『上野殿御返事』に宣給わく
貴辺はすでに法華経の行者に似させ給へる事、さるの人に似、もちゐの月に似たるがごとし。
あつわらの者どものかくをしませ給へる事は承平の将門・天喜の貞当のやうに此の国の者どもは思いて候ぞ。
これひとへに法華経に命をすつるが故なり。全く主君に背く人とは天御覧あらじ。
其の上、わづかの小郷に多くの公事せめあてられて、我が身は乗るべき馬なし、妻子にはひきかくべき衣なし。
かかる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食ともしかるらんと思ひやらせ給ひてぜに一貫をくらせ給ひけるは、貧女がめおとこ二人して一つの衣をきたりしを乞食に与へ、りだが合子の中なりしひえを辟支仏に与えたりしがごとし。たうとし、たうとし。
只今全顕正会員の広布御供養の目録を謹んで御宝前に供え奉り、全顕正会員の真心を大聖人様に謹んで奉告申し上げました。
そして、例年とは異なりまして本日の広布御供養奉告勤行会はちょうど日曜日に当たっておりまして、全国の会館に顕正会員が多く参詣しております。
よって、広布御供養にちなんで『上野殿御返事』の一節を拝読したいと思っております。
上野殿は、若くして父上の跡を継いで地頭になられた方ですね。
その領地は、今大石寺がありまする上野郷一帯であります。
で、この上野郷のすぐ側にあの熱原の郷があり、日興上人の教化折伏によって熱原の法華講衆が出現した所でありまするが、この熱原の方々は常日頃からこの若き地頭の上野殿を非常に頼りにしておったという事でありました。
この上野殿は信心も父親から譲られている。
父上は鎌倉に仕える武士であって、本丸は三重県の方にありまするが、領地がまた一つ鎌倉にあって、そこにいる時に大聖人様にお目にかかって深い帰依の心を持ったんですね。
しかし、壮年にして亡くなられまして、その跡を継いで上野殿が地頭になられた。
上野殿の性格は極めて温厚であります。
しかし、信心は身命も惜しまぬというその金剛信を持っておられたお方であります。
この御書を賜わったのは弘安3年の10月であります。
ちょうど熱原の大法難が起こった翌年の事でありまするが、この時はまだ法難の余波がくすぶって大変な激動の時でありました。
熱原の法華講衆が理不尽な冤罪によって弾圧されて、そして、逮捕されて鎌倉に送られた。
その時に、この上野殿は地頭の立場でもって逮捕された熱原の方々の家族を励まして、さらに、なお追われているそういう人達を庇ったんですね。
その当時、浅間神社の神主が何と大聖人様に帰依をした。その事によって追われた。
その神主を我が屋敷に匿ったという事までされて、とにかく力の及ぶ限り熱原の方々を守ったんです。
で幕府にとって見ればこの事が「幕府に背くのか」というような事で睨まれぬはずはない。
ことに、これを取り扱った者は平左衛門でありまするから、この平左衛門が大いに憎んだんですね。
ですから、上野殿の地頭の立場というのはいわゆる鎌倉幕府に仕える御家人として領地を賜わっているその地頭でありますから、極めてこういう事は危険であり、もしもの時には所領没収、いやそれだけでは済まないで「幕府に背く」という事でもって打ち首というような事もある。
しかし、覚悟のうえで敢えて表に立って熱原の方々を守ったという事であります。
でしかもその激動の中に、上野殿は常に身延山中にまします大聖人様の御身を案じては、身を削る供養をずーっと続け貫き通されたというお方であります。
ですから、只今の御書を拝読しても、その大聖人様の御筆に表われている上野殿の真心を拝見すれば涙が出てまいります。
「貴辺はすでに法華経の行者に似させ給へる事、さるの人に似、もちゐの月に似たるがごとし。
あつわらの者どものかくをしませ給へる事は承平の将門・天喜の貞当のやうに此の国の者どもは思いて候ぞ。
