当たり前の○×理論 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

心はともかく現実の出来事はすべて理であり因果がある。

「急がば跨ぐ野人」も・・生命については跨げない、本や常識を鵜呑みにすることなく途方もない回り路をして来た。

科学も及ばない未知の部分のほうがはるかに多いからだ。

生きることの基本は食べることであり、食べるのは生命あるもの。

人に食べられる肉も野菜も果物も魚もすべて生命。

当たり前に自然界のものを食べていれば何も考える必要はない。

そうでなければ、健康を考えて多種食べるのなら生命の歴史を学び、野菜とは、肉とは何か、その仕組みを知るしかない。

健康も野菜も簡単に言葉で覚えるから成分、栄養、効能、調理法しか見えず、生命とは何かが理解出来ない。

だから健康食品も入浴剤も、成分、効能を掲げるのが当たり前になり、判断する方もそれが当たり前となってしまった。

その効能でこの数十年間でどれだけ体が回復したか、よく考えてみなさいね。

「どの天然成分が体に良いか」と言うより、動物の本質から言えば本来はいらないものだ。


当たり前とは失敗と修正を繰り返す人間の道理ではなく森羅万象のことだ。

森羅万象もまた言葉ではなく、膨大な生命の仕組みの聖域。

それがわかればどのような食材も○か×か、簡単に判別が付く。

×だからと言って食べて悪いわけではない、本来の食材ではないだけだ。

成分に執着、何年も×ばかり食べて○印食材を食べる機会がまったくなければ・・・

「必要なもの」が不足、心身が×になるのが当たり前だと言っている。

○と信じたものが×だと気付き、本当の○を発見するまでそれは続く。

常識の盲信から親が気付かなければ×を子孫に引き継ぐことになる。

何十年も病に苦しみ、何をやっても×だったなら答えは出ている。

少しでも症状が改善すれば人は△印を付け○を目指す。△期間が長いほど企業は喜ぶ。

○印が当たり前に浸透すれば、関連する事業はすべて成り立たなくなる。

物理数学コンピュータがそうであるように森羅万象の答えも○か×しかない。

○か×かは最初から道理ではっきりしている。

最初からわかれば無駄なことはやる必要もない。

「とにかくやって見よう」は、どうにもわからないからであって、活路を開く最後の手段だ。

とかく人は結果、答えだけで判断するようだが、自らの思考ではなく他人が出した楽な答えを選ぶ以上、そのツケは自ら払わなければならない。

騙された、消費者の信頼を裏切ったと苦情を言う前に自らの姿勢を問うべきだろう。


海や陸、動物や植物の食材としての本質、道理を説いた本は何処にもない。

だからこうして書き続けている、当たり前の道理を数式ではなくわかりやすい理論エッセイとして。

理論の判断はそれぞれにおまかせする。



文明の歪が生み出した矛盾

http://ameblo.jp/muu8/entry-10473225166.html

答えにならない人間の錯覚

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「言葉」と「仕組み」の違い

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テーマ 言葉と仕組み 10編

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