話はわります。
 本年の年明け早々、だい遺命ゆいめいしゅの戦いの当時、せんせいの下で法廷ほうてい闘争とうそう尽力じんりょくした妙信講のもともんべんせんせい逝去せいきょを知り弔問ちょうもんに訪れました。
 この人は、せんせいより10歳ほど若く、現在80代前半の現役のべんであります。
 ちなみにこの「法廷ほうてい闘争とうそう」とは解散かいさん処分しょぶんを受けても微動だにしない妙信講(現在の顕正会)を何としても潰さんとするいけだいさくが妙信講の命ともいうべきほん会館かいかんだい本尊ほんぞんを奪取せんと仕掛けてきた非道なさいばんで、あさせんせいだい本尊ほんぞんをお守りするためおうのごときはくがっかいべんだんと戦われたのであります。
 そのべんは、昭和50年代に法廷ほうてい闘争とうそうが決着した後は顕正会の法務に携わってはおりませんでしたが、その当時からせんせいの御しんじん・御人格に心から敬服けいふくしており、せんせい逝去せいきょされるまで欠かす事無く必ず年に一度高級な蝶蘭ちょうらんを贈り続けておりました。
 せんせいは、そのりちさをいつも感心しておられました。
 私は、そのべんとお会いしたのは初めてでしたので少しく話をいたしました。
 その際べんは当時のことを振り返りながらこのように述べておりました。

 「あさせんせい日蓮にちれんだい聖人しょうにんの一番のおです。
 『日蓮にちれんだい聖人しょうにんはいかにおおせられるか』とせんせいはいつもそのことだけをかんがえて行動しておられた。
 せんせい逝去せいきょされたという感覚が私にはまったかない。
 今なおあさせんせいの凄い力が顕正会をぐんぐん引っ張っているように感じてならない。
 生と死のさかいのない人を私は生まれて初めて見た」とまるで顕正会員のような所感しょかん縷々るるべてきました。

