センテンスサワー -32ページ目

センテンスサワー

気の向くままに書き綴るのでよろしくお願いします。
感想もお待ちしております!!

ここ数年ドラマをみる習慣がなくなった。

最後にみたドラマは「薔薇のない花屋」だと思う。

それを機にドラマをみるのが面倒くさいと感じるようになった。


そんな感じで、ドラマとは距離を置いていたんだけど、ひょんなことから「あまちゃん」をみることになった。

舞台は岩手県北三陸市のとある架空の町。

主人公は都会に住む女子高生で、夏休みに母の故郷である北三陸に行き、祖母の影響を受けて海人をすることになる。

詳細はここをクリック。


てことで、ドハマりしているんですけど、面白すぎるんですよ。

舞台設定もいいし、物語の設定もいい。ここは宮藤官九郎のセンスが光ってますね。

オープニングテーマも素朴な感じで、ふいに口ずさんでしまう。

主演の能面れいなもピカピカに輝いてるし、お母さん役の小泉今日子も適役。その祖母もまた良い味だしてるんですよ。

脇を固める配役もいい。やじゃないんですよこれが。


舞台である北三陸とその伝統である海人に見事にスポットライトをあてて、注目を集めていると思うし、少なからずぼくは惹かれている。

たぶんこんな機会が無ければ、あまり関心を抱かなかったと思う。

AKBのような新しい文化も大切だと思うけど、日本を支えてきた伝統ある文化もこのような形で作品となることは最高の姿だろう。


ただ日本中で脚光を浴びないまま廃れてしまう伝統もこの先たくさんあることも事実。

廃れていく伝統や文化はそれはそれで仕方ないし、無理して守る必要もない。

だけど今回のように携わった人のセンスとタイミング次第でどうにでもなるということなんです。

そういった作品をぼくは注目していくことに決めました。



舞台は2008年、夏の北三陸。

どうやら終盤あたりで東日本大震災の発生の場面も盛り込むようだ。

不謹慎かもしれないがすごく関心がある。

どのような話になり、どのような結末になるのか。

またぼくは震災後のことしか知らないし、震災後の人々しかしらない。

震災前にどのような歴史があり、どのような生活をしていたのか、考えたこともなかった。

一般的なことしか知らないし、当事者として生活していたわけではないから、知る由もない。

だけどあまちゃんを通してこれから勉強したいと思う。


てことで、じぇじぇじぇ

愛ほど理解し難いものはない。

それにもかかわらず、無理に抽象化して、誰でも共感できるように細工している。

愛は誰でも語れるし、歌にすることだってできる。

人それぞれ、愛の体験や経験があるだろうし、漠然と愛を認識している。

これらを踏まえた上で、愛ほど理解し難いものはないと思うのである。


それは愛という感情の中にはあらゆるモノが包摂されていて、実態を把握できないからだ。

それに言語化すると味気ないものになってしまい、理屈だけが取り残されてしまう。

それほど愛は「混ぜると安全」なモノであり、「分解すると危険」なモノなのである。



それでは愛の本質について語ろうと思う。

愛しあうというのは、男女同士に限ったものではない。

家族同士、友達同士、親友同士、性別に関係なく、存在する。

しかし、それぞれの愛のカタチは違ったもので、同一ではない。

それは愛というものには様々な要素が含まれているからである。

だが、その要素をすべて取り払ってしまえば、愛の本質が見えてくるだろう。そしてその根本にあるのは、全く同じものなのである。

つまり、その根本にあるモノに個々の要素が組み込まれていくことで、家族同士の愛に変幻したり、親友同士の愛に変幻したり、恋愛という形になったりするのである。

愛というのは変幻自在な器用貧乏なモノなのである。


例えると、根本にあるモノに性欲が加わると恋愛感情になり、絆や趣味が加わると親友としての愛になり、血縁が加わると家族としての愛になるのである。

実際はもっともっと複雑であり、いくつもの要素が組み込まれていると思う。

恋愛には少なからず性の対象であることが必要である。つまり、根本にあるモノと性の対象が組み合わせることで、恋愛に発展しやすいのである。

例えば、ぼくはコーヒーが好きである。だが、恋愛には発展しない。それは根本にあるモノは同じだが性の対象ではないからである。コーヒには、オッパイもないし、スリーサイズもない。仮にあったとしても興奮しないだろう。それは説明するまでもない。

一時期、ラブプラスというゲームが流行した。三次元よりも二次元に思いを馳せる若者が増えたのである。人間ではない、データを愛することは可能なのか。ラブプラスの二次元のキャラを愛することは可能なのか。

これも上記に記したことで説明できる。

根本にあるモノに何が包摂されているのかを探っていけばいいだけの話である。

ゲーム、流行、インタラクティブ、ストーリーがある、主人公になれる、思い通りになる、気を使わなくていい、理想を反映されやすい、手軽、リセットできるなど。逆説的に、三次元ではないというのもありである。

つまり、人間という要素を取り除いた上で、どれだけ擬似恋愛を堪能できるかというものなのである。

それが本物の愛かどうかは定かではないが、根本にあるモノは同じだと思う。


近い将来、ほぼ人間のようなロボットが登場するだろう。見た目に違和感がなく、人間と同じようにコミュニケーションをとることができ、性的嗜好の対象でもあり、行為もできる。

