのってこと。

3・11の震災のように迅速な対応を迫られている場合、現在のシステムでは遅すぎるのだ。

で、内閣に対しては世論を通じてしか反映されないこと。

だめだこりゃww

てか、世論っていう言葉に惑わされている気もするしww

簡潔に言うと、現在の世論とは多数決の勝ち組ってことだろww

負け組のぼくらとしてはやりきれませんww

で、最後に司法については、言いたいことすらありません。

ただファイトとだけ言っときます。

てか、司法の管轄範囲が狭すぎる気がする。

警察は司法で、刑務官は法務省所属って、どうしてだろう??

どう違うのか??

先日も死刑者の死刑執行が行われたが、法務大臣にその権利があるということが腑に落ちない。

理由が知りたい次第です。



とまあ、だらだらと書きましたが、とりあえず言いたいことは、三権分立は日本で機能していないということと、国民に委ねろということ。

以上。



昨日、近くの本屋に行った。

そこで、ちょっと笑っちゃいました。


そこの本屋にはいろいろなコーナーがあり、隅の方に経済・社会のコーナーがある。

とりあえず僕はそこに行く。

本屋のセンスがいいのか、今回も興味深い本がたくさんあった。

物色していると、あるところで立ち止まり、一瞬目を疑った。







なんとトミカの子供向けの本が置かれていたのだ!!

とりあえず、なぜこの本がこの場所にあるのか考えてみる。

イタズラか??

いや、イタズラならこのように丁寧に置くわけない。

ならば、返却するのが面倒くさくなり、この場所に置いたのか?

いやいや、それもナンセンスな発想だ。

なぜなら、経済・社会コーナーのすぐ目の前に子供のコーナーがあるからだ。

まさしくこれは意図的に置かれた悪意の塊だといえる。


とりあえず、トミカの本をのけてみると・・・






こっ、これは??

なっ、なんと??







わしズムではありませんか!!!

まさか、まさかのわしズムであります!!1

想像というか勝手に作ったストーリーですが、とりあえず聞いてほしい。

つまり、犯人はわしズムを隠すためにトミカの本を持ってきたのである。

だが、なぜそのようなことをしたのか?

考えられるのは、アンチ小林よしのりの人が販売数を妨げるために、また彼の思想の同士を増やさないために、思わずやってしまったのだろう。


一言だけいわせてもらうと、暇ですねえ~、ってこと。

思想なんて人それぞれ違うんだから、テコ入れしようとしてもどうにもならないよね。

他人の思想を寛容的に受け止めるということが、今の世の中には合っていると思うけどなあ。


とまあ、やいやい言うてますが、一つだけ気がかりなことがある。

それは、なぜトミカの本を持ってきたのか??

そこだけが気になってしょうがない。

もちろん意味など無いに決まっている。

たぶん本のサイズ的に調度良かったのだろう。

これ以上考えても仕方が無いので、もうこの辺にしておこう。

ただ共通点をあげるなら、トミカの模様の色とわしズムの表紙の色が、赤と白の逆にデザインされていること。

まあ、そんな感じです。

以上。




今回のブログは、メモのように記録し、簡単に思ったことを書きたいと思う。

で、今回のテーマは「猫ひろし」について。

先日、ロンドン五輪の男子マラソンにカンボジア代表として出場することが決まった。

オリンピックに出場するためにカンボジアの国籍を取得したのである。

どうやら賛否両論あるようだが、僕的には構わないと思っている。

理由は、国籍にはそれほどの価値しかないからである。

つまり、条件さえ揃えば、誰でも短期間で国籍を変更できるのだ。

ただ、僕は日本人のことを日本国籍人だと考えている。

カンボジア人でいうと、カンボジア国籍人である。

どういう意味かというと、日本人の定義付けがすごく曖昧でわかりにくいのである。

例えば、猫ひろしのようにオリンピックに出場するために国籍を取得したが、カンボジア人としての愛国心が無い人もいる。

そもそも日本人とはどういう人のことを指すのか。

日本で生まれた人、日本に住んでいる人、税金を収めている人、国旗を持っている人、土地を持っている人、教育を受けた人、日本人の遺伝子を受け継いだ人、日本が好きな人、など。

さて、日本人でもすべて当てはまる人もいれば、当てはまらない人もいる。

つまり、定義がすごく曖昧なのである。

そして、何を基準として日本人とするのかもむずかしい。

愛国心があれば日本人かというとそれも違うし、それなら宇宙人が日本に対して愛国心があれば日本人になれるかというとそうでもないし(笑)

考えれば考えるほど難しい。

そうすると、いつから日本人であるのかということも気になってくる。

起源や先祖を辿るとまた新たな問題が出てくると思うし、日本文化が形成された時代も関係してくるだろう。

諸説混沌として答えはでない。


だから、日本人というのは無理があるので、日本国籍人という言い方を僕は再度提案するのである。

またそうすることで、多様な社会に対応できるのではないかと思う。

時代によってそういった価値観も異なるし、社会自体が変化していることも事実だし。

つまり、共同体の形も変化しているということだ。

それがいいのか悪いのか定かでないが、僕はそれはそれでいいと思うのである。


まとめると、現時点において、日本人とはっきり定義できるのは国籍だけである。

しかし、その拠り所としている国籍すらも、猫ひろしのようにオリンピックに出たいからという理由だけで変更可能なのである。

と、思うのである。


ちなみに、皇族の方々にも国籍はあるようです。

言い換えると、皇族の方々も国籍を変更できるのである。

つまり、猫ひろしのようにオリンピック出たいと彼らが思ったら、国籍をカンボジア人として変更できるのである。

そうなったら国旗もって応援いくかも(笑)

もちろんカンボジアの国旗を持って!!

以上。