 聞けば、最寄り駅で配布している顕正会員から顕正新聞特集号等を何度か受け取っており、それをべんしょの壁に貼っているとっておりました。
 後日弔問ちょうもんのお礼を兼ねて私はそのべんの所に挨拶あいさつおもむきました。
 その時べんはこれまでにせんせいから送られてきた数々のお手紙や、法廷ほうてい闘争とうそうが決着した際にせんせいがそのべんに寄贈された記念品を嬉しそうに私に見せてくれました。
 その記念品には筆文字で「法廷ほうてい闘争とうそう決着けっちゃくねん 妙信講講頭 あさしょう」と大書たいしょされておりました。
 そのお文字を見ては、法廷ほうてい闘争とうそうの決着をお喜びになったせんせいのお心が強く命に迫り、胸に熱き物がげてまいりました。
 この法廷ほうてい闘争とうそうについてそこに至る経緯を少しく説明いたします。
 正本堂しょうほんどうらくせい直前の昭和47年10月3日、せんせいとの法論で屈伏したがっかい和泉いずみさとるちょうの名をもって正本堂しょうほんどう誑惑おうわく訂正ていせいする一文を聖教新聞に掲載しました。
 しばらくして、がっかい首脳がせんせいの御自宅を訪れ、正本堂しょうほんどうらくせいしきの招待状を持ってきて「是非正本堂しょうほんどうらくせいしきに参列してください」と申し出てきたことせんせいからうかがったことがあります。
 せんせいは、その後の諌暁を見据え懐柔策かいじゅうさくろうするがっかいの誘惑を拒絶されました。
 まさしく、上行じょうぎょうさつ上首じょうしゅとする地涌じゆさつの徳を讃嘆したぜんけんほうにょれんざいすいけんほうまらざることれんみずるがごとし)」の姿そのものとはいします。
 その際せんせい「今はがっかいの誠意を静かに見守りたい。もし万一にも不実ならば、その時は妙信講の命運を賭して立つ」べられ、せんりょうようの構えで翌昭和48年12月に妙信講の根城となるべきほん会館かいかんを東京板橋に建てられたのでした。
 このらくせいにゅうぶつしきには松本まつもと日仁にちじん尊能そんのうが妙信講の大法弘通を期して「妙縁みょうえん重宝」の脇書がある第六十世日開にちかい上人しょうにん御書写のだい本尊ほんぞんみずほうし、たてまつってくださったのでした。
 このだい本尊ほんぞんは現在の東京会館かいかんにおけしてあるだい本尊ほんぞんであります。
 さかのぼる昭和45年に共産党の谷口たにぐちぜんろう代議士から「国立こくりつ戒壇かいだんは憲法違反のうたがいがある」むねの質問主意書が衆議院選挙に提出され、政府からがっかい国立こくりつ戒壇かいだんについての照会しょうかいがありました。
 これに対しがっかいは「現在建設けんせつ中の正本堂しょうほんどうだい遺命ゆいめい戒壇かいだんに当たる」として国立こくりつ戒壇かいだんを否定する公式回答書を出したのであります。
 このまんが妙信講の主張により露見することいけだいさくもっとも恐れておりました。
 せんせいは、昭和49年7月に明治公園に3千名を結集して立正安国野外集会をひらき、決議文をもっていけだいさくに「8月15日までに国立こくりつ戒壇かいだんを否定した政府へのまん回答を撤回せよ。さもなければ、妙信講が政府に対し訂正ていせいをする」とせまられました。
 これを見たいけだいさくは「もう妙信講を抹殺しなければ正本堂しょうほんどうまん誑惑おうわくは国中に露見する」と恐れ、ついにほそにったつをして妙信講に解散かいさん処分しょぶんくださしめたのでした。昭和49年8月12日のことであります。
 しかし、死罪に等しい解散かいさん処分しょぶんこうるもかえって結束を強め、遥拝勤行による死身弘法を展開し、まったく微動だにしない妙信講の壊滅を策してがっかい・宗門は嵐のような弾圧をくわえてきたのであります。
 全妙信講員の所にほそにったつの「元妙信講員の皆様へ」という「所属替えをしなければ正宗信徒の資格をうしなう」と脅す直筆の手紙が届いたり、解散かいさん処分しょぶんを宣伝する宗門法華講連合会の機関誌が送り付けられたり、がっかい青年部・法華講青年部が妙信講員宅を回り組織の切り崩しをはかったり、あるいは、妙信講ほんに盗聴器が仕掛けられたこともありました。
 また、せんせいに対する尾行、広報車こうほうしゃの破壊、女子部幹部宅への嫌がらせ電話などはにちじょうはんいけだいさくはあらゆる謀略を構えてきたのであります。
 それでもいささかも揺るがない妙信講の鉄の団結を見たいけだいさくは「妙信講の命というべきほん会館かいかんだい本尊ほんぞんを奪取すれば妙信講の息の根を止めることができる」ともくみ「返還請求に応じなければ法的措置を取る」との松本まつもと日仁にちじん尊能そんのう名義の署名を送ってきたのであります。
 もちろん、これは松本まつもと日仁にちじん尊能そんのうの意思ではなく、ほそにったつと阿部総監代務者が署名を強要したものでした。
 そこでせんせいは、ほん会館かいかんだい本尊ほんぞんいけだいさくの魔の手から守るためにやむなく法廷ほうてい闘争とうそうに立たれたのであります。
 以上が簡略かんりゃくな経緯であります。
 話を戻しますが、そのべんは妙信講のもんべんとして活動する中で目にしてきたあらゆる事柄ことがらについて「せんせい逝去せいきょされた今、当時のことを知っているのは私だけでしょうからすべてをあなたに伝えておきたい」とわざわざあらかじめその内容をノートに書き記し、諄々じゅんじゅんと私に話してくれました。
 あさせんせいと最初にお会いした時のこと妙縁みょうえんどうきょう

 

だった松本まつもと日仁にちじん尊能そんのうをお守りするためにがっかいべんらが寺内を陣取る妙縁みょうえんおもむいた時のこと、そして、法廷ほうてい闘争とうそうに関する様々なことを克明に教えてくれました。
 中でも、べん尋問じんもんにおけるせんせいの証言のすさまじさを嬉々ききとして語っておりました。
 せんせいの証言を聞いていたさいばんちょう尋問じんもん期日の度にせんせいの証言を聞くのが楽しみになり、また、次の証言が聞きたくなり、何回も尋問じんもん期日をもうけてくれたそうです。
 べんうには「べんを50年間続けてきたが、このようなさいばんちょうの対応はあのさいばん以外に見たことがない」とべておりました。
 さらにはこうもっておりました。
 「せんせいの証言を聞いたさいばんちょうが『あたかも日蓮にちれんだい聖人しょうにん辻説法つじせっぽうを聞いているみたいで感激した』と感想を漏らしていた」と。
 そして、がっかいべんだんの責任者をしていた山崎正友という当時のがっかいもんべんの動向から、あさせんせいいけだいさくの心理までも読み取られ、さいばんの落としどころを見極められ、そのするどり方にべん脱帽だつぼうしておりました。
 せんせいがこのさいばんもっとも懸念しておられたことさいばんちょうどろぬまでありました。
 もし一審で勝っても高裁こうさい最高裁さいこうさいまで争えばちょうかんせんせい法廷ほうてい闘争とうそうに縛られて身動きが取れなくなり、だい遺命ゆいめいしゅの次なる戦いを進めることができなくなるためです。
 高裁こうさい最高裁さいこうさいでの最終決着に至るまでほん会館かいかんだい本尊ほんぞんは安泰ではない。
 仮におかしなさいばんかんに当たったら、仏法ぶっぽうじょうの道理はいかに正しくても法律的には負けるかもしれず、そしたら、ほん会館かいかんだい本尊ほんぞんは奪われてしまう。
 そのようにせんせいはおかんがえであったところ、せんせいにを身をすくめたがっかいべんだんさいばんの取り下げを申し入れ、その末に「今後二度とこの問題でしょうを起こすことはしない」などと顕正会側の主張をすべて吞む形で決着したのであります。
 その直後の総幹そうかんかいせんせいはこのようにどうくださいました。