人間との違いは、人間ではないという概念だけ。

そうなってくると愛が芽生える可能性があると確信している。



ただ、人間に対する愛というものには、道徳的な同調圧力がとてつもなくかかっている。

ぼくらは人間は愛さなければならないという前提の中で生きている。

愛は普遍的な善であるとされている。

善悪の区別は難しく、捉え方や立場によって善にもなるし悪にもなる。時代によっては、オセロのように白になったり黒になったりする。

愛は善であるのかもしれないが、根本にあるモノに色を付けて善にしているだけなのである。

それが良いのか悪いのか、ぼくにはさっぱりわからないけど、もう少しだけ考えてみたいと思う。



とりあえずの結論は、愛というのは根本にあるモノに味付けをすることで、変幻自在に形を変える器用貧乏なモノなのである。

以上。

自民党は憲法改正手続きに必要な国民投票を改正し、投票年齢を18歳以上で確定させる方向で調整に入った。選挙年齢と成人年齢の18歳以上への引き下げは先送りする方針を固めているようです。

ちなみに、選挙は人を選ぶもので、国民投票は事柄を決定するために行います。案外知らない人も多いのでは。

今回の憲法法改正に焦点を合わせて改正を狙っているのです。

これは若者にとってすごくいいことだと思いますが、ある意味都合よく利用されているとも捉えられます。できるならば選挙年齢を18歳以上へと引き下げてほしい。

ちなみに、先進国のスタンダードでは、選挙年齢・成人年齢ともに18歳以上です。ちゃんと18歳以上を自立した個人と認めているのです。

これは本当に素晴らしいことだと思います。少なからず若者の民意が反映されるでしょう。

それと比べて日本の民主主義は崩壊しているとしか言いようが無いです。

成熟した社会にとって、民意を反映されるのはとてもむずかしいことだと思います。国が成熟することで、高齢化は避けられず、階層化していかざるおえません。世代間の格差も否めません。現在の日本では、高齢者が大半を占めています。投票者の平均年齢は53歳であり、とても偏っています。

やはり、世代によって、政治に期待する内容は異なり、世代の人口が多いほうが優位に決まっています。つまり、多数決では解決できず、最大多数の最大幸福ほど不公平なものは無いでしょう。


それではどうすれば民主主義の崩壊を防ぐことができるのか。それは民度を高める以外に方法は無いでしょう。個人主義に走るのではなく、長期的に国が改善する方向へと導いていくしかありません。投機ではなく、投資という観点がとても重要です。

だが、世代間の格差だけでなく、世代内の格差も広がっています。そして、一億総中流と呼ばれていた国も崩壊しはじめています。そうなると、貧困層が増えてしまい、民度は下がらざるおえません。ネット右翼のようなナショナリストっぽい人が増えたり、在特会のような組織に賛同する人も増えるでしょう。自分の不幸を他人のせいにするしかないのです。

生活保護問題もそうでしょう。上流階級の人にとって些細な問題でも、貧困層にとっては大変な問題です。不公平なものに執着し、こだわってしまう。金の切れ目が縁の切れ目という言葉がありますが、正にその通りです。社会生活を営む中で、選択肢の豊富さがとても重要ですが、その選択肢すらも限定されてしまうのです。生きるための選択肢が限られた中で、民度を高めるのは不可能なのかもしれません。


で、話は変わるけど、最近、成年後見の知的障害者らに選挙権を付与するという方針を固めたようです。つまり、彼ら彼女らの意思も反映されるということ。これはとてもいい事だと思います。

悪用されることは仕方ないですが、それでも素晴らしいことだと思います。

だが、現時点で、選挙権が20歳以上なのは、自立していないというのが一番の理由であります。しかし、何をもって自立と定義するのでしょうか。その定義が曖昧なために、年齢的な基準でしか判断できないのです。十五歳で考えがしっかりした人も入れば、五十歳でも幼い人がいます。経済的に自立しているか、自身の考えや思想、アイデンティティを確立しているかどうか、それを審査するテストも無ければ、基準もない。どうしようもないですよね。

選挙権というのは、矛盾をはらんだ制度としか言いようがなく、戦後につくられた古いものであります。今の時代に合っていないのは自明の理。

極論を言ってしまえば、選挙年齢は廃止すべきだと思うんです。十五歳であろうが、七歳であろうが、二ヶ月であろうが、選挙したい人に選挙権をあげちゃえよと。問題はたくさんあると思うけれど、そうせざるおえない段階に差し掛かっています。

そして、選挙や投票っていうのは、将来のためにするものであって、まだ生まれていない人に選挙権がないことも指摘したいです。


そもそも若者の一票なんて意味ないのだから、国が買い取って欲しいよね。

で、上流階級の人たちで、勝手にしやがれバカヤロー。

もしくは、高齢者には一票ではなく、一俵をあげたらいいのでは。

これはベストアンサーではないでしょうか。

てことで、ご清聴ありがとうございました。