さて、本日お出ましの大御本尊様は富士大石寺第五十五世日布上人が唯授一人の相承の心血を傾けて書写あそばされた大御本尊であります。
大御本尊の脇書には「之を書写し奉る」とのおしたためがあります。
「之を」とは戒壇の大御本尊の御事であります。
唯授一人の御相承をもって日布上人が大聖人出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊を書写し奉られたのであります。
日蓮大聖人の御生命・お悟りの全体を文字をもって顕わし奉れば南無妙法蓮華経の大御本尊になります。
されば、この大御本尊を即富士大石寺にまします戒壇の大御本尊、即生身の日蓮大聖人と深く信じまいらせ『お慕わしい』『有難い』との思いで南無妙法蓮華経と唱えるこの情感あふれる信心口唱こそ大御本尊様から功徳を頂くただ一つの方法であり、凡夫が仏にならせて頂く唯一の道なのであります。
ゆえに日寛上人は『当流行事抄』に
「是れ我が家の最深秘、蓮祖化導の一大事なり」
すなわち「恋慕渇仰の信心口唱こそ日蓮大聖人の下種仏法の家の最深秘(最も深い秘法)であり、日蓮大聖人の御化導の一大事である」と御指南下さっておられます。
日蓮大聖人が久遠元初以来お積みになられたなられたあらゆる功徳は全てこの大御本尊様に具わっている。
ゆえに、私達がこの大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉るならば、大聖人様はその功徳を全て私達に譲り与えて下さる。だから、我ら凡夫が成仏させて頂ける。
この秘法こそ恋慕渇仰の信心口唱なのであります。
さらに、日寛上人は同じく『当流行事抄』において私達が唱え奉る本門の題目と大御本尊と日蓮大聖人の関係について次のごとくお示し下されております。
「我等が唱え奉る処の本門の題目、其の体何者ぞや。云く、本門の大本尊是れなり。
本門の大本尊其の体何者ぞや、云く、蓮祖大聖人是れなり」と。
先生は、この御指南について「『六巻抄』の肝心の極理、まさに、当流秘法の御法門」あるいは「御相承に基づく重大御法門」と仰せ下さっておられます。
あまりのもったいなさ、畏れ多さに五体が打ち震えてまいります。もう一度申します。
「我等が唱え奉る処の本門の題目、其の体何者ぞや。云く、本門の大本尊是れなり。
本門の大本尊其の体何者ぞや、云く、蓮祖大聖人是れなり」と。
身延などの邪宗日蓮宗や霊友会・立正佼成会なども南無妙法蓮華経と唱えてはいるものの、彼らには南無妙法蓮華経の体が何かわからない。
ゆえに、あるいは釈迦仏や竜神・鬼子母神などに向かって題目を唱えたり、あるいは「先祖供養のために」と言って題目を唱える。
このような者はその体を知らないから、題目を唱えながら地獄に堕つるのであります。
そして、今や戒壇の大御本尊を捨て奉った学会もこれらと全く同じであります。
私達が唱え奉る本門の題目の体とは何か。
それは、本門の大本尊すなわち大聖人出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊であられる。
では、本門戒壇の大御本尊の体とは何か、それは実に日蓮大聖人にてまします。何と重大な御指南でありましょうか。
今私達が戒壇の大御本尊に向かい奉って日蓮大聖人の仏法上の御名である南無妙法蓮華経を『お慕わしい』『有難い』との恋慕渇仰の思いで唱え奉れば「名は必ず体に至る徳あり」で直ちに戒壇の大御本尊・日蓮大聖人に通じて一体となり、凡夫が仏にならせて頂けるのであります。
ゆえに日寛上人は『観心本尊抄文段』に
「我等此の本尊を信受して南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」
とまことに口にするのももったいない御指南を下さっております。
されば、折に触れ機に触れてこの山口会館に参詣しては『お慕わしい』『有難い』との恋慕渇仰の信心口唱に励み、それを人にも教える折伏を実践していく事が大事であります。
山口会館御入仏式 浅井会長指導