で、次にさい

いのちかぎり。おしからず。ついねがきは仏国ぶっこくなり

「命にはかぎりがあるのだ。惜しんではならない。その命を仏国ぶっこくのためにてよ。
 そしてついに願うべきはぶっるべきことではないか。じょうぶつではないか」

ということおおせになっておられる。
 まことに、たつくち御頸おんくびの座においておん元初がんじょじゅ用身ゆうじんと顕われ給うただいしょうにんさまおおせられた

いのちかぎり。おしからず。ついねがきは仏国ぶっこくなり

とのおことが何と重きことよ。
 そして、何と清み切った崇高すうこうしんじょうであられるか。ただひれすばかりであります。

 「いのちかぎり。おしからず」

 まことにおおせのごとくでありまして、人の命(寿じゅみょう)には限りがありますよ。
 どんなに「死ぬのが嫌だ、死ぬのが嫌だ」といって逃げ回って命をしもうとも必ず限りがあって全部の人が1回はななければならない。
 そこでだいしょうにんさまは『佐渡さどしょ』におおせになっておられるんですね。
 「一度は死ぬ命、これを仏法ぶっぽうのために惜しまぬ者はほとけになる。
 仏法ぶっぽうのためにしんみょうも惜しまぬ者は必ず仏になる。
 ただし、人は世間の浅きことにはしんみょううしなうとも、だい仏法ぶっぽうのためには捨てる者はいない。ゆえに、仏になる者もないんだ」
ということおおせになっておられる。
 本当なんです、ぼんというのは死ぬのが怖いから、おくびょうであるからみんな一日でも一時間でも長く長くきようとする。
 そういう人生じんせいを送って死を恐れるわけでありまするが、世間の浅きことには簡単に自分の命をてるっていうんです。
 どういうことか、どんじん三毒さんどくですね。
 自分の愛欲あいよくのためには人を殺したり、あるいは自分が死ぬこともあるだろうし、あるいは金儲けのためには自分の寿じゅみょうちぢめる。
 あるいは人を殺すということもあるだろうし、いかりのためにはかっとなってその時には命も惜しまないというこういうじょうじょうたいになって命をまつにすることはいくらでもあるというんです。
 あるいは、愚癡ぐちのために命を捨てる。
 これは、やく覚醒剤かくせいざいなどそういう物をやれば人生じんせいの終わりになる。廃人はいじんになる。
 これを知りながらも覚醒剤かくせいざいやくに手を染める者もある。
 このように、ぼんというのはおくびょうであるけれども、魚がえさにばかされてばりを飲むように、人間にんげんはみんなどんじん三毒さんどくに自分がたぶらかされて、惜しみながらその命をてていくものである。
 「浅きことにはすぐ命を捨てる。けれども、だい仏法ぶっぽうのために命も惜しまないというこのだいせい大道念だいどうねんを起こす者はいない。よって、仏になる者もないのである」とおおせになっておられるんですね。
 でこのだいちゅうというのは永遠えいえんですよ。げんかんである。
 そのだいちゅうの中にしょうを繰り返している自分達の命もこれまた永遠えいえんである。
 でこの永遠えいえんの命をおもう時、生まれてから死ぬまでのこの一生というのはまことにみじかいんですね。
 あっという間にすうじゅうねん過ぎてしまう。
 もしこれでもって一回死んでしまったら、いつの日にかまたふたた人間にんげんと生まれて仏法ぶっぽうに遭うことができるであろうか。
 もし悪道あくどうすれば長い間苦しまなければならない。
 そうなると、このみじかい一生のうちにじょうぶつる。
 これこそ何よりだいであり、これこそ人生じんせい目的もくてきでなければいけない。
 そこにだいしょうにんさまいのちかぎり。おしからず」おおせになっておられるんですね。
 ですから、100歳までたとえ生きたとしても、人の命というのは100歳までいったって永遠えいえんの命に比べればしゅんかんでしょう。
 「若死にした。あの人はみじかいね」といったって100歳まで生きるのも、40歳で死ぬのもそんなものははないんですよ。
 問題もんだいは、じょうぶつできるかどうか。このことこそ問題もんだいなのであるということなのです。
 そうでしょう、だから、100歳まで生きたって本当に念仏ねんぶつを唱えて真っ黒になって死んだんじゃ何にもならないではないか。
 たとえ若くしてじょうごうでもって死んだとしても、じょうぶつを遂げたならばそれはりっ人生じんせいであるということなのです。


平成24年 10月7日 浅井先生指導