そして、極限の大謗法から9年を経て、学会は池田大作の死亡を発表した日に発刊した今般の教学要綱において「日蓮大聖人が久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏」であられる事をも否定したのであります。その内容について詳しく説明します。
例えばこの本には日蓮大聖人のお立場について、外用・内証の辺じて、一応は上行菩薩と末法の御本仏とを書いてはおりますが、その内容たるや驚くべきものであります。
まず「竜の口の大法難、佐渡御流罪という大難を乗り越える中に、大聖人は境界の大転換を果たされた」として「外用の辺である上行菩薩の使命を自覚した」と述べてはいるものの、内証深秘の辺である久遠元初の自受用身としての御成道の意義については一切触れておりません。
しかも、その書きぶりも「上行菩薩の再誕」とも断定せず「上行菩薩としての役割を果たす立場」とか「上行菩薩としての使命を果たされたものであると解釈できる」などとの腰の引けた記述に留め、世間に阿っております。
なぜ竜の口大法難における久遠元初の自受用身の御成道の重大意義を隠すのでしょうか。
『開目抄』に仰せ給う
「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸刎ねられぬ」
の御文について日寛上人は
「此の文の元意は、蓮祖大聖、名字凡夫の御身の当体、全く此れ久遠元初の自受用身となり給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕われ給う明文なり」
とその深意を御指南下されております。
世間に阿諛迎合する学会においてはあくまで仏教の始まりは釈尊で、それよりも根源の仏である久遠元初の自受用身の存在が不都合なのであります。
そして、末法の御本仏の意義については曖昧模糊として一見してよくわからない説明をしております。
すなわち「末法の万人成仏の法を明かした教主であるという意義から、大聖人を『末法の御本仏』と仰ぐのである。またそうした尊崇の意味を込め『大聖人』と尊称している」と。
一応大聖人様を「末法の御本仏」とは呼称しているものの、実はこの「御本仏」という言葉の意味を全くの別物に変えてしまったのです。
どのように変えたのかというと、本書の巻末の注釈には次のように記されております。
「日蓮正宗の教義では『御本仏』という表現には『日蓮大聖人が根本の仏であり、久遠実成の釈尊もその仮現(仮に現われる)・垂迹である』という元意があるが、創価学会では『末法という現在において、現実に人々を救う教えを説いた仏』という意味で大聖人を『末法の御本仏』と尊称する」と。
繰り返します「日蓮正宗の教義では『御本仏』という表現には『日蓮大聖人が根本の仏であり、久遠実成の釈尊もその仮現(仮に現われる)・垂迹である』という元意があるが、創価学会では『末法という現在において、現実に人々を救う教えを説いた仏』という意味で大聖人を『末法の御本仏』と尊称する」と。
世間に阿って釈尊・法華経を中心とした学会は、何と五百塵点劫を遡る事復倍上数・久々遠々の久遠元初における最初の仏である久遠元初の自受用身を本仏とするその下種の化導を完全に隠してしまったのであります。
ここに、学会の本音が現われておりますが、これ摧尊入卑の極みであります。
この意味するところは「日蓮大聖人が三世十方の諸仏である根源の一仏である久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏にてまします」事の否定に他なりません。
まさしくこれこそ学会が邪教化した事を決定づける重大な教義改変であります。
令和6年 1月24日 1月度 総幹部会 浅井会長指導