そして、その短い御書の最後の末文に仰せられたのが只今の御文ですね。
「流罪の事、痛く歎かせ給ふべからず。
勧持品に云く、不軽品に云く。『命限り有り。惜む可からず。遂に願う可きは仏国也』」
「この佐渡流罪の事を深く歎くには及ばない」と
そして、この佐渡流罪の意義を「勧持品に云く、不軽品に云く」と題名だけを挙げておられます。
どういう事か。勧持品には釈尊が「上行菩薩が末法に出現して南無妙法蓮華経を弘めるならば、このような大難に遭うであろう」というその大難の姿を予言しているんですね。
これには3つあって、1つには「悪口罵詈」といって国中の者が悪口を言って罵る。
そして、次には「及加刀杖(刀杖に及ばん)」といって刀でもって切られ、杖でもって打たれる事があるであろう。
もう一つ「数数見擯出(数数擯出せられる)」といってしばしば流罪されるとこういう事なんですね。
どうですか、大聖人様の悪口罵詈というのは立宗の初めからずーっと国中の者が邪法の僧のたばかりによってみんな大聖人様を憎んで悪口を言った。
それから「刀杖に及ばん」というのは、大聖人様が竜の口の時に、大聖人様を逮捕に来た時に少輔房という退転の坊主が平左衛門の手下になって、何と何と、大聖人様が懐におしまいしておられた法華経第五の巻の巻物を取って大聖人様の頭を打ち奉っているんですよ。これまさに「杖で打たれた」という事でしょう。
そして「刀で切られる」という事は、竜の口の頸の座の事であります。
ですから「刀杖に及ばん」という事も、大聖人様は身でもってお読みになった。
では「数数擯出せられん」(二度以上度々流罪せられる)という事は、伊豆でもって一回、もう一つなければ勧持品の経文に合わない。
「その二度目がすなわちこの佐渡流罪なんだ」という事なんです。
まさしくこの佐渡に流罪されて「数数見擯出」の勧持品の経文を全て身でもって読んだ。
これは大聖人様が上行菩薩という事の証明であります。
そのように、佐渡の御流罪には重大な意味があるという事。
そして「不軽品に云く」というのは、これは、私達凡夫に約して仰せ下されたんですね。
不軽品には「其罪畢已(其の罪已え畢って)」という言葉がある。
これは「過去に無量の謗法の罪障があろうとも、大難を受けるならば、その大難を受ける事によって無量の罪障が消滅して大利益を受けるんだ」という事が不軽品に説かれておる。
ですから「今大聖人様の流罪は少しも嘆くには当たらない」とこう凡夫に約して私達に教えて下さった。
平成24年 10月7日 浅井先生指導