うえ殿どのへん』にたまわく
 へんすできょうぎょうじゃさせたまへることさるひともちゐつきたるがごとし。
 あつわらものどものかくをしませたまへることしょうへいまさかどてんさだとうやうくにものどもはおもいいてそうろうぞ。
 これひとへきょういのちつるがゆえなり。まったしゅくんそむひととはてんらんあらじ。
 うえ、わづかのしょうごうおおくのてられて、るべきうまなし、さいにはひきかくべききぬなし。
 かかるなれども、きょうぎょうじゃさんちゅうゆきめられ、しょくともしかるらんとおもひやらせたまひてぜにいっかんをくらせたまひけるは、ひんにょおとこふたしてひとつのきぬたりしをこつじきあたへ、ごうなかなりしひえしゃくぶつあたえたりしがごとし。たうとし、たうとし。



 ただいま全顕正会員のこうよう目録もくろくつつしんでほうぜんそなたてまつり、全顕正会員のごころだいしょうにんさまつつしんでほうこく申し上げました。
 そして、例年とは異なりまして本日のこうようほうこくごんぎょうはちょうど日曜日に当たっておりまして、全国の会館に顕正会員が多く参詣さんけいしております。
 よって、こうようにちなんで『うえ殿どのへん』のいっせつはいどくしたいと思っております。

 うえ殿どのは、若くして父上ちちうえの跡をいでとうになられた方ですね。
 そのりょうは、今大石寺がありまするうえごう一帯いったいであります。
 で、このうえごうのすぐそばにあのあつわらごうがあり、にっこうしょうにんきょうしゃくぶくによってあつわらほっこうしゅうが出現した所でありまするが、このあつわらの方々はつねごろからこの若きとううえ殿どのを非常にたよりにしておったということでありました。
 このうえ殿どのしんじん父親ちちおやから譲られている。
 父上ちちうえかまくらつかえる武士であって、本丸ほんがんけんの方にありまするが、りょうがまた一つかまくらにあって、そこにいる時にだいしょうにんさまにお目にかかって深いの心を持ったんですね。
 しかし、そうねんにして亡くなられまして、その跡をいでうえ殿どのとうになられた。
 うえ殿どの性格せいかくきわめて温厚おんこうであります。
 しかし、しんじんは身命も惜しまぬというそのこんごうしんを持っておられたおかたであります。
 このしょを賜わったのは弘安3年の10月であります。
 ちょうどあつわらだいほうなんが起こった翌年のことでありまするが、この時はまだほうなんがくすぶって大変な激動げきどうの時でありました。
 あつわらほっこうしゅうじん冤罪えんざいによって弾圧だんあつされて、そして、たいされてかまくらに送られた。
 その時に、このうえ殿どのとうたちでもってたいされたあつわらの方々のぞくを励まして、さらに、なおわれているそういうひとたちかばったんですね。
 その当時、浅間せんげん神社じんじゃ神主かんぬしが何とだいしょうにんさまをした。そのことによってわれた。
 その神主かんぬしを我がしきかくまったということまでされて、とにかく力の及ぶ限りあつわらの方々をまもったんです。
 でばくにとって見ればこのことが「ばくに背くのか」というようなことにらまれぬはずはない。
 ことに、これを取り扱った者はへいのさもんでありまするから、このへいのさもんが大いににくんだんですね。
 ですから、うえ殿どのとうたちというのはいわゆるかまくらばくつかえるにんとしてりょうを賜わっているそのとうでありますから、きわめてこういうことけんであり、もしもの時にはしょりょうぼっしゅう、いやそれだけでは済まないで「ばくに背く」ということでもって打ち首というようなこともある。
 しかし、かくのうえでえて表に立ってあつわらの方々を守ったということであります。
 でしかもその激動げきどうの中に、うえ殿どのつねのぶさんちゅうにましますだいしょうにんさまおんを案じては、身を削るようをずーっと続けつらぬき通されたというおかたであります。
 ですから、ただいましょ拝読はいどくしても、そのだいしょうにんさまふでに表われているうえ殿どのごころはいけんすればなみだが出てまいります。

