京都府亀岡市の府道で集団登校中だった児童らの列に軽乗用車が突っ込んだ。
京都府警に現行犯逮捕された少年は十八歳で、なおかつ無免許運転だった。
「居眠り運転でした」と加害者の少年は話しているそうだ。
無論、その一言で片付くなら警察はいらない。
加害者の少年の父親はインタビューで「一生をかけて償う」と話していた。
事故を起こした張本人の加害者もそう思っているにちがいない。
どうやって償えばいいのか?
なにをすれば償うことになるのか?
誰に償えばいいのか?
被害者だけでなく、その被害者にも償わなければならないことは言うまでもない。
償う形は様々だ。
金銭的な償いもあれば、謝罪をすることも償いである。
加害者の少年が更生することも償いなのかもしれない。
被害者や被害者の家族が期待する償いの受け取り方もそれぞれ異なってくることも事実である。
金さえ払えば許してもらえるものでもない。
謝罪すれば許してもらえるわけでもない。
加害者の少年が更生することで、許してもらえるどころか、逆に反感をかってしまうことすらある。
上記に書いたのはあくまでも様々な償いの形であって、現実は、加害者の死刑を求めている被害者の家族が多いだろう。
だって、同じ空間(この世)に大好きな人がいなくて、同じ空間(この世)に大好きな人を殺した人がいるって、とても苦しいことだと思う。
亡くなった被害者からすれば、自分を殺した奴が同じ空間(あの世)にやってくることも、それはそれで嫌だろうけど。
と、ここまで書いてきたけど、償うことなど不可能だ。
被害者にしても、被害者の家族にしても、加害者にしても、加害者の家族にしても、それは各々の自己満足でしかない。
命を捨てることで償うのか、命をかけることで償うのか、命を捧げることで償うのか、答えのないものを探していかなければならない。
これから死ぬまで。
で、元も子もないことを書くけれども、無免許運転も、居眠り運転も、誰だってする。
ただ、加害者は運が悪かったのだ。
いや、免れている他の人たちがとても運が良かったのかもしれない。
彼だけじゃない、誰だって彼のような事故を起こしていたかもしれないのだ。
少しの不注意が、人生を棒に振る。
ただそれだけ。