どうしても人間は人間を中心に物事を考えてしまう。
心の持ち主が人間なのだから当たり前のことだが、生命と言う分野から見れば人間の科学は幼児に等しい。人は生命を生み出すことが出来ないからだ。
進歩はしたが病気の治療、身体の修繕さえもてこずっている。
人間が証明出来ないものは認知されないのが科学だ。
しかしながら科学は仮説を立てて、それを解明する為に年月を費やし今がある。
証明されないからと言って否定されているわけではない。
彼らの努力の結晶をただ学ぶだけの人間はとかく否定しがちだが、人知がそこまで及ばないだけだと言う事を理解すべきだろう。
文明は電気なくして成り立たないが、電気の粒子を見た人は誰もいない。
今の科学では高性能の顕微鏡を持ってしても見ることは出来ない。
つまり目に見えないものが文明の中心になっている。
身の回りに尽きることなく存在する電気の粒子、それが万物を形成している。
人は生命どころか物質の本質さえも知り尽くしてはいない。
野人は野人である事に変わりないのだが理工系だ。
海洋学、物理学、自然科学、動植物、魚介類、すべてに精通している。
合理的な道理を今の科学と森羅万象双方の視点から見つめ、自分自身の独自の理論を持っている。
机上の理論ではなく、海山の自然界に長く身を置き、万物、動植物と対話しながら理解した道理なのだ。
証明云々ではなく、現時点で言葉にする以上それなりの確信は持っている。
まだまだ知るべきことは山ほどある。
人と争う事もないが無益な議論もしない。
この世に生かされ、自分の信じる道を歩けることが一番充実して幸せな事だ。
欲を求めればきりがない。
人は知能が高く人間に近いペットや鯨やイルカを保護しようとする意識が強く、それらの迫害には憤りを感じるようだ。
また、全ての生き物に対する愛情もそれなりに持ってはいる。
しかしながら昔から食用としてきた牛や豚、魚介類、野菜などはそれほど抵抗を感じない。
石器時代のように自ら手を下し食べるとなれば必ず痛みを伴うはず。
それでも人は命あるものを食べなければ生きては行けない。
人だけでなく全ての生き物がそうなのだ。
命に重いも軽いもないはず、それを区別するのは人のエゴに他ならない。
豚をペットとして愛情を注いでいる人はその豚を食べられないし、鶏でも同じだ。
ペットを家族として扱うか食用と見るかも人の心次第なのだ。
丹精込めて仕上げた菊は切れないが春菊なら切れる、同じキク科の植物には変わりないのだ。
命あるものはすべて心を持っている。
心とは思考回路、感情のことだ。
その機能は脳の大きさに比例している。
だから犬やゾウやクジラやイルカは他に比べて知能が高く感情が豊かなのだ。
脳を持つ動物は小さな昆虫でも思考回路はある。
掴まえようとすれば逃げるはず、危険を察知して行動をとるのは当然だ。
動物と共に進化の道を歩んだ植物も心はある。
ただ脳と言う細胞の機能がないから動物のような繊細な思考回路ではなく、ほのかな感情なのだ。
人が愛情を注げば当然それを感じ取ることは出来る。
野菜に丹精を込めることは良いことだが、それはあくまで素直な心だ。
人の身勝手な道理で世話をやくことではない。
野菜が自力で育ちやすい自然環境を整えて、後は「自分で頑張れよ」と声をかけるだけで良いのだ。
ずっと昔の話だが、ある大学が植物の感情の実験をした。
部屋に植物を置き、微電流を感知する装置が植物に装着された。
二人の学生が毎日交互に入り、一人は「頑張れよ」と声をかけ、一人はハサミで少し葉を切った。
何の反応もなかったが一週間目に明らかに違いが表れたそうだ。
最初の学生の時は何の反応もないが、ハサミを持った学生が部屋に入った途端、植物に微電流が流れ始めた。
その反応を恐怖反応ととるかは別にして、時間はかかるが植物が人の「気」を認識しているのは間違いない。
野人もそう感じている。
また、友人の農学者が似たような実験をした。同じ条件の花を花瓶に入れて三つ用意した。
毎日出勤する前に感情込めてそれらに声をかけた。
1番目には「頑張れ」、二番目には何も言わず、三番目には「枯れろ」と。
一週間くらいでそのようになったらしい。
けなした花が最初に枯れ、次に二番目が普通に枯れ、激励した花は長く生き続けた。
彼は水や気や波動の研究を熱心にしていた。
「お前もやって見ろ」と言われたが、懸命に咲いた花に向かって「枯れろ」とは言えない。それは生き方の問題だ。
森羅万象の「仕組み」の中で人間、動物、昆虫だけでなく植物も懸命に生きているのだ。
衣食住全てにおいて共生なくして生きて行けるはずもない。
動物の細胞構成元素は無機質でも、無機質を食べて生きては行けない。
植物だけが無機質を養分に生きて行ける。
そして全ての動物に必要な「有機質」を生み出せるのは植物しかないのだ。
野菜も植物、草もまた懸命に彼らの役割を果たそうとしている。
だから野人は野菜にも草にも敬意をはらっている。
野菜も草も区別なく衣食住にしている虫や鳥達にも同じように愛情を注いでいる。
やむなく多年草を抜く時も「ごめんな」・・と心の中で声をかけている。
野菜を抜くときはありがとう・・だ。
それが糧をもたらす大地への自分自身の素直な心だ。
最近は土壌だけでなく、その空間も含めて全域に以前とは違う生命感が溢れている。
何もしてはいないが勢いが違う。