これひとへに法華経に命をすつるが故なり。全く主君に背く人とは天御覧あらじ」
大聖人の御眼から見て「上野殿はすでに法華経の行者に似ている」とおっしゃるんです。
その似ている様を「猿が人に似て、丸いお餅が月に似ているがごとくである」という事は、この当時の上野殿はまだわずか22,3歳ですね。
けれども「その若き上野殿が大聖人様の信仰を貫いて、命も惜しまぬその信心の深さが大聖人様の真の弟子、仏弟子である」という事を大聖人様はここにお述べになられたんです。
そして、熱原の法華講衆の方々を力の及ぶ限り地頭として庇ったという事を承平の将門・天喜の貞当の様に人々は思っている。
平将門というのは関東地方における豪族ですね。
そして、京都の天子の命に従わない事もあった。
そして地元の人々に尽くしたんで地元の人々からは大変慕われた。
安倍貞当も同じような者であります。
みんなその国の領民というのはその人を慕ったという事であります。
駿河の熱原の一帯の法華講衆の人達は、信心の柱としてこの若き上野殿を頼ってたんですね。
その事を仰せになって
「法華講衆を身をもって庇った事は、幕府に反抗するような心ではないのだ。
大聖人様の仏法を大事に思い立てる。そのために命を捨ててもよろしいという事からの決意を具わったのであって、決して幕府に背く気持ちはない。
全く主君に背く人とは諸天もこの事は見ないに違いない」と。
「其の上、わづかの小郷に多くの公事せめあてられて、我が身は乗るべき馬なし、妻子にはひきかくべき衣なし」
このように、幕府に睨まれておりまするから、地頭と言ってもその領地は極めて狭いその小さな郷に不当の税金を責め当てられた。
よって、地頭とは言いながら、自分は乗るべき馬もない。また、女房・子供には着せるべき着物もない。
「かかる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食ともしかるらんと思ひやらせ給ひてぜに一貫をくらせ給ひけるは、貧女がめおとこ二人して一つの衣をきたりしを乞食に与へ、りだが合子の中なりしひえを辟支仏に与えたりしがごとし。たうとし、たうとし」
「このように馬もないし妻子に着せるべき着物もない。
このような不当の税金によって困窮した中においても『大聖人様が身延山中の雪に責められ、食も乏しいのではないか』とこういう事を思いやって銭一貫を御供養せられた。
その志というものは、ちょうど仏法の経典の中にありますように、ある貧しい女人が夫婦二人してたった一つしか着る物がなくて夫婦二人でその着物を着ておったその着物を、寒さに凍えたる仏道修行者である乞食に与えた。
またある猟師は、同じく自分が食べる一椀しかない稗を、たまたま辟支仏に与えた。
この辟支仏というのは縁覚界ですから、釈尊の弟子としては非常に位が低い。
しかし、その辟支仏に自分の食べるべきたった一椀の稗を与えてしまった。
このようなものであるから尊し、尊し」
と仰せになっておられる。
これが、上野殿の大聖人様に仕え奉るお心でありました。
そして、今顕正会員は大聖人様の御在世に生まれ合わせる事はできませんでした。
しかし、大聖人様の熱願あそばす事の広宣流布の前夜に生まれ合わせたんです。
そして、国中が大聖人様の仏法に背くがゆえに、今まさに国が立ち行かなくなる。
そういうような事態を私達は今眼前にしております。
その中に、全顕正会員は倦まず弛まず一筋に死身弘法をしております。
そして、その中に、決してあり余っているお金ではない尊い金銭を広宣流布を願って大聖人様に広布御供養として捧げまいらせる。
この真心は必ず大聖人様に通じて、その功徳は必ず我が身に返るのであります。
平成26年 12月28日 広布御供養奉告勤行会 浅井先生指導
令和7年 12月28日 広布御供養奉告勤行会 浅井会長御挨拶
令和8年 元旦勤行における浅井会長指導