愛ほど理解し難いものはない。
それにもかかわらず、無理に抽象化して、誰でも共感できるように細工している。
愛は誰でも語れるし、歌にすることだってできる。
人それぞれ、愛の体験や経験があるだろうし、漠然と愛を認識している。
これらを踏まえた上で、愛ほど理解し難いものはないと思うのである。
それは愛という感情の中にはあらゆるモノが包摂されていて、実態を把握できないからだ。
それに言語化すると味気ないものになってしまい、理屈だけが取り残されてしまう。
それほど愛は「混ぜると安全」なモノであり、「分解すると危険」なモノなのである。
それでは愛の本質について語ろうと思う。
愛しあうというのは、男女同士に限ったものではない。
家族同士、友達同士、親友同士、性別に関係なく、存在する。
しかし、それぞれの愛のカタチは違ったもので、同一ではない。
それは愛というものには様々な要素が含まれているからである。
だが、その要素をすべて取り払ってしまえば、愛の本質が見えてくるだろう。そしてその根本にあるのは、全く同じものなのである。
つまり、その根本にあるモノに個々の要素が組み込まれていくことで、家族同士の愛に変幻したり、親友同士の愛に変幻したり、恋愛という形になったりするのである。
愛というのは変幻自在な器用貧乏なモノなのである。
例えると、根本にあるモノに性欲が加わると恋愛感情になり、絆や趣味が加わると親友としての愛になり、血縁が加わると家族としての愛になるのである。
実際はもっともっと複雑であり、いくつもの要素が組み込まれていると思う。
恋愛には少なからず性の対象であることが必要である。つまり、根本にあるモノと性の対象が組み合わせることで、恋愛に発展しやすいのである。
例えば、ぼくはコーヒーが好きである。だが、恋愛には発展しない。それは根本にあるモノは同じだが性の対象ではないからである。コーヒには、オッパイもないし、スリーサイズもない。仮にあったとしても興奮しないだろう。それは説明するまでもない。
一時期、ラブプラスというゲームが流行した。三次元よりも二次元に思いを馳せる若者が増えたのである。人間ではない、データを愛することは可能なのか。ラブプラスの二次元のキャラを愛することは可能なのか。
これも上記に記したことで説明できる。
根本にあるモノに何が包摂されているのかを探っていけばいいだけの話である。
ゲーム、流行、インタラクティブ、ストーリーがある、主人公になれる、思い通りになる、気を使わなくていい、理想を反映されやすい、手軽、リセットできるなど。逆説的に、三次元ではないというのもありである。
つまり、人間という要素を取り除いた上で、どれだけ擬似恋愛を堪能できるかというものなのである。
それが本物の愛かどうかは定かではないが、根本にあるモノは同じだと思う。
近い将来、ほぼ人間のようなロボットが登場するだろう。見た目に違和感がなく、人間と同じようにコミュニケーションをとることができ、性的嗜好の対象でもあり、行為もできる。
人間との違いは、人間ではないという概念だけ。
そうなってくると愛が芽生える可能性があると確信している。
ただ、人間に対する愛というものには、道徳的な同調圧力がとてつもなくかかっている。
ぼくらは人間は愛さなければならないという前提の中で生きている。
愛は普遍的な善であるとされている。
善悪の区別は難しく、捉え方や立場によって善にもなるし悪にもなる。時代によっては、オセロのように白になったり黒になったりする。
愛は善であるのかもしれないが、根本にあるモノに色を付けて善にしているだけなのである。
それが良いのか悪いのか、ぼくにはさっぱりわからないけど、もう少しだけ考えてみたいと思う。
とりあえずの結論は、愛というのは根本にあるモノに味付けをすることで、変幻自在に形を変える器用貧乏なモノなのである。
以上。