協生農法を作った目的ははっきりしている。
一言では難しいので順を追ってお話する。
最初に志に目覚めたのは17歳で、戦争を繰り返さないようにすることだった。
犠牲なった人々や、同世代の十代で家族を守るために海に散っていった人達の影響が強く、その遺志を引き継いだ。
どうすればよいのか皆目わからず、反戦運動にも関心がなかったが常に目的を見据えていた。
道がかすかに見え始めたのは40過ぎてから、その準備が終わった時に23年間務めたヤマハを迷わず退職、山奥で暮らしながら自然界と対峙、生命物理学探究の準備を始めた。
心ならずも成り行きから会社を興すことになったが、一人でも組織でも同じこと、目的をしっかり見据え47歳でその為の会社を興した。 決意から入り口に立つまで30年を要した。
理念は決まったが、具体的な事業内容が決まらないのに失業保険を受けながら無給で社員が集まって来た。
5年後、県の非常勤講師を依頼され農山村・漁村の復興に協力、農業の実態を知るほど焦点が定まって来た。
戦争を減らす最良の方法が、農業など一次産業の復興だった。
誰もが豊かに暮らせれば我欲も緩和、農機具を銃に替える人も減少する。
国内だけでなく世界の紛争を無くさなければ解決にならず、巻き込まれるだろう。
争いの元になる飢餓貧困・・最も悲惨なアフリカから飢餓を無くす為に、国内の過疎化集落の復興を成し遂げ、アフリカ・世界へとその手法を波及させようと考えた。
それが何故農業なのか。
世界が抱える難問は、環境問題、健康問題、飢餓・貧困・紛争問題、大きくこの3つ。
それらの根源は農業であり、農業の間違いがすべての原因と特定。 間違っていなければ修正は容易なはず。
1に業として成り立ち、2に環境を復元、3に健康問題の解決、4に飢餓・貧困・紛争の解消、農業が楽で楽しく成り立てば同時に解決出来るはずだ。
狩猟民族だった野人は、最もやりたくなかった農業の為に業として成り立つ農法を1か月で本一冊分にまとめた。
まとめたと言うのは、あらためて考えたわけではなく、最初から頭にあったことであり、農村での講演でもそれを説き続けたがまったく通じなかった。
農法をまとめてから本格的に1反の「むー農園」を作って実験。
通常とは全く逆で苦節何年もなく、自然界の理論から入ったのが協生農法であり、その通りになったので1年後の2008年3月に理論をブログで公開した。
協生農法の元になる「協生理論」もまた、頭の中に既に出来上がっていた。
幼少から半世紀近い体験と思考順路と結果をまとめただけだが、この球体理論を平面的な文字に変換するのは本当に難しい。
協生農法を作った大きな目的は飢餓貧困と戦争を無くすこと。
ついでに健康問題、環境問題の解決、海の復元。
当面は国内の過疎化問題解決から農業の復興へ。
その為に、高齢者でも、狭い農地でも、楽をして成り立ち、最後まで生産性で社会貢献出来るよう協生農法を作り、荒廃農地の復元から始めた。 大規模農業や水耕穀物ではなく野菜中心の小規模農家の復興が最優先だった。
次に穀倉地帯、山林の復興を同時に進める。
山麓に農家がいなければ山は荒れ放題になり復元は困難。
いくら公開・説得しても思うように伝わらず波及しないからやって見せるしかない。
是非の判断はそれからしていただければよい。
野菜を必要とせず、あまり食べない野人・・
絶対に自分ではやりたくないという思いで始め、一気に波及させて2年で農界から引退するつもりだったが、あれから17年経った。
専業の完全な協生農家はまだ出て来ず、過疎化と荒廃は限界。
農法は苦節もなくすぐ出来たが、波及・講習会は苦節16年でもさっぱり・・
波及の為のブログに物理論を16年間ほぼ毎日書き続けたのだが。
常にやりたくない病のお野人がここまで根気が続くとは夢にも思わなかった。
あと何年やれば・・書けば 何年生きればいいのか・・
滅多に行かない伊勢神宮行って神様に聞いて来るかな。
むー農園の造成 クワ一本で1反を・・ 2007年 3月
野人農法講習会
母達のイチゴがり
お守り・・
砂漠モデル 新農園 1反造成 2010年
実験開始記念に梅を植樹 地主息子と今野さん
今も協生チームで 交流は深い ![]()
小樽にも同行
葉っぱはね・・ ハッパ64 ムシが大好き![]()
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