 「へんすできょうぎょうじゃさせたまへることさるひともちゐつきたるがごとし。
 あつわらものどものかくをしませたまへることしょうへいまさかどてんさだとうやうくにものどもはおもいいてそうろうぞ。
 これひとへきょういのちつるがゆえなり。まったしゅくんそむひととはてんらんあらじ」

 だいしょうにんおんから見て「うえ殿どのはすでにきょうぎょうじゃている」とおっしゃるんです。
 そのている様を「さるが人にて、丸いおもちが月にているがごとくである」ということは、この当時のうえ殿どのはまだわずか22,3さいですね。
 けれども「その若きうえ殿どのだいしょうにんさま信仰しんこうつらぬいて、命も惜しまぬそのしんじんの深さがだいしょうにんさまの真のぶつである」ということだいしょうにんさまはここにおべになられたんです。
 そして、あつわらほっこうしゅうの方々を力の及ぶ限りとうとしてかばったということしょうへいまさかどてんさだとうの様に人々は思っている。
 たいらのまさかどというのは関東かんとうほうにおける豪族ごうぞくですね。
 そして、きょうてんの命にしたがわないこともあった。
 そしてもとの人々に尽くしたんでもとの人々からは大変したわれた。
 べのさだとうも同じような者であります。
 みんなその国のりょうみんというのはその人をしたったということであります。
 駿するあつわらいったいほっこうしゅうひとたちは、しんじんの柱としてこの若きうえ殿どのたよってたんですね。
 そのことおおせになって

ほっこうしゅうを身をもってかばったことは、ばくはんこうするようなこころではないのだ。
 だいしょうにんさまぶっぽうだいに思い立てる。そのために命を捨ててもよろしいということからのけつそなわったのであって、決してばくに背くちはない。
 まったしゅくんに背く人とはしょてんもこのことは見ないにちがいない」と。

 「うえ、わづかのしょうごうおおくのてられて、るべきうまなし、さいにはひきかくべききぬなし」

 このように、ばくにらまれておりまするから、とうと言ってもそのりょうきわめて狭いその小さなごうとうせいきんてられた。
 よって、とうとは言いながら、自分は乗るべき馬もない。また、にょうぼうどもには着せるべきものもない。

 「かかるなれども、きょうぎょうじゃさんちゅうゆきめられ、しょくともしかるらんとおもひやらせたまひてぜにいっかんをくらせたまひけるは、ひんにょおとこふたしてひとつのきぬたりしをこつじきあたへ、ごうなかなりしひえしゃくぶつあたえたりしがごとし。たうとし、たうとし」

 「このように馬もないしさいに着せるべきものもない。
 このようなとうぜいきんによってこんきゅうした中においても『だいしょうにんさまのぶさんちゅうの雪にめられ、食もとぼしいのではないか』とこういうことを思いやってぜにいっかんようせられた。
 そのこころざしというものは、ちょうどぶっぽうきょうてんの中にありますように、あるまずしいにょにんふう二人してたった一つしか着る物がなくてふう二人でそのものを着ておったそのものを、寒さにこごえたるぶつどうしゅぎょうしゃである乞食こつじきあたえた。
 またあるりょうは、同じく自分が食べる一椀ひとわんしかないひえを、たまたましゃくぶつあたえた。
 このしゃくぶつというのはえんがくかいですから、しゃくそんとしては非常にくらいひくい。
 しかし、そのしゃくぶつに自分の食べるべきたった一椀ひとわんひえあたえてしまった。
 このようなものであるからとうとし、とうとし」

おおせになっておられる。
 これが、うえ殿どのだいしょうにんさまつかたてまつるお心でありました。

 そして、今顕正会員はだいしょうにんさまざいに生まれ合わせることはできませんでした。
 しかし、だいしょうにんさま熱願ねつがんあそばすこうせんぜんに生まれ合わせたんです。
 そして、くにじゅうだいしょうにんさまぶっぽうに背くがゆえに、今まさに国が立ちかなくなる。
 そういうようなたいを私達は今がんぜんにしております。
 その中に、全顕正会員はまずたゆまずひとすじしんほうをしております。
 そして、その中に、決してあり余っているお金ではないとうときんせんこうせんを願ってだいしょうにんさまこうようとしてささげまいらせる。
 このごころは必ずだいしょうにんさまつうじて、そのどくは必ず我が身にかえるのであります。


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