 「今度のさいばんでいろいろな不思議ふしぎを感じたことがあったが、その1つは、良きさいばんちょうにお会いできたということである。
 4月20日、すべことを終えた後、二人のもんべんに付き添われて私はさいばんちょうあいさつに上がった。一言お礼がいたかったからである。
 さいばんちょうに『直接さいばんに関係のないとおもわれる教義上のことをかくも長時間忍耐にんたい強くお聞きくださり感謝にえません。さぞや退屈されたでしょう』と申したところ、さいばんちょうわれるには『自分はさいばんかんとなって27年、これほど時間をかけた大きなさいばんもなかったが、これほど感動に満ちたさいばんもなかった。また、これ以上の解決もありなかった』とってくれた。
 聞けば、さいばんちょうは鎌倉の生まれで、日朗にちろうれられたろう、あるいはまつ葉ヶばがやつ庵室あんしつの近くで育ち、だい聖人しょうにんの御人格を昔よりしのんでいたという。
 『今回のさいばんで、はからずもまことに良き勉強をさせていただいた』ともわれた。
 そしてさらに、法廷ほうていにおいてしばしば妙信講側の傍聴席ぼうちょうせきに歓声が起きたり、ざわめきがあったが、私はあえて制止をしなかった。
 それは『これがさいばんの妨害を意図いとするものではなく、宗教的感動の表われてあると分かっていたからである』と。
 また『あなたの証言を聞いているうちに、私も危うくしゃくぶくされそうになった』と(大笑)。
 『この問題が将来どのようになっていくか重大な関心を持って見守りたい』とも最後にわれていた」と。

 これは、せんせいからうかがったことですが、7人のがっかいべんだんが死力を尽くして尋問じんもんに挑むも、大刀をもって瓜を砕くがごとくおうのごときはくで臨まれたせんせいの前にがっかいべんだんは手足すくみ、ある時などは寒い冬にもかかわらず脂汗あぶらあせをだらだらと流すがっかいべんを見たさいばんちょうが「窓をけなさい」と指示しじしたこともあったと。
 そして、ついに最後の期日ではがっかいべんだん尋問じんもんの続行が不可能となり、3時間の持ち時間を1時間で終え、がっかいがわさいばんを取り下げたのでした。
 せんせいの主張が正しい仏法ぶっぽうの道理にもとづくものであり、またそれが虎の咆哮ほうこうのごとくいかにすさまじきはくであったのかを拝察はいさついたしました。
 べんの貴重な話を聞きながら、私はの想像すら及ばぬせんせいの凄まじい激闘の一端を垣間見るおもいとなっては、感動で胸がいっぱいになりました。
 同時に、法廷ほうてい闘争とうそうに限って見ただけでも、せんせいの戦いにともな不思議ふしぎだい聖人しょうにんさま厳然げんぜんたるしゅを痛感せずにはいられませんでした。
 すなわち、せんせいを心からおしたいするべんが付いたことを始め、幼い頃から日蓮にちれんだい聖人しょうにんの御人格をしのぶ良きさいばんちょうさいばんを担当したこと、また、妙縁みょうえん重宝のだい本尊ほんぞんを授与してくださった松本まつもと日仁にちじん尊能そんのうがこのさいばんを有利に進めるべく「このだい本尊ほんぞん妙縁みょうえん住職として確かに妙信講に授与したものである」との一通の文書を書いてくださったこと
 さらに、松本まつもと日仁にちじん尊能そんのう妙縁みょうえんから追い出した償いとして、後の典礼院てんれいいんとなる顕正寺を建ててくれたこと
 何より、このさいばんにおけるせんせいの証言を巡り、がっかいと宗門の間で深刻な自界叛逆が起こり、がっかい・宗門一体となった嵐のごとき攻撃はこのさいばんを機に急速におとろえ、攻守その所を変えたことなど。
 これら数々の不思議ふしぎを拝しては仏様ほとけさまを命かけて守りたてまつる者はかえって仏様ほとけさまに守られる」という鳩摩羅くまらえん三蔵さんぞう故事こじおもい起こされました。


山口会館御入仏式 浅井会長指導