「知る」と言う言葉は広域に及び、「知識」と言う言葉は正確には「原因の把握に基づく確実な認識」とされている。
読んだり聞いたりして覚えることは、広義では「知る」ことに入るだろうが、場合によっては原因の把握に基づく確実な認識にはならない。
場合とはどのような場合なのか。
覚えても使いこなせないものであり、人名、地名、年号、書名などの固有名詞などとは異なり、平面的な言葉ではなく仕組みがあるものを示す。
数学や物理など言葉ではなく仕組みを教える学問は、どれほど言葉を知り覚えても役には立たず使いこなせない。つまり問題は解けない。
自動車免許も同じで学科を猛勉強して満点を取っても、実際運転出来なければ免許はいただけない。
芸術、音楽など、感性を磨くのも目的であり、現実の役に立ち使いこなせるもの。
自分の為にせよ何の為にせよ、使う為に習得するのが本来の学びであり、使えないものを学ぶのは自由だが、現実の役には立たない。
自在に使いこなすには何が必要なのか、言葉を覚えることではないはず。
日常で現実的に使うなら、それは国語ではなく物理の領域なのだ。
感性では物理数学の問題が解けないように、現実の難問も解けない。
理性と感性、どちらも重要で人間に必要なもの。
感性は人の心そのものであり、理性は生きる為に必要な技。
理性は生きる道具に過ぎないが、全ての生き物が理性を持ち、理性無くして命は守れない。
感性だけで理性が欠ければ結果が出ないものもあれば、理性だけで感性が欠ければ結果が出ないものもある。
特に複雑な人間社会ではそうだろう。
「感性と理性の境界」、高度に知能が進み過ぎた人類はこの境界を誤っている。
動物と違って余計な事、複雑な事を考え過ぎるのもそうだが、単純で当たり前の事さえ見失った。
感性が必要ない物理に感性を持ち込めば間違えるのは当然。
何処で何を間違えたかは簡単であり、野人理論はその修正理論。
世界が間違えていなければ必要ない無用論なのだ。
この理論に間違いがあるなら指摘していただければよく、あらゆる学者・専門家に期待したが、指摘して崩せる人はいない。
間違えたから求める結果が出ないのだ。
理論が間違いなければ結果は出る。
山本五十六の言葉・・
「やってみせ 言って聞かせてさせてみて 誉めてやらねば人は動かず」
この、「やってみせ」と言うことが最も重要であり、説得の大前提だ。
どのような素晴らしい理想・構想・理論、話であろうが、やって結果を出さなければ空論に過ぎない。
空論を語れば語るほど人は耳を貸さなくなる。
地動説を唱えたガリレオも一人で世界を向こうに回し、晩年は悲惨だった。
こればかりは「やって見せ」とは行かず、理論で証明するしかない。
やって見せることが可能どころか簡単な野人理論の証明は容易だ。
世界の壁は厚く波及は困難だが道は開けている。
知識とは知の識と書く。 知ることと識別だ。
広義には人間の全ての活動と内容、狭義には原因の把握に基づく確実な認識・理解を言う。
狭義で言う知識とは立派な物理であり、言葉でまとめ感性で判断出来るものではないはず。
使う言葉に道理も具体性もなければ知識とは言えない。
自分で実現出来ないことを語るのは語らない人と同じであり、語るほど信用は失われ人は離れて行く。
傲慢さやいじめは別だが、不本意な孤立は信頼を失ったからであり原因は自分にあることが大半。
今は日本の歴史上最も表現の自由が許される時代。
あらゆる情報が氾濫し、何を選ぶかも自由。
その情報が個人の一説なのか、完全な結果が出る理論なのか、判断する前に判断する術を学ぶことが今最も必要な学問ではないだろうか。
文明の歪が生み出した矛盾
https://ameblo.jp/muu8/entry-10473225166.html
リストラだ・ムーすの小予言4
https://ameblo.jp/muu8/entry-10941381838.html
ササユリ
急いては事を仕損じる 明日まで待つか 寒いし・・