野人理論における「生命の原理」 1 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

 

農法、体調復元法、武術、護身術、泳法、ギャンブル・・など、広域にわたる野人理論は身近な暮らしの理論であり、現実に起きることは全て物理で表せる。

参考文献などなく、基盤から創り上げた独自の理論で、森羅万象から見出した物事の仕組み。

 

野人理論の中の生命に関するものが協生理論であり、その中の農法に関するものが協生農法理論。

協生理論の理解無くして協生農法理論の理解は出来ない。

 

生命に関する基本的な仕組みは物理論なのだから、理解とは農法を言葉で覚えることではなく物理的理解のことだ。

 

理論の基盤になるものは数学では公理、物理学では原理、どちらも同じ意味を持ち、その普遍の道理を前提に理論が進められる。

だが生物学にそれらしきものはなく、理論・方程式の形にもなっていない。

 

確固たる理論の基盤がないのだから結果も出ず、「生命はさっぱりわからない」、これが現状だ。

生命を扱う農学、健康学、栄養学、医学などの共通点は、数学物理学と違って「求める結果が明確に出ない」ことであり、社会の難問山積みの原因となっている。

 

この学問の弱点を明確にして、はっきりさせたのが野人理論であり、生物学物理論を持ち込んだ。

野人が数十年間学び、探求して理論がなかった生物学の基盤に生命の「原理」を持ち込んだのだ。

 

物理学も生物学も自然界と生物界の「不思議」を解き明かす学問だが、生命に関してはどうなのか。

自然現象に関しては進んでいる物理学も生命に関してはさっぱり、意識から入れば腰もひける。

生物学も同じで、顕微鏡で細胞と睨めっこしているようなもの。

 

生命とは意識あるものを指すのではないのか、鉄や石ではない自らの意識で生長する有機物を指すのではないのか。

 

勝手に卵がひよこになって、子供が大人になるのか。

樹木は重力に逆らって勝手に伸び、数十m上まで水を運び続け数百年生きるのは神業なのか。

 

物理的な仕組みと確固たる意志があるからやれることではないのか。 自ら考え、意識があるから体を進化させるのではないのか。

 

精巧なロボットが組み立てられて、何故生命がわからないのか。

機械同様に、生命の分野を細分化して専門家を育てたからではないのか。

 

だから問題が先送りされ、環境は悪化、病に苦しむ患者が病院でたらい回しにされるのだ。

 

生命に関する学問はその基盤から間違っている。

間違っているから、努力しようが時間を費やそうが解決しない。

間違いを修正するのはこれらの学問を広めた学者の責務ではないのか。

 

野人は学者でもない一般庶民。

研究室もなければ師と仰ぐ教授もいない。

学生時代は勉強もせず海山で遊んでいただけだがこの程度のことは身をもってわかる。

ノートすら必要としない簡単な理論だ。

 

庭の草が日々伸びる理由、さらには指揮官、動力の仕組みすら知らずして、動物、人間、全体生命、生態系の仕組みどころでもなく、到底手には負えない。

 

生命である植物の基本的仕組みがわからず何故、農法が確立され、植物に肥料が与えられ、栄養成分や効能や健康論が語れるのか・・

公言した事に責任が持てるのか。

 

野人は何もない原野に基礎となる「生命の原理」を築き実践、結果を出し、公言したことに責任を持っている。

 

生命の原理を基盤にしてすべての野人理論・協生理論は構築され、無数の物理方程式が蜘蛛の巣のように連立している。

 

野人理論における重要な生命の原理とは

 

続く・・  次回 原理のまとめ

 

 

 

協生農法の原理と理念

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農業の迷走は土作りから始まった

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命の重さ

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