で、只今ただいま拝読の御文は、だいしょうにんさま三大さんだいほうをもって何としても全人類ぜんじんるいを救わん」とのその崇高すうこうなるしんきょうと、そして、て身のごとき退たいけつしめしあそばされた一節であります。
 いいですか、鎌倉にいるもん一同いちどうの中に、信心しんじんの薄き者は、たつくち大難だいなんの恐ろしさに続々と退転たいてんしていったんですよ。あまりにも恐ろしい。「くびを切る」という大難だいなんでしょう。
 今まで信じておっただいしょうにんさまくびを切られて、こんなに恐ろしいことはない。
 しかも、それだけではない、いつその弾圧だんあつが自分の身に降りかかってくるか分からない。
 この時、みんな信心しんじんを破っちゃったんです。退転たいてんをしてしまったんです。
 「『法華ほけきょうたもてばげん安穏あんのんである。そして、諸天しょてんしゅする』ということを経文には書いてあるけれども、だいしょうにんさまの姿はげん安穏あんのんなのだろうか。打ち続く大難だいなんばかりではないか。何でこのような恐ろしい大難だいなんが続くのか」
 これは、仏様の大境界がわからないんですね。だいしょうにんさまどう妨害ぼうがいしようとしてさんしょう四魔しま紛然ふんぜんと競い起こる。そのどう妨害ぼうがいするその魔の原理がわからないから「何でこのような大難だいなんに遭うのか」「何で諸天しょてんしゅしないのか」といううたがいを持ったんです。
 これは「法華ほけきょうは正しいけれども、日蓮にちれんだいしょうにんさまが『念仏ねんぶつげん禅天ぜんてん』などというしょしゅう悪口わるぐちを言う折伏が間違っているんじゃないか」などということで、ついにだいしょうにんさまを信じ切れずに退転たいてんしていく者が続々とあった。
 だいしょうにんさまはこれをびんと思されたんですね。退転たいてんをするならば悪道あくどうするではないか」と。
 そこにだいしょうにんさまきょうがいがどのようなものか」ということをここにしめし下されたというわけなのであります。
 膨大ぼうだいな文章で、それらの疑いを一一にどうの上からこれをらされた。
 その上でもって、この本仏ほんぶつ崇高すうこうなるお心と、退たいけつをここにしめしになった。
 それが只今ただいまの御文であります。

 「せんずるところはてんたまえ、諸難しょなんにもえ、しんみょうとせん」と。

 「てんたまえ」というのは諸天しょてんたまえ」っていうことなんでしょう。
 ですから、この三大さんだいほうを弘めて、一切いっさいしゅじょうを仏に成さんとするだいだいだいしょうにんさまを守らないとするならば、それは諸天しょてんの罪なんですよ。
 で、お弘めになるだいしょうにんさまは「諸天しょてんが守るから弘めよう。諸天しょてんが守らなければ弘められない」このような薄っぺらなけつではない。諸天しょてんが守らなければそれでもよろしい」ということで、ここにてんたまえ」というけつしめしになられた。

 「諸難しょなんにもえ」

 「これ以上の大難だいなんがもっと来るがよろしい」

 「しんみょうとせん」

 「命ある限り」おおせになられた。

 「ないがんつ」

 「がんつ」というのは大難だいなんのあることは、りっしゅうの時からそういう誓願せいがんを立てておったんだ」ということであります。
 あの誓願せいがんりっしゅうの時のけつというのは『開目かいもくしょう』にありますね。

ほんごくれをれるものただ日蓮にちれん一人いちにんなり」

「『念仏ねんぶつぜんしゅうとうこう根源こんげんだ。みんなが信じている者はこれは毒なんだ』このことを知っているのはだいしょうにん一人いちにん
 そして『じょうぶつの大法は、法華ほけきょう本門ほんもん寿じゅりょうほん文底もんていちんせられた、おん元初がんじょの南無妙法蓮華経の大法以外にない』このことぞんであるのもだいしょうにん一人いちにんであられる」

 そして

わずは慈悲じひなきにたり」

「このことを知ってて言わないのは慈悲じひなきに似たり」と。

 そうでしょう。しゃでも、人が毒を飲んでいるのに「それは毒だからやめなさい」と言って止めなければ慈悲じひがないじゃないですか。「この薬が本当なんだ」と知って言わないのは慈悲じひがない。
 しかし、このことを言うならば、かならず、じゃしゅうしつしているみんしゅう反感はんかんをする。そして

国主こくしゅ王難おうなんかならきたるべし」

こっけんりょく弾圧だんあつかならずある。そして、命に及ぶであろう」とおっしゃる。
 そして、おっしゃるには

こんごうじょう提心だいしんこして、退転たいてんせじとがんじぬ」と。

 りっしゅうの時に「いかなる大難だいなんが来ようとも、絶対に断じて退転たいてんをしない」というけつでもってりっしゅうあそばしたっていうんです。
 これががんつ」というんです。
 ですから、例えば「このような誘惑ゆうわくがあろうとも、恐ろしいきょうはくがあろうとも」という例をおげになっておられる。

