センテンスサワー -43ページ目

センテンスサワー

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京都府亀岡市の府道で集団登校中だった児童らの列に軽乗用車が突っ込んだ。

京都府警に現行犯逮捕された少年は十八歳で、なおかつ無免許運転だった。

「居眠り運転でした」と加害者の少年は話しているそうだ。

無論、その一言で片付くなら警察はいらない。

加害者の少年の父親はインタビューで「一生をかけて償う」と話していた。

事故を起こした張本人の加害者もそう思っているにちがいない。

どうやって償えばいいのか?

なにをすれば償うことになるのか?

誰に償えばいいのか?

被害者だけでなく、その被害者にも償わなければならないことは言うまでもない。

償う形は様々だ。

金銭的な償いもあれば、謝罪をすることも償いである。

加害者の少年が更生することも償いなのかもしれない。

被害者や被害者の家族が期待する償いの受け取り方もそれぞれ異なってくることも事実である。

金さえ払えば許してもらえるものでもない。

謝罪すれば許してもらえるわけでもない。

加害者の少年が更生することで、許してもらえるどころか、逆に反感をかってしまうことすらある。

上記に書いたのはあくまでも様々な償いの形であって、現実は、加害者の死刑を求めている被害者の家族が多いだろう。

だって、同じ空間(この世)に大好きな人がいなくて、同じ空間(この世)に大好きな人を殺した人がいるって、とても苦しいことだと思う。

亡くなった被害者からすれば、自分を殺した奴が同じ空間(あの世)にやってくることも、それはそれで嫌だろうけど。



と、ここまで書いてきたけど、償うことなど不可能だ。

被害者にしても、被害者の家族にしても、加害者にしても、加害者の家族にしても、それは各々の自己満足でしかない。

命を捨てることで償うのか、命をかけることで償うのか、命を捧げることで償うのか、答えのないものを探していかなければならない。


これから死ぬまで。



で、元も子もないことを書くけれども、無免許運転も、居眠り運転も、誰だってする。

ただ、加害者は運が悪かったのだ。

いや、免れている他の人たちがとても運が良かったのかもしれない。

彼だけじゃない、誰だって彼のような事故を起こしていたかもしれないのだ。

少しの不注意が、人生を棒に振る。

ただそれだけ。









新入社員として勤め始め、はやいもので二週間が過ぎた。

起きて、仕事、そして寝るの繰り返しで、自分の時間なんてものは微塵もない。

家に帰ってもやることの多いこと多いこと。

眠たいけれど不安で寝れず、そのまま夜が明けることもしばしば。

社会人の責任感とプレッシャーに慣れるだけで、というか耐えるだけで必死なのだ。


仕事をしていく上で感じているのは、会社に染まらなければならないということ。

会社中心の生活と言いかえてもいいかもしれない。

いちいち業務に疑問を感じていると、おちおち仕事などできない。

会社理念に従い、上司に従い、会社の空気を読んで過ごすのだ。

そもそも仕事ができないうちは反発すらできない。

なんの疑いも持たずに、会社の教えをまっとうしていくのみ。

つまり、その会社が常軌を逸していたとしても、正常な判断ができず、洗脳されてしまう可能性があるのでは、ということだ。

学生時代なら、分別する時間が少なからずある。

だけど、分別する時間すらなく、ただ責務を負うだけなのだ。


学校は学生を洗脳する場所って聞いたことがある。

どこからどこまでが洗脳かわからないけど、そのニュアンスが分からないわけでもない。

そしてその洗脳が善であるか悪であるか、それは人それぞれ本人次第だろう。

これからぼくがどんな人間になっていくのか、ある意味会社次第といってもいい。

能力のない人間はただ服従していくしか道はないのである。


ゆとりのないゆとり世代の僕としては、年齢的にも残された道はないし、選択肢は一つで仕事を継続していくのみ。

人を殺せと言われれば殺してしまうかもしれない、というと言い過ぎだけど、もしかするとやりかねない。

「笑顔を忘れるなよ」と言われれば、その通り笑顔で人殺しをしてしまうかも(笑)

つまり、洗脳とまではいかないけど、そこまで追い込まれた状況にあるということなのだ。


といいつつ、一応優良企業で、土日祝ちゃんと休みがある会社なので、ご安心を。

以上。



公という言葉の語源は「大宅」と書き、天皇家のことである。当時、それ以外は「私」であったようだ。

第二次世界大戦までの日本では、「私」の単位は家にあった。それが戦後に法律が変わり、「私」の最小単位が個人に変わったのである。

すなわちそれが日本においてのプライベートのはじまりとも言える。

で、ついでに言うと、個人のコミュニティーの形も変わりつつある。

一昔前までは、村・町からはじまり、郡・市に広がっていく過程があった。だが、現在ではそれは成り立たなくなっている。

その理由の一つに、行動範囲が広がったことと、コミュニティーを置ける場が広がったことである。

簡単に言うと、グローバル化に伴い海外への敷居の高さが下がったことと、ソーシャルネットワークの拡大である。

つまり、個人の社会との関わり方が怒涛の勢いで変化しているということだ。



で、今回のテーマに入る前に、プライベートの定義を確認しておきたい。

簡単に言うと「私事・私生活」である。

これじゃあ定義というか直訳かなww

まあ、いいや。

で、続いてプライバシーとは、私生活上の事柄をみだりに公開されない権利である。

プライバシーの権利という法律が生まれたように、個人の尊厳は強化されつつあるのである。

それはとてもいいことだし、これからもどんどん改善して欲しいと思う。



で、ここからが本旨だけど、個人個人のプライベートの定義・価値観は逆の方向に進化していると思う。

例えばフェイスブックなどがその要因といえる。

個人情報をある程度公開した上でプライベートを公に公開することはとてもいいことだと思う。

だけど、その個人情報を公開する範囲は人それぞれによって異なる。

つまり、何をもってNGとするのかということである。

顔・恋愛・仕事・思想・宗教・交友関係・住所・個人名など。

で、これらが複雑に絡まって、NGが生まれる。

例えば、個人名は公開してもいいけど思想・宗教はNGとか、思想・宗教は公開してもいいけど個人名はNGとか。

個人を特定されるかされないかで違ってくるし、それを公開する範囲によっても違ってくる。

まあ、ややこしいことには違いないけど、「私」「プライベート」に対する考え方が寛容になりつつあるというこだ。

というか、「私」すら「公」に近づいているのかもしれない。

つまり、芸能人のようにプライベートを売れる時代でもあるのだ。



今回のテーマである「おおやけこやけの赤とんぼ」。

ここで言う、おおやけとは「公」であり、こやけとは新たな「私」のことである。

ようするに、そのうち「私」すら無くなるのではということだ。

「公」は「大宅」とも書くけど、それにならって「小宅」でこやけ。

もちろん遠い遠い未来になると思うけどねww

ということで、以上。