理性の磨き方 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

 

 

 

魂は磨くものではなく、地球の理に逆らわず生きていれば誰でも磨かれる。

理性は磨くものであり、磨こうとしなければ磨かれない。 地球の理と理性、どちらも同じ意味の理だ。

 

知性は人に備わっている能力で認識能力、すべての生物にも備わっている。

理性は道理を立てて物事を判断する能力、知性に含まれるが知性とは異なる。

 

知性と理性が一緒になって人の行動を決めて行く。

明確な結果を求めるには理性が不可欠であり、方程式同様に理性なくして正しい答は出せない。

 

これが苦手な人は簡単に放棄するが、放棄すれば判断を感性に委ねるしかなく重大な現実において結果を出すことが困難になってしまい悩みも迷いも増える。

 

人間社会が築いた学問、科学、工業的な知識は人や本から学べば済み、そう大きな間違いもないが、自然界は宇宙だけでなく海も陸も、生命も未解明。 わかったとされることが間違っていれば当然結果も出ない。

 

世界が抱える深刻な問題の数々。

病不調、環境破壊、飢餓、貧困、自殺・・

 

農業の発明が全ての起因であり、その農業の間違いがこれらを招き入れたと書き続けたが、その間違いに気づかず誕生から数千年もの間変わらないのは何故なのか。

 

耕起と肥料は農業に不可欠として常識になっている。

肥料なしで農作物が出来るはずがないと言い切る学者・関係者・農家が大半だ。

 

これらが常識として定着し続ける理由は、肥料で短期肥大させてもメタボではなく「食べ物として問題もなく正常」と判断したからであり、それに道理をもって異議を唱える人がいなかったからだ。

正常なら人類や動物達はこんな目にはあっていない。

 

農作物の野菜果物は野生種を品種改良したもので確かに食料としては優秀でアクも酸味もなく食べ易い。

さらに肥料を与えることで早く立派に育ち、食料生産においての功績は大きく大勢の人が飢餓から救われた。

 

しかしこの農産物、大きさ形だけでなく味も大きく変わった。

酸っぱかったミカンやブドウは砂糖のように甘くなり、甘くなかったイチゴやスイカやメロンも甘くなった。

これらに甘さを求める人間の願望が植物を変えた。

 

野菜の原種である山菜は大きく育てば硬さとアクで食べられないが、それが植物として当たり前のこと。

しかし、野菜はどれほど大きくても柔らかく食べられる。 品種改良だけでなく肥料の工夫も大きく味に影響している。

 

果たしてこれが地球本来の植物なのかと考えれば、そうではない。

他の動物のように、これで体調は維持出来るのか。

 

食べ物が原因で体調維持出来なくなったのは世界の常識だが、農薬や添加物や化学肥料や体に悪い食品に目が向うのに何故、動物・植物の本質に向かわないのか。

肉や卵や乳製品も同じで、それが地球本来の動物性蛋白質なのか、脂肪なのか。

 

野菜・果物・畜産肉と野生種を食べ比べれば違いは明らか、養殖魚も天然とは明らかに異なる。

成分にこだわるなら分析して成分を調べればわかるのだが、そこには向かわない。 味は違うが同じものには変わりないと言うことなのだろう。

 

無農薬有機は重宝されても、無肥料に誰も着目しないのはそれが理由だ。早く立派に育つほうが誰でも嬉しい。

農業の間違いに誰も気づかなかったのは、食べ物の間違いに気づかなかったからだと言える。

 

農薬に限らず、肥料は土壌も河川も地下水も海も汚染オーガニックはさらに汚染する。

肥料の汚染度はその量からして農薬の比ではない。

実験すれば簡単にわかるが、しなくてもわかる。

詳細はブログテーマ「オーガニックの矛盾」に。

 

三重の穀倉地帯はすべて牛糞、鶏糞の廃棄場所になりつつある。 完熟堆肥と称して耕運機で土中に混ぜ続ければ伊勢湾は汚染と生態系破壊が進みやがて死滅するだろう。 生態系を必要とせず破壊する・・そんなもので作る人工植物で体調が保てるはずがない。

 

人は何故食べ物を間違えたのか。

自分達で食べ物を確保する狩猟採取の時代から、通貨で食べ物を得る分業の時代に移行したからだ。

農業技術は進化、どのような味の植物、肉でも作れるようになった。 つまり食料が工業製品化し、それらの加工食品も多彩になった。

 

味を追求するほど、消費者のニーズに応えようとするほど競争は熾烈になり、生産者加工者だけでなく消費者もまた食の本質から遠ざかって行った。

 

健康がこれだけ悪化すると、食の中心である野菜果物や肉類に消費者の目は向き、食の安全が叫ばれるようになったが、相変わらずピントが外れている。

農薬、化学肥料が避けられ、遺伝子組み換えの安全性が論議されている。 それらは不調の主因とは関係ない

 

安全性に、何で「生産者の顔」はてなマーク汗が関係あるのかさっぱり理解出来ない。

これが理性なのか、顔で決まるならキムタク野菜は売れて野人野菜はさっぱり売れんパンチ!だろう。

 

食べ物の間違いが農業の間違いを修正出来ず、農業の間違いが環境悪化、健康悪化を招いた。

人間の自業自得と言えばそれまでだが、単純な間違いなのだからすぐに修正出来るはずなのだ。

 

食べ物の間違いに気づかなかった理由は、狩猟採取から買い求める時代に移ったからだけなのか。

本能で食べる時代から提供される時代に変わったからだけなのか。

 

ペットや家畜がそうであるように、与えられればそれを食べるしかなくなる。

しかし人間は他の動物よりもはるかに知能が高い。

これだけの文明、学問を築いたにもかかわらず何故気づかないのか。

 

その答えは単純で、その「学問」がないからだ。

人は人から学問を学び、それに沿って行動する。

沿わないものは野人のように変人扱いされてしまう。

 

最初から自らの判断で動けば気づくのだが、判断の指標は習った学問。 「自分の考え 物差し 指標」の根底には必ずそれがある。 いくら独自性を出そうとしても思考の基盤は同じなのだ。

 

成分を見て生命を見ず。

だから徹底して成分を見続けた健康食品やサプリまで大氾濫。 それで問題が解決するのか・・

連作障害の理由すらわからず畑を入れ替えるのと同じではないか。 失敗の穴埋めのごとく、次から次に対策の対策を考えるのと同じだな。

 

成分ではなく生命によって生命は引き継がれるという森羅万象の基本的な道理を人間は見失っている。

 

 

 

本能と感性と理性

https://ameblo.jp/muu8/entry-12023752565.html

 

心と現実の理

https://ameblo.jp/muu8/entry-12226627979.html

 

学びの道理 知識とは

https://ameblo.jp/muu8/entry-12528196927.html

 
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