 「ほんごくくらいゆづらむ、法華ほけきょうててかんぎょうとうについてしょうせよ」

 「もし法華ほけきょうてて、念仏ねんぶつしゅうかんぎょうなんかを読んでしょうを期するならば、ほんごくくらいゆずってあげましょう」

 これは、最大の誘惑ゆうわくですよ。これはたばかりですね。
 そのような甘いことを言って誘惑ゆうわくして退転たいてんさせようとしても、あるいは

父母ふもくびねん念仏ねんぶつもうさずば」

「もし、念仏ねんぶつを唱えなければ父母ふもくびねるであろう」

 これはだいしょうにんさまにとってはがたことでしょう。
 御自身がざいざいに遭うことは、そんなことは大したことではない。
 しかし、孝養心こうようしん厚きだいしょうにんさまにとって、父母ふもくびねるというきょうはく、これは、がたことである。
 しかし、このような種々の大難だいなんしゅったいしたとしても

「なんどの種種しゅじゅ大難だいなんしゅったいすとも、しゃやぶられずはもちいじとなり」と。

 「しゃやぶられずは」ということは、だいしょうにんさま「この三大さんだいほうでなければいけない」とお立てになったということどうによってるんでしょう。御自身のしゅうこんじょうなんてものじゃないんですね。
 ですから、正しいどうもとづいて「この三大さんだいほう以外にはじょうぶつの道はないんだ」ということ結論けつろんでもって大確信だいかくしんでお立ちになっておられる。
 ですから『みょういつあま御前ごぜへん』にこういう御言葉があるんですね。

けてありともこころひるがえらずは、天寿てんじゅをもれよかし」

 要するに、だいしょうにんさまこうじょう対決たいけつでもって邪法じゃほうぼう対決たいけつして、万が一にも相手のどうが正しくて、自分のどうが負けたんだということで、なおかつかんじょうてきに「いや、自分は絶対にこれをてない」などと言ってそういうこだわりがあったとしたらば天寿てんじゅをもれよかし」日天にってんっても構わない」すらおおせになる。だいしょうにんさま確信かくしんというのはこういうことなんです。
 念仏ねんぶつ真言しんごんぜんしゅう等のやからは全部卑怯ひきょうでもってとうこんじょうしゅうこんじょうなんでしょう。
 ですから、法論対決ほうろん対決たいけつには出ない。じょうぶつじょうぶつは問題ではない。「とにかくあれはじゃだから殺せ」と言ってこっけんりょくうったえ出た。
 その時だいしょうにんさま

「相手のどうが正しければ、自分は偏等へんとうしゅうしんはない。『三大さんだいほう以外にじょうぶつの法はないんだ』という以上はいかなる誘惑ゆうわくにもきょうはくにもくっしない」

 しかし、いかなるきょうはくといえども、今申しましたごとくに、孝養こうようの心厚きだいしょうにんさまにとってがたこと父母ふもくびねん」ということです。
 自身のざいざいなどというのは風の前のちりである。
 しかし父母ふもくびねん」これだけはがたい。
 そのがたい事すらもなおえて

じょうぶつの方法は三大さんだいほう以外にない。これを弘めなければ一切いっさいしゅじょうじょうぶつできないではないか」

とのそのだいだいでもって、このような大きょうはくすらもしゃやぶられずはもちいじとなり」とこうおおせあそばす。
 このだいだい日寛にっかんしょうにんはこうおっしゃっておられる。

一度ひとたびもんはいせば、なみだしばしばくだる。後世こうせい弟子でしとうふかしんむべし」と。

 日寛にっかんしょうにんがこの父母ふもくびねん」とのこのもんを拝して「何たるだい慈悲じひか」と言って「なみだしばしばくだる」「なみだが何度も何度も流れ落ちた。後世こうせい弟子でしとう、深くこの文をしんめよ」とおおせになっておられまするが、顕正会員こそ、本当にこのもんはいさなければいけない。
 そのうえ

ほんはしらとならむ、ほん眼目げんもくとならむ、ほん大船たいせんとならむとうちかいしがんやぶるべからず」

と、この大難だいなんを受けられただいしょうにんさまがなおかつ、卑怯ひきょうざいざいをするこのほんごくを、断じてほんはしらとならむ」「断じてほんごくを守る」という仏様のだい誓願せいがん全人類ぜんじんるいを守る」とのだい誓願せいがんをここにお立てになった。
 だから私が広宣こうせん流布るふの前に例えいかなるこく侵逼しんぴつがあろうとも、断じてほんは滅びない」というのは、仏様のこの誓願せいがんを拝してるから「絶対に滅びない」ということなのであります。


平成21年 1月18日 浅